77.白衣の異端医
関東の人間が書く大阪弁なので、若干ニュアンスおかしい部分があるかもしれません。
あと、1章読まなくてもある程度読めるようにするので、説明がくどい部分があると思います。
最初に見えたのは、白い天井だった。
病院みたいだと思ったのは多分匂いのせいだ。消毒液のツンとした気配が鼻の奥に残っており、乾いた喉にまで染みてくる。視界はまだ少し霞んでいて光だけが先に目に入った。眩しいというより、白さがじわじわ染みてくる感じだった。
それから、鼻歌が聞こえた。
妙に機嫌のいい小さな歌だった。何かが楽しくて仕方ないように勝手に節をつけているだけのものであった。静かな部屋の中だとそれがやけに目立つ。私は重い瞼を瞬かせたまま、足元の方へゆっくり視線を落とす。
ベッドの先には椅子に座った男の人がいた。
白衣を着ていて、脚を組んだまま本を読んでいる。ページをめくる手つきまで落ち着いていて、こっちが起きるかどうかなんて別に気にしていなさそうだった。鼻歌までつけているあたり本気で読書を楽しんでいる。知らない顔だった。少なくとも、私の知っている誰でもない。
――その違和感を掴む前に、喉の痛みが意識を攫っていく。
乾いているなんて言葉で済ませていい感じではなかった。声を出そうとしただけで内側がひりついて、舌までざらついている気がする。唇を少し動かしたみたが、最初は音にならなかった。息だけが掠れて喉の奥で引っかかる。
「あ、あ……」
やっとそれだけ絞り出すと鼻歌がぴたりと止まった。
男の人が弾かれたみたいに顔を上げる。本が閉じる音がして椅子が床を擦った。次の瞬間には、ぱっと立ち上がってこちらへ来る。
「なんや、起きたか! ビビったわあ」
驚いているのに声色はどこか軽い。私はそれにちゃんと返す余裕もなく、とにかく喉に手をやりたくなるのを堪えながらかすれた声で言った。
「み、水……」
「ああ、せやな。そらそうやな。ちょい待ち」
男の人は慌てたようでいて動き自体は妙に手慣れていた。ベッドの脇に回ってくると、片手を私の背中に差し入れてもう片方で肩を支える。急ではないゆっくりした力だったので、そのまま身体を起こされても嫌な痛みは少なかった。頭が少しふらついて視界の端がまた白く滲む。
「一気に飲んだらあかんで。ほんまにちょっとずつな」
透明なコップが口元に寄せられる。水が見えただけで泣きそうになった。私は言われた通り少しだけ口に含む。ぬるくも冷たくもない温度の水が、ひりつく喉をゆっくり通っていく。たったそれだけなのに、胸の奥までほどけるみたいだった。
もう一口。さらにもう一口。
喉の内側に貼りついていた痛みが少しずつ剥がれていき、息がまともに落ち着いてくる。握っていたシーツの皺も、気づけば少し緩んでいた。男の人はその間ずっと急かさず、でも飲ませすぎないようにきちんと見ていた。見た目よりずっとちゃんとしているのかもしれない、と思う。
「……大丈夫そうか?」
私は小さく頷いた。
それだけで酷く疲れて、ベッドの背にもたれるみたいに力を抜く。身体がまだ自分のものじゃないみたいに重い。けれど、水を飲んだだけでさっきより少しだけ世界に戻ってきた感じがあった。消毒液の匂いも蛍光灯の白さも足元に立っているその人の気配も、ちゃんと輪郭を持ってこちらへ来る。
私は乾いた唇を舌先で濡らしてから、目の前の男の人を見上げた。
「あなたは……」
そこまで言うと、相手は待ってましたみたいな顔をした。
「ああ、自己紹介な。そら要るわな。いきなり知らんジジイが足元おったら怖いやろし」
そう言って、彼は手に持っていたコップを脇の台に置き、えらく素直な仕草で胸に手を当てた。どこか芝居がかっているのに、本人は自然にやっている。
「僕はパケラス。まあ発音とか表記は色々あるんやけど、そこは各自ええ感じに折り合いつけてもろて。名前の由来まで話し出すと長いし、作者も多分そこまで親切やない。医術や解剖や、そのへんに縁のある名やと思っといてくれたら大体合ってる。せやから一応ここでは医者役や。役いうても、免許はちゃんとあるし、診るし、薬も盛る。……いや、今の盛るはほんまに薬の方やで」
途中で自分で言って少し笑う。その笑い方まで軽いのに、妙に胡散臭くならないのが不思議だった。私はまだ頭が回りきっていなくて、その長い説明を全部綺麗に受け止められたわけじゃない。ただ、喋ることに慣れている人だということだけは分かった。
「年齢はな、五十……いや待て、数え方によってはもうちょい上か。こういうの曖昧になると途端に怪しなるよな。せやけど少なくとも、君よりはだいぶ長く生きとる。年長者として敬えとは言わへんけど、無茶されたら困る立場ではあるわけや。医者役やし」
彼はそこで一度、私の顔色を確かめるみたいに目を細めた。さっきまで本を読んで鼻歌を歌っていた人と同じとは思えないくらいその視線だけ少し静かだった。
「で、ここは医務室。君はしばらく寝てた。だいぶな。詳しい話を今この場で一気にされたらしんどいやろから順番は考えるつもりやけど、聞きたいことは山ほどあるやろなあとは思てる。せやから遠慮なく聞いてくれてええ。ただし、今はまだ体力が追いついてへん。喉も荒れてるし顔色も白い。なので最優先は、水飲んで呼吸整えて座った姿勢に慣れること。世界の真実とか衝撃の内幕とかは、その後や」
世界の真実という言い方が妙に軽くて、私は少しだけ瞬きをした。
するとパケラスは、それを肯定と取ったのかさらに話を続ける。
「念のため言うと、僕は君に対して敵意はない。少なくとも今この部屋で君をどうこうするつもりは一切ない。ハディートらとも話は通っとるし、勝手にどこぞから湧いて出た不審者ではない、という説明で足りるやろか。不審者ではない……はやや盛ったかもしれへんけど、無害寄りではある。知らんけど」
「知らんけどって……」
思わずその単語だけ拾ってしまうと、彼は「あ、そこ引っかかる?」と笑った。
「そら人間、断言しすぎるやつのほうが危ないからな。多少の曖昧さは誠実さやと思ってほしいわ。まあでも、少なくとも水はちゃんと飲ませたやろ。そこは実績として見てくれてええで」
そう言われて、私は自分の手の中にまだ少し冷たさの残るコップを見る。
確かにそうだった。知らない相手ではあるけれど、起きたばかりの私に最初にしたことが水を飲ませることだったのは事実だ。喉の痛みが和らいだだけで、疑う力まで少し鈍っているのかもしれない。それでも、目の前の男の人からはすぐに身構えなければいけない種類の圧は感じなかった。
白い部屋の中で、蛍光灯の光だけが変わらず平たい。どこか遠くで小さな機械音が鳴っていて、窓際のカーテンは閉じたまま動かない。時間の感覚が曖昧で、自分がどれくらい眠っていたのかも、何の続きでここにいるのかも、まだ上手く繋がらなかった。
私はもう一度、パケラスの顔を見る。
この人は初対面の相手にも必要以上に自分のことを喋る人だ。信用してほしいのか、単に黙っていられないだけなのか、その両方なのかは分からない。けれど、少なくともこの部屋で最初に聞いた人の声が、鼻歌の続きみたいに妙に明るかったことだけは変に印象に残った。
「……パケラスさん」
「お、はいはい」
「私、どれくらい……寝てたんですか」
そう聞いた瞬間、彼の表情がほんの少しだけ医者のものになった。
さっきまでの軽さが消えたわけではない。ただ、その奥で何かを測るみたいに目が細くなる。答えは多分、私が水を飲む前より重い。
「二週間くらいやな」
思ったよりあっさり言われて、私は一度言葉の意味だけを頭の表面で転がした。
二週間。
数字だけなら短いのか長いのかも分からない。けれど、自分の身体の重さと喉の荒れ方と部屋の空気が既に生活の匂いを持っていることを合わせると、それは冗談ではなさそうだった。私は反射みたいに瞬きをして、膝の上に置かれた自分の手を見る。指先は細く、少し温度が低い。二週間眠っていた手、という感じはしなかったが、そういうものなのかもしれなかった。
「二週間……」
「せや。よう寝たもんや。こっちは途中で起きるんちゃうか、起きへんのちゃうか、いろいろひやひやしとったんやで。まあ、主にひやひやしてたんは僕というより周りやけど」
さらっと言って、パケラスは脇の椅子を少し引き寄せた。足元にあったそれへ座り直し、今度は本ではなく私のほうを見る体勢になる。その仕草だけで、この先はさっきまでみたいな雑談では済まないのだと分かった。
私は息を整えてから、小さく唇を開いた。
「……ハディートは」
その名前を出した途端、パケラスの眉が少しだけ上がる。けれど困った顔ではなく、ああそこから聞くんか、という感じの顔だった。
「生きとるで。しかも、変に気ぃ揉まんでええくらいにはいつも通りや」
言い切り方があまりに早くて、私は逆に少しだけ目を瞬いた。パケラスはそんな私の反応を見て、肩をすくめる。
「いや、そら君からしたらわけわからん話をあとで聞かされることになるわけやし、不安にもなるやろけどな。そこは分けて考えた方がええ。アイツはそう簡単にどうこうなる男やない。しぶといとか執念深いとか、そういう言い方でも足りへんな。まあ要するに、死なんもんは死なん」
「……本当に?」
「本当にや。ジジイが今ここで曖昧な慰め言うてどうすんねん。安心させるためだけの嘘なら、もっとそれっぽく言うわ。せやけどこれはそうやない。ハディートは生きとるし、多分君が想像しとるよりずっと平常運転や。湿度高めの難しい顔して、そのくせ妙なとこだけ世話焼いてる、いつものアレや」
その言い方に、胸の奥で詰まっていたものが少しだけ緩む。
パケラスはそれを見て、調子づいたみたいに肩をすくめた。
「なんやったら、君が寝とる間もよう来とったで。顔見に来ては難しい顔して帰る、を繰り返す不審者ムーブや。アイツ、普段はもうちょい隙なく格好つけとるのにな。椅子に座って黙っとるだけで湿度上がるタイプやから、医務室に長居されるとちょっと困んねん。空気が重なる」
思わず喉の奥でかすかに笑いそうになる。まだ上手く笑えないけれど、ハディートが難しい顔でここにいた光景は、妙に想像できた。
「……ウェイトは」
今度は、パケラスの返事が一拍遅れた。
ほんの少しだけ、部屋の白さが戻る。その人の顔から笑いが消えたわけではないのに、線だけがすっと薄くなる。私はそこで初めて、自分が聞いてはいけない順番で聞いたのかもしれないと思った。
「――まだ触れたらあかん」
声は穏やかだった。だから余計に、それが拒否だと分かる。
私は何も言えずにいる。パケラスは困らせたくない相手に言い聞かせるみたいに、少しだけ首を傾けた。
「今の君には刺激が強いとか、そういう優しい言い回しもできんことはないけどな。もっと雑に言うと、名前を言うたらあかんあの人みたいな扱いやねん。ほら、みんな遠回しにするやつ。関わるとろくなことにならん分類や。せやから今は置いとき」
言い方は少しおどけていたが、目だけは笑っていなかった。
私は指先でコップの縁を撫でる。透明な輪郭は冷えていて、けれど中の水はもうほとんど残っていない。ウェイトの名前を口にした瞬間に空気が変わったことだけは、鈍い頭でも分かった。だからそれ以上は聞かなかった。
代わりに、喉の奥に引っかかっていたもっと大きな疑問を、どうにか言葉にする。
「……私に、何があったんですか」
今度こそ、パケラスは真正面から私を見た。
白い部屋。閉じたカーテン。小さく鳴り続ける機械音。その全部の上に、彼の声だけが妙にはっきり落ちてくる。
「銀座で、君は本来の魔術師になった」
短く、端的な答えだった。
私は息を止める。パケラスはそのまま続ける。
「なったというか、させられたというか、そのへんの細かい主語は今いったん脇へ置くで。とにかく君は向こう側へ踏み込んで、そのまま暴れた。暴れ狂うしかなかったの方が正確やな。止まらへんかった。止められへんかった」
乾いた口調だった。手術の説明でもするみたいに、必要な事実だけを順番に置いていく。
「で、ハディートが自分の命を差し出して、君を朱音として戻した」
内容の重さに対して、説明は驚くほど静かだった。
私はその言葉をすぐには理解できなかった。銀座。魔術師。暴れた。ハディートが命を差し出した。
どの単語も知っているはずなのに、一続きの出来事として頭に入ってこない。けれど、どこか身体の内側の深いところが、その説明を否定しなかった。知らないのに、全くの嘘ではないと分かってしまう感覚があった。
「命って……」
「文字通りや」
パケラスはそこで少しだけ息をつき、説明の角度を変えるみたいに椅子の背にもたれた。
「だから、今の君には朱音としての魂とハディートの魂が混ざってる。正式に言うと混同、やな」
そこで一拍置いて、彼はわざとらしく片手を上げた。
「いや、分かるで。混同て何やねん、言葉として雑やろ、って顔しとる。ジジイもそう思う。でも専門の言い回しがほんまにそうやねん。文句あるんやったら語を当てたメイザースに言うてくれ。物権についてどうこうの混同と同じ単語やけど、そっちの話を始められるとジジイは知らん。民法持ち出して詰めんといてくれや。あ、そもそも朱音に物権は適用されるんやろか」
その場違いな補足に、私は思わず目を瞬いた。
混同。
おかしな単語だった。人の魂について説明するには妙に事務的で書類の端にでも書いてありそうな響きなのに、その実態はまるで逆だった。私は自分の胸のあたりに無意識に手を置く。そこに何かが二つある感じはしない。ただ、自分だけで閉じていたはずの器の中に、知らない温度が薄く残っていると言われたら、否定しきれない気がした。
「……混ざってる、って」
「綺麗に半分こ、みたいな話やないで」
パケラスはすぐに言った。
「スープに水足したみたいに分かりやすい話やったらこんな面倒臭くなってへん。もっとややこしい。境目が溶けとる、て言うた方が近いかもしれんし、逆にそこだけやたら頑丈に残っとる部分もあるかもしれん。せやから今の君が何を覚えとって、何に反応して、どこまでを自分として握れるかは、正直まだ見てかな分からん」
彼は脅すようには言わなかった。ただ事実だけを置いていく。
「でも、君は朱音として戻った。そこはまず間違いない。呼べば反応するし、言葉も君の順序で出る。今こうして喉が渇いた、水が欲しい、知らん顔がおる、って流れで世界を受け取っとるのも朱音や。そこを間違えたらあかん」
私はコップを握る指先に力を入れた。
怖い、という言葉を彼がわざわざ置かなかったことに、少しだけ助けられる。怖いのかどうかはまだ自分でも上手く決められない。二週間眠っていたことも、銀座で何かが起きたことも、ハディートの命が関わっていることも、全部まとめて薄く現実味がなかった。
「……ハディートは、本当に平気なんですか」
確認みたいにもう一度聞くと、パケラスは今度も迷いなく頷いた。
「平気や。そこは断言する」
短く言ってから、彼は少しだけ視線を和らげた。
「何も起きてへんわけではない。でも、アイツ自身がどうにかなった、みたいな心配はせんでええ。君が今ここでその名を呼べる時点で、少なくとも取り返しのつかん形にはなっとらん」
その保証の仕方が妙に具体的で、私は少しだけ息を吐いた。
それでも頭の中では、いくつかの言葉だけがやけにはっきり残っていた。
銀座。魔術師。暴れ狂った。ハディート。命。混同。どれも輪郭だけあって、中身はまだ霧の向こうにある。触れようとすると遠ざかるのに、確かにそこにあった。
「……私の中に、ハディートがいるんですか」
自分でも驚くくらい小さな声でそう言うと、パケラスは少し考えてから答えた。
「いるいうと語弊はあるな。君の頭の中から急にハディートが喋り出す、みたいな安い怪談ではない。けど、君だけで閉じた魂やない、という意味ではそうや。影響はある。残響もある。これから先、それをどう君が感じるかは、君次第の部分もでかい」
私は返事ができなかった。
自分の身体なのに、まだ借り物みたいに重い。その内側に、私だけではない何かの名残があると言われても、納得も反発も綺麗にはできなかった。ただ胸の底に、小さな異物感みたいなものが沈んでいく。痛みではない。でも無視はしづらい。
パケラスが立ち上がる気配がした。水差しの残りを確かめ、コップを手に取り、私の顔をもう一度覗き込む。
「とりあえず今は休め。質問は逃げへん。ハディートも逃げへん。アイツ、そういうとこだけ妙に律儀やしな」
最後の一言だけ、少しだけ冗談の体裁を借りていた。
私はうまく頷けず、ベッドの背にもたれたまま白い天井を見上げる。さっき最初に見たはずのその白は、起きた直後とは少し違って見えた。何も知らないままの白ではない。知らされてしまった後の乾いた明るさだった。




