118.医療所見の盾
*
医務室を出てすぐ面倒やな、と思った。
廊下の白い灯りは夜になっても変わらないくせに、人の気配だけが昼より薄くなっている。遠くで扉の閉まる音が一度して、それきり空調の唸りだけが残った。僕は胸ポケットから小さく畳んだ符を取り出し、角を二つ折った。
紙の繊維が指先で潰れる。
次の瞬間、廊下の白さが縦にずれた。床の感触が一拍だけ消え、鼻の奥へ乾いた墨と金属の匂いが入る。身体が移動に追いつく前に、視界の方が先に組み替わった。
着いた先は、メイザースの執務室の前だった。
同じ監察局の中とは思えないほど、そこだけ造りが違う。壁の石材は艶を殺して磨かれ、廊下の継ぎ目には細い金属線が通っている。灯りもただ白いだけではなく、天井から落ちる光が床の模様を潰さないように調整されていた。金をかけているというより、金をかけたことを忘れさせる作りだった。
扉も重い。黒い木目の中に赤銅色の線が走り、取っ手の周囲には古い文字が薄く彫られている。触れる前から、余計な者を拒む気配があった。結界というほど露骨ではない。だが、ここに立つだけで背筋を勝手に正される。腹が立つくらい、趣味がいい。
僕は息を吐き、三回ノックした。
「入りたまえ」
扉を開けると空気の重さが変わった。部屋の中は広く、書棚と机と儀式用の細い柱が無駄なく置かれている。紙と革と香の匂いが混ざり、医務室の消毒臭が自分の白衣にだけ残っているのが分かった。
ガルザはすでにいた。
壁際に立ち腕を組んでいる。態度だけ見ればいつも通りだが、顎の角度が少し硬い。アイツでも、この部屋では余計な動きを減らす。減らすだけで黙れるかどうかは別だが。
机の向こうに、メイザースが立っていた。
年齢は六十に届く男のはずだった。だが、目の前の姿にそれらしい衰えはない。灰色の髪は老いで乾いた色ではなく、光を受けると一本一本にまだ湿った艶が残っていた。整えられた髪の下で、赤い瞳だけが静かにこちらを見ている。
その目が嫌だった。
怒鳴るわけでも睨むわけでもない。むしろ柔らかい。けれど、視線を受けると胸の奥へ細い針を真っ直ぐ入れられる感覚がある。心を読まれるのとは違う。こちらが逃がしているものまで、逃げ道ごと先に押さえられる感じがする。
ローブの地は黒だった。
肩から胸にかけて赤い布が差し込まれ、縁には金の刺繍が走っている。派手なのにいやらしくはない。高い背丈と銀の杖のせいで、布の重さまで一つの命令に見えた。杖は首の高さほどある。全体が銀で、先端には幾何学的な枠が組まれ、その内側に赤と青の鉱物が埋め込まれていた。
優しそうな人間ではある。
声も顔も立ち姿も、初めて見た者なら安心するかもしれない。だが、その優しさには出口がない。逃げてもいいと言われながら、逃げる通路を先に閉じられている。そういう種類の強さだった。
指先が一瞬だけ冷える。震えた、と言うほど大げさではない。僕はそれを白衣の袖の中へ押し込み、いつもの顔を作った。
「遅れてすんません」
「時間通りだよ、パケラス」
メイザースは穏やかに言った。
その穏やかさがまた面倒だった。怒っている方がまだ楽だ。怒りには形がある。こういう静かさは、どこから刃が出るか分からない。
ガルザがこちらを一度だけ見る。
余計なこと言うなよ、と目で言ったが、多分伝わっていない。コイツは見たものを見たまま言う分には使える。だが、言葉の置き場を間違える。今日の場でそれをやられると、朱音だけではなくウェイトの扱いまで変な方向へ転がる。
本当に、面倒な日である。
メイザースは銀の杖を椅子へ横掛けた。
硬い音はしなかったが、部屋の空気だけが小さく締まる。机の上には、既に数枚の書類が並んでいた。朱音の名前は見えない。けれど、今からそこに書かれるものがあの子の明日を決める。
僕は封筒を取り出し、机の端へ置いた。
メイザースの赤い目が、封筒ではなく僕の指先を見た。そこまで見んなや、と心の中でだけ吐き捨てる。口には出さない。出したところで損をするのはこっちだ。
メイザースは微笑んだ。
「揃ったことだし、始めようか」
*
始まってしまえば、報告そのものは淡々と進んだ。
僕は朱音の覚醒時刻、摂食量、呼吸、魔力の戻り、左脇腹の疼痛申告、ウェイト側との伝播らしい反応を順に並べた。余計な評価は削る。感情も削る。医療所見として残せる形だけにして、危険性と保護の必要性を同じ紙の上へ置く。
この部屋では、僕の言葉から大阪の音がほとんど消える。
標準語が得意なわけではない。普段なら語尾に残る癖を、報告書の文体で上から押さえているだけだ。メイザースの前で崩しすぎるほど、僕は愚かではなかった。軽口の角を落とし、判断の語尾を整え、どこに出されても医療記録として読める形へ寄せる。そうしていないと、この男の前ではこちらの本音だけが先に紙から滲む。
メイザースは椅子に腰を下ろし、僕の封筒から出した資料を一枚ずつ確認していた。
紙をめくる音が静かだった。指先は老いていない。皺はあるのに、紙の端を取る動作に迷いがない。銀の杖は先端の赤と青の鉱物が灯りを拾っている。部屋の空気はさっきから変わらないのに、その石だけが時々、別の場所の光を返しているように見えた。
「魔力供給が断たれてからの低下は予想より穏やかです。ただ、回復は遅い。本人が自覚しているより、器の側が外部供給に慣れています。ここで急に制限を強めると、精神面より先に身体が落ちる可能性があります」
「ふむ」
相槌は短いが聞き流してはいない。こちらが使った言葉の順番、抜いた項目、わざと後ろへ回した事実まで見ている。朱音に関する報告はできるだけ治療対象として組み立てた。危険物でも、処分対象でも、管理資産でもなく、まず患者である。その角度を崩されると後が面倒になる。
「左脇腹の疼痛は一瞬です。今のところ持続痛も数値異常もありません。ウェイト側の損傷が丸ごと伝播しているわけではない。ただし、限界時のショックだけは落ちています。僕の見立てでは、痛覚そのものではなく、接続の継ぎ目が耐えきれなかった時の揺れです」
「継ぎ目か」
メイザースはそこだけ、少しだけ目を細めた。
赤い瞳が資料から僕へ移る。視線を受けた瞬間、喉の奥がわずかに乾いた。圧をかけられているわけではない。むしろ穏やかだ。その穏やかさの中で、こちらが隠したい部分だけが勝手に浮く。
「はい。通常時は、ウェイト側がかなり綺麗に切っています。意識的か、構造上かはまだ不明です。センシオルで抑えが薄くなった時、朱音側へ反応が落ちました」
「センシオルの投与量は」
「資料三枚目です。後遺症が残らない範囲で、反応を見るための量です」
嘘ではないが、全部本当でもない。僕はあくまで今言わなければならない範囲だけを差し出す。センシオルの効果、ウェイトの反応、朱音への伝播。そこまでは出す。けれど、朱音を壊さずに済ませるための調整や、僕がどの程度まで踏み込んで確認したかは、紙の中で角を落としてある。
メイザースは三枚目を引き出し、目を通した。
「処置としては、妥当だね」
妥当、という言葉は便利だ。人を助けた時にも使えるし、人を壊す手前で止めた時にも使える。メイザースの口から出ると、余計にそう聞こえる。
「本人の受け答えは?」
「混乱はあります。けれど、会話は成立します。記憶の抜けや認識のズレはありますが、妄想性の飛躍は現時点では薄いです。自分の置かれた状況を完全に理解しているわけではありませんが、理解しようとする姿勢はあります」
「反抗は」
「強い拒絶はなし。むしろ黙る方が多いです。こちらの反応を見て言葉を選んでいる印象です」
メイザースはそこで、資料から目を上げた。
「従順そうだね」
心臓が一つ、嫌な位置で鳴った。
部屋の温度は変わっていない。だが、指先の熱だけが落ちる。従順。その言葉は、患者に使うには少し違う。保護対象に使うにも違う。メイザースが何気なく置いた一語で、朱音の扱いが別の棚へ寄りかけた。
僕は笑った。
「従順というより、状況が分からないから大人しくしているだけです。慣れれば普通に面倒な子だと思いますよ」
「そうかい」
「今日も本を読んでいました。分からないものを見ている方が、何も見ないよりマシだ、と言っていました。単に従うだけの子なら、ああいう返しはしません」
言葉を軽くしながら、朱音をただ扱いやすいものにしないように伝えた。従順ではなく、観察している。黙っているのは服従ではなく、判断を保留しているだけ。そういう方向へ寄せる。ここで下手に感情を入れると、庇っていることが透ける。透けたら終わる。
メイザースは微笑んだ。
嫌な顔ではない。だから余計に嫌だった。
「君がそう評価するなら、記録しておこう」
記録。またその言葉だ。
僕は肩をすくめるだけにした。余計な反応は出さない。出した分だけ拾われる。
メイザースは資料を揃え、机の左へ寄せた。それから視線をガルザへ移す。
「では、ウェイトについて聞こうか」
来た。
僕は目だけでガルザを見た。頼むから、見たままだけ言え。余計な解釈を足すな。勢いで口を滑らすな。お前が思っているより、この部屋では言葉が残る。
ガルザは腕を組んだまま、露骨に顔をしかめた。
「アイツ何も喋らん!」
初手でそれか……。
僕は奥歯を噛んだ。
メイザースは怒らない。むしろ、穏やかに頷いた。
「沈黙を保っていた、と」
「そうだな。身体はいいぜ? いいもん持ってるし、楽しませてもらったけどよぉ。朱音のことは何も言わないからな。こっちが何聞いても黙る。なんか、パケラスの時は反応するけど」
ほんまに口を縫ったろか。
頭の奥で、普段の言葉が一瞬だけ出かかった。口には出さない。ガルザの言い方は最悪だった。身体がいい、楽しませてもらった。アイツに悪気はない。殴って、反応を見て、耐久と魔力の質を測ったくらいの意味で言っている。とはいえ、ここでその雑な言葉を置くな。
メイザースの赤い目が、僕へ一瞬だけ向く。
ほんの一瞬だった。けれど、その一瞬で十分だった。パケラスの時は反応する。その部分だけは確実に拾われた。
「……そうかい」
メイザースは静かに言った。
ガルザはその静けさを危険信号として受け取らない。コイツは本当に、強さの種類を一つしか知らない。殴られたら分かる。怒鳴られたら分かる。だが、こういう静けさの刃は見えない。
「で、前に話したことからなんか進展したことといえば、朱音で脅せばたじろぐくらいか?」
――その言葉を聞いた刹那、血の気が引いた。
前に話したこと――
僕は前の会議に呼ばれていない。つまり、最初の頃の話は、僕がいないところで粗方済んでいる。誰が何をどこまで言ったか分からない。静止する相手がいなければ、ガルザは見たことも聞いたこともべらべら喋る。今の一言で、それがほぼ確定した。
しかも、よりによって朱音で脅せば。一番言ってはいけない場所を踏んだ。
ウェイトの沈黙。朱音への反応。接続。夢。痛みの伝播。そこに「脅し」という言葉が置かれた瞬間、全部が別の形で繋がる。こっちが慎重に医療所見として並べたものが、拘束と尋問の材料に変わる。
詰んだ。そう思った。
けれど、顔には出せない。
「ガルザ、それ今言うことちゃうやろ」
声が落ちた。
標準語に整える余裕が一拍だけ飛んだ。ほんの短い漏れだったが、メイザースの前ではそれで十分だった。自分でも分かる。今の一言で僕がどこを危険だと思ったか、部屋の中へ印を打ってしまった。
すぐに口調を戻す。
「失礼しました。今のは言い方が雑すぎます。朱音で脅すという話ではなく、ウェイトの接続対象として朱音の名前を出すと、身体反応が変わるという話です。資料にも記載しています。刺激語への反応差です」
僕は封筒から予備の紙を一枚出し、机へ滑らせた。
視線を紙へ移させる。言葉ではなく、資料へ。資料になれば少しは角が丸くなる。脅しではなく、反応差。拷問ではなく、観察。朱音ではなく、接続対象名。言葉を置き換える。乱暴に見えるものを、かろうじて手続の枠へ戻す。
「特に朱音の名前には反応します。それは保護対象への執着か、接続維持のための警戒か、まだ切り分けできていません。ここで単純に脅迫材料として扱うのは危険です。朱音側への負荷が読めない」
そう言いながら、僕はメイザースの手元を見る。
赤い瞳は資料を見ている。しかし、読んでいるのは紙だけではない。僕が慌てて角度を変えたことも、ガルザの言葉を消しに行ったことも、全部見えている。
「なるほど」
メイザースは、ゆっくりと頷いた。
「夢で繋がってしまっているしね……」
返り討ちだった。うまい具合に濁して書いたつもりだった。夢に関する記述は、接触の可能性、意識下での経路、睡眠時の不明瞭な干渉、という形にしてある。確定とは書いていない。朱音がウェイトと夢で話せるとは書いていない。ハディートへの接触希望も、直接的な文にはしていない。
それでも、メイザースはそこへ指を置いた。
夢で繋がってしまっている。その言い方は疑問ではない。確認でもない。分かっていることを、こちらの逃げ道に合わせて置いただけだ。
僕は笑うしかなかった。
「可能性の話です」
「もちろん」
メイザースは穏やかに返した。その一言で逃げ道がさらに細くなる。否定しない。断定もしない。僕が可能性と言ったから、可能性として受け取る。その上で、議論の前提には入れる。こういうやり方が一番面倒だ。
ガルザはまだ分かっていない顔をしていた。怒鳴りつけたかった。二度と喋るな、と言いたかった。しかし、ここでそれをやれば余計に目立つ。朱音で脅せるという事実を僕が過剰に隠したと見られる。ウェイトが僕に反応することも、夢の経路も、全部が僕の態度で補強される。
……最悪や。
今日は人生で一番面倒な日だと朱音に言った。あれは軽口のつもりだった。けれど、現実は軽口の方へ寄ってくる。言葉にしたことで、呪いみたいに形を持つ。
メイザースは資料の上に指を置いた。
「パケラス。君の懸念は理解している。朱音への負荷、ウェイトの沈黙、ハディートの残滓。どれも単独では扱えない」
「ご理解いただけているなら助かります」
「だからこそ、接続の正確な形を把握する必要がある」
助かっていない。全く助かっていない。
僕は息を吸った。浅く吸うと動揺が出る。だから少し深く吸う。肺に空気が入る間だけ、言葉を組み直す時間ができる。
「把握は必要です。ただ、朱音を刺激に使うのは僕は反対です。現時点では本人の身体も魔力も不安定です。ウェイト側を動かすために朱音を使えば、反応が向こうから返る可能性があります。今日の左脇腹の件だけでも、それは否定できません」
メイザースは笑みを消さない。
消さないまま、資料の端を揃えた。
「君は、本当に慎重だね」
「腐っても医者ですから」
そう返すしかなかった。
医者という立場を盾にする。好き嫌いでも、朱音への情でも、ウェイトへの嫌悪でもなく、医療上の判断として反対している。その形を崩したら終わる。少なくとも、この部屋では。
ガルザが横で首を傾げた。
「でもよ、効くなら使えば早いだろ」
ほんま黙れ。
今度は口から出さなかった。出さなかった代わりに、爪が掌に食い込む。痛みで表情を戻す。メイザースの赤い瞳が、また静かにこちらを見る。
僕は標準語を保ったまま、ガルザではなくメイザースへ向けて言った。
「早さを優先すると朱音が壊れます。壊れた場合、ウェイトの反応も読めません。ハディートの魂の件もあります。ここで短絡的に刺激を入れるのは、全体のリスクが大きすぎます」
ガルザは不満そうに鼻を鳴らした。
メイザースは何も言わず杖の先端へ指を添えた。赤と青の鉱物が灯りを返す。答えを待たされている時間だけが、細く長く伸びていく。
部屋の空気がさらに静かになった。




