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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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117/118

117.白い部屋の分岐点

*


 夕飯の匂いは、食器が下げられた後もしばらく医務室に残っていた。


 温め直した肉と薄いスープと消毒液の匂いが混ざる。病院の食事よりはマシだったが、部屋の白さに置かれると全部が管理された味に変わった。私はベッドの上で膝を立て、貸された本を開いていた。日本語で読める本がそれしかなかったからだ。


 窓の外は暗くなっていた。昼間はそこから少しだけ空が見えていたはずなのに、今は黒い面に変わり私の手元の本だけが浮いて見える。


 表紙には『魔術基礎概論』とあった。

 題名からして中身も硬い。「魔術とは、意志、媒介、構造、記録、対象の五点によって成立する」と、最初の章に書かれている。説明は丁寧なはずなのに、読むほど分かった部分から別の分からなさが増えた。


 それでも、文字を追っている方が楽だった。

 何もしていないと身体の奥に残った疲労が勝手に輪郭を持つ。昼間に見た写真や翡翠色の髪や白く濁った薄紙の音まで戻ってくる。思い出す順番は選べない。だから私は、意志の定義と媒介の分類に目を落とし続けた。


 紙は少し古かった。端が手脂で薄く光っている。たくさんの人が読んだ本なのだろう。ところどころに鉛筆の線が引かれ、余白には小さな字で補足が書かれていた。誰の字かは分からない。けれど、何かを分かろうとして引いた線は、印刷された本文より少し生々しかった。


 椅子に座りながら、パケラスは大きくあくびをした。


「あっという間に夜やなぁ」


 椅子の背にもたれたまま、彼は首の後ろを軽く揉んでいた。白衣の襟元が少し乱れている。昼間より顔色は戻っていたが、疲れが消えたわけではない。目の下に薄い影があり、瞬きの間隔も少し長かった。



「しかも、今日に限っては最悪の夜や」

「……最悪?」


 パケラスはもう一度あくびを噛み殺した。


「今日はな、僕の人生で一番面倒な日なんや」


 軽く言っているのに冗談だけでは済んでいなかった。

 私は開いた本に指を挟んだまま言葉の続きを待った。パケラスは机の上に散らした紙を何枚か重ねる。昼間のアルバムはもうしまわれていた。代わりに診療記録らしい薄い書類と、私には読めない記号の並んだ紙が置かれている。


「何かあるの?」


 そう聞くと、彼は少しだけこちらを見た。その視線には、からかいの色が入る前の間があった。言うか言わないかを測ったというより、どこまで言えば余計に壊れないかを見た目だった。


「メイザースに、ちゃんと君のこと報告せなあかん」

「私のこと……」

「せや。状態、経過、接続、魔力の減り方、ウェイトとの関係、ハディートの残り方。あと、僕が見た限りでの危険度と、()()()()()


 最後の言葉だけが、少し重かった。


 今後の扱い。

 その言い方は、人間に使うものとしては適切ではない。だが、ここでは多分正確なのだろう。私は本のページを押さえていた指に力を入れた。紙が少し曲がり、本文の上に影が落ちる。


「それで、決まるの」

「かなりな」


 パケラスはあっさり言った。


「君をこのまま医務室で見るのか、別の場所へ移すのか。どこまで制限をかけるのか。誰と会わせるのか。ウェイトをどう扱うのか。ハディートの件をどこまで表へ出すのか。……まあ、細かいことは山ほどある」

「……そう」


 それ以上、何を返せばいいのか分からなかった。

 大丈夫かと聞くには相手が悪い。助けてほしいと言えば、パケラスがどこまでそれを聞けるのか分からない。言葉を選んでいるうちに喉の奥が乾いていく。私は本へ視線を落としたが、文字はもう読めなかった。


 パケラスは椅子を少し引いた。

 脚が床を擦り乾いた音がする。彼が立ち上がる準備をしただけで、部屋の均衡が少しずれる。


「まあ、変に緊張しなくてええで」


 彼は軽く言った。


「ジジイ、うまーく話を作るのは上手いんや。ハディートほどやないけど」

「それ、安心していい話?」

「……()()()()()


 パケラスは笑った。

 ひどい返しなのに、少しだけ息が抜けた。安心したわけではない。何も解決していない。ただ、怖がるべき形が少しだけ具体的になった。具体的になると身体は勝手に順応しようとする。嫌な仕組みだと思った。


「メイザースって、そんなに話を作るのが上手いの」

「上手いで。事実を捨てずに角度だけ変える。責任の置き場をずらす。誰にも嘘は吐いてへん顔で、一番都合のええ道を通す。ああいうのは才能や」

「嫌な才能……」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 彼は机の上の書類を整えた。

 紙の端を揃える手つきは雑そうに見えたが、ずれはほとんどない。診察台の上で器具を並べる時と似ていた。嫌だと言いながら、必要なことは身体が先に片づけていく。


「でも、パケラスが報告するんだよね」

「せやな」

「じゃあ、パケラスの言い方で変わる?」

「変わる」


 彼はそこだけ誤魔化さなかった。

 私は返事に詰まる。変わる、と言われた方が困る。変わらないと言われても困っただろうが、少なくとも責任の置き場は私の外にあった。今は違う。パケラスの言葉一つで、私の明日が少しずつ別の形になる。


「だから面倒なんや」


 パケラスは書類を封筒に入れた。


「君を危険やと言いすぎてもあかん。安全やと言いすぎてもあかん。ウェイトを便利な供給源みたいに扱わせてもあかんし、ハディートの魂の件を軽く見られても困る。かといって全部正直に並べたら、全員まとめて頭おかしい箱に入れられる」

「頭おかしい箱……」

「この局、箱だけは多いからな」


 それは笑うところなのか分からなかった。

 でも、パケラスは笑わせようとして言ったのだと思う。言葉の端がいつもより少し柔らかい。私は本のページから指を離した。曲がった紙がゆっくり戻り、鉛筆の線の上で小さく鳴った。


「私は、何か言った方がいいの」

「今は何も」

「そうなの?」

「君が今ここで僕に言うたことは、僕の所見になる。泣いても黙っても、怖がっても平気なふりしても、全部材料や」


 私は自分の膝の上に置いた本を見る。魔術は意志と媒介で成立する。そう書かれているのに、私の意志は今、どこにも届いていない。


「じゃあ、黙ってる」

「それも材料やけどな」

「じゃあどうすればいいの」

「本でも読んどき」


 パケラスは顎で私の膝を示した。


「日本語の本、エロ本以外だとそれしかなかったから退屈やろうけど」

「退屈ではないよ」

「分かるんか」

「分からないところが多い」

「それを退屈って言うんや、普通は」

「分からないものを見てる方が、何も見ないよりマシだから」


 そう言ってから、自分でも少し変な返しだと思った。

 パケラスは一瞬だけ目を細めた。笑ったのではない。何かを所見として拾われた感じがした。やっぱり、今の返事も材料になるのだろう。そう思うと、もう何を言っても同じだった。


「君、ほんまに面倒な子やな」

「今日のパケラスほどじゃないと思う」

「言うようになったやん」


 彼は封筒の口を閉じ、胸ポケットに細いペンを差した。立ち上がると、白衣の裾が椅子の脚に触れた。布の音が短く鳴る。彼は机の端に置いていた端末を取り、画面を一度だけ確認した。白い光が顔の下から当たり、疲れた目の影を濃くする。


「誰か来るの?」

「ベリタスが来る」

「ベリタスだけ?」

「せや」


 パケラスは白衣の袖口を軽く引き、いつもの軽さを顔に戻そうとしたが戻りきってはいなかった。目元だけが少し遅れている。


「ほな、メイザースんとこ行ってくるんやけど、ガルザも呼ばれてる」

「ガルザも」

「アイツはウェイト側の報告やな。昼間、実際に見とるし、殴っとるし、僕が全部喋るよりは証言として使える」


 パケラスはそこで、わずかに眉間を寄せた。


「ただ、アイツ馬鹿やからな。変なこと言わんかったらええけど」

「馬鹿って……」

「馬鹿やろ。力はあるし、見たもんを見たまま言う分には使える。でも、話の角度とか言葉の置き場とか、そういうとこで急に地雷踏む」


 彼は封筒の端を親指で軽く弾いた。

 乾いた音がした。苛立ちというほど強くはない。だが、今から増える余計な手間を既に少し見ている顔だった。


「ガルザに言わないの」

「言うても聞くかどうかは別や。まあ、メイザース相手に暴れへんだけマシやと思うことにする」

「暴れる可能性あるの」

「ないとは言わん」


 それはかなり不安な答えだった。

 パケラスは私の顔を見て、少しだけ肩をすくめる。


「でも、ベリタスなら大丈夫や。冷たいけど雑には扱わん」

「それ、褒めてる?」

「かなり褒めてる」


 彼は扉の方へ歩きかけて、途中で振り返った。

 その動きが少しだけ遅かった。言い忘れたことがあるというより、言うべきか迷ったものを結局置いていくような間だった。


「朱音」

「なに?」

「メイザースはものすごーく嫌なジジイやけど、無意味に壊す趣味はない」


 私は顔を上げた。

 パケラスは扉の横に立っていた。背後の白い壁に彼の影が細く伸びている。窓の外はほとんど黒く、硝子には彼の横顔と医務室の天井灯が重なっていた。


「意味があれば壊すってこと?」

「それは否定せん」

「安心させる気ある?」

「あるから、今ので止めたんや」


 彼は片方の口角だけを上げた。

 いつもの嫌味な顔だった。けれど、完全に軽口だけではない。言いすぎない場所を選んでいる。これでも彼なりに慎重なのだろう。


「じゃあ、行ってくるわ」

「……うん」

「変なことせんと、本読んどき」

「変なことって」

「ハディート呼ぶとか、ウェイト探して夢に潜るとか、窓から逃げるとか」

「窓、開くの?」

「少ししか開かへん。言うただけや」


 最後だけ少し雑だった。

 私は本を持ち直した。何かを返そうとしたが、出てきた言葉はなかった。頑張って、と言うのも違う。お願いします、と言うには重すぎる。気をつけて、も変だった。

 結局私は何も言えないまま、ページの端を指で押さえた。


 パケラスはそれを見て、少しだけ肩をすくめた。


「黙っとる方が賢い時もある」


 そう言って、彼は医務室を出ていった。


 扉が閉まると、部屋の音が変わった。空調の低い唸りと、廊下の遠い足音だけが残る。夕飯の匂いはもう薄くなり、代わりに紙と消毒液の匂いが戻ってきた。


 私は本へ目を落とした。開いたページには、媒介は意志を対象へ伝達するための()()()()()()、と書かれていた。鉛筆の線が、その一文の下で少しだけ曲がっている。


 読もうとして、目が止まった。

 廊下の向こうで二人分の靴音が一度だけ重なり、それから遠ざかっていく。私はその音が聞こえなくなるまで、ページをめくらなかった。

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