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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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116/119

116.壊れる前の距離

前話思いっきり年齢間違えてました。

パケラスが三十一歳でハディートが三十歳です。そうじゃないとノクティスの年齢が合わない……。

 パケラスはしばらく、その名前をそのまま写真の上に置いていた。


 説明するつもりがあるのかないのか分からない沈黙だった。指は台紙の端を押さえたまま動かない。古い紙はわずかに反り、貼られた写真の角だけが薄く浮いている。消毒臭の中へ糊と埃の匂いがゆっくり混ざった。


「どうして名前が変わったの?」


 聞いてから余計だったかもしれないと思った。

 パケラスは怒らなかった。けれど、すぐには答えない。写真の中の翡翠色の髪ではなく、何も写っていない余白の方を親指で押さえる。そこだけ紙の色が薄く変わっていた。


「水道橋の後、有名になりすぎたんや」


 軽く言うために言葉の角をいくつか落としているのが分かった。()()()という地名だけで、医務室の白さが少し鈍る。


「あの名前で呼ばれると、余計なもんまで寄ってくる。記録、噂、恨み、信仰。本人が呼んでへんものまで、勝手に集まる」

「それで、ハディート」

「せやな。隠したいうより、反応を減らしたんやろ。まあアイツのことやから、名前変えたくらいで静かになるわけないけど」


 パケラスはそこで少しだけ鼻で笑った。

 私は写真を見る。アレイスター・クロウリーという名前とハディートという名前の間に、白く抜けた時間がある。翡翠色の髪は、その抜ける前の色だった。若いから綺麗なのではない。まだ損なわれ方を知らない色に見えた。


 パケラスは次の薄紙をめくった。


 そこには集合写真があった。今までより大きく、端の黄ばみも強い。背後には石造りの壁と、真鍮の燭台が写っている。床には白い線で複雑な図形が引かれ、写真の端で途切れていた。


 中心に立っている男がいた。

 私はその人を知らない。会ったこともない。しかし、写真の中では知らないまま通り過ぎられる顔ではなかった。若いはずなのに、若さより先に役職の匂いが立っている。穏やかな表情をしているのに、赤い瞳だけが少しも緩んでいない。


「それがメイザースや」


 パケラスは短く言った。


 名前だけは知っていた。中央魔術監察局を作った人間。ハディートと仲が悪い相手。そういう断片が先に浮かんだが、写真の中の男はその説明よりずっと静かだった。中心に立っているのに、前へ出ている感じはない。ただ、周囲の身体の向きや肩の角度が彼を基準にして少しずつ整っている。そこにいるだけで、集合写真全体の重心が決まっていた。


「局長?」

「創設者やな。今でも大体、あの顔で人を丸め込む」

「丸め込む顔には見えない」

「せやから丸め込まれるんや」


 パケラスは面倒臭そうに言った。

 写真のメイザースはこちらを見ている。正確には、撮影者を見ているだけなのだろう。なのに、紙越しに姿勢を直される感じがした。叱られているわけでも、責められているわけでもない。こちらの乱れを先に数えられている。


 そのすぐ近くに、翡翠色のハディートがいた。

 今の彼からは考えにくい距離だった。肩が触れるほどではないが、間に誰かを置くほど離れてもいない。ハディートは少し斜めに立ち、メイザースの方へ身体の角度を残している。顔だけは撮影者へ向けているが、意識の一部は隣の男に預けたままに見えた。


「……近いね」

「この頃は、まだ仲良かったからな」

「仲良かったの?」

「最初はな。アイツも、あの人のことをちゃんと先生みたいに見とった時期がある」


 パケラスの声には、少しだけ古い紙の重さが混ざった。

 写真の中のメイザースはハディートを押さえつけているようには見えない。むしろ、隣に立つ若い魔術師の尖りをそのまま場の中へ収めている。ハディートもそれを嫌がってはいない。従順とは違う。けれど、反発する前提では立っていなかった。


 私は、その近さを少し長く見てしまう。

 今のハディートなら、あの距離には立たない。立ったとしても相手を刺すか言葉で切るか、どちらかの準備をしている。写真の中の彼は違った。傲慢で冷たくて何かを言い返しそうな顔をしているのに、その目の奥には、まだ誰かに見られていることを許す余地があった。


「いつから悪くなったの」

「さあな。何か一個で壊れたわけやないと思うで」


 パケラスは台紙の端を軽く押さえ直した。


「ただ、壊れた後は派手やったな。魔術決闘して、勝ったのに破門や。アイツからしたら、そら一生根に持つ」

「勝ったのに」

「勝ったのに、や。そこが一番あかんかったんやろな」


 写真の中では、何も起きていない。

 誰も怒鳴っていないし、手も出していない。メイザースとハディートは近い距離に立っている。それが今では戻れないものだと知ってしまうと、この近さの方が傷みたいに見えた。離れている写真より、ずっと危うい。


 パケラスは、その少し横にいた。

 白衣の上にローブを着ている。若いノリでにこやかにピースしていた。


 イグナスもいた。

 今より若いのに、目の置き方はあまり変わらない。全員が前を向いている中で、彼だけは少し別のものを見ていた。写るものと写してはいけないものを、最初から分けているような視線だった。


 そのローブの陰に、小さな子どもが隠れていた。

 最初はノクティスだと分からなかった。まだ十歳前後くらいだろうか。大人たちの脚と布の間に半分埋もれるように立ち、片手でイグナスのローブの裾を掴んでいる。指先に力が入りすぎて、黒い布だけが小さく歪んでいた。


 イグナスは正面を向いたまま、その手を払っていない。

 守っている、と言うには淡い。親しげ、と言うにも少し違う。ノクティスがそこに隠れていることを彼だけが最初から許している。写真の中では、二人の距離だけが少し変だった。


 端の方には、()()()()()()()()()()もいた。

 顔を覚えているわけではない。輪郭も髪も、はっきり結びつかない。なのに、立っている場所の取り方だけが記憶のどこかを引っかいた。舞台の端にいるのに、舞台袖ではない。誰かの台詞が落ちる位置を、先に知っている人間の立ち方だった。


 パケラスはその男について何も言わなかった。

 私はその沈黙に従う。写真には、説明されないまま残った方がいい顔がある。


 次のページには、小さな写真が何枚も貼られていた。紙の向きは揃っていない。記録というより、誰かが場のついでに残したものに見える。斜めに貼られた一枚では、パケラスがノクティスの腕を掴んでいた。


 掴み方が変だった。

 喧嘩ではない。ふざけているだけにも見えない。ノクティスは逃げようとしているのに、パケラスが腕を掴んで止めている。背後の机には包帯と小瓶があり、床には丸めた布が落ちていた。治療の途中で暴れられたか、動作の確認でもしていたのだろう。


「これ、何してるの」

「治療」

「治療に見えない」

「治療や。アイツ、処置中にすぐ逃げるからな」


 パケラスは写真を見ながら、ほんの少しだけ鼻で笑った。

 写真の中の彼は、今より表情が露骨だった。ノクティスは嫌そうな顔をしているが、本気で拒絶しているわけではなかった。


「遊んでるみたい」

「遊んでへん。医療行為や」

「パケラス、楽しそう」

「目ぇ腐っとるんちゃうか」


 否定の言葉は早かったが、写真を閉じる手は少し遅れた。

 その遅れだけが残る。クレアに頭を撫でられた後の顔とは違う。もっと古く、取り出すと埃が立つ種類の柔らかさだった。パケラスはそれを払うように、次の写真へ移る。


 次の写真には、白い髪の人が写っていた。

 短く切られた髪は、医務室の灯りとは違う種類の白さをしていた。椅子に腰かけ、黒いピアノへ両手を置いている。横顔だけなのに目が離せない。首筋の右側には小さな紋章があり、襟元の影から薄く覗いていた。眼は薄い緑で、古い写真の中でも光を持っている。


 年は、二十代の終わりくらいに見えた。

 骨格からして人間より人形に近い。整っている、という言葉を置くと足りなくなる。綺麗なのに冷たすぎず、静かなのに弱くない。指先は鍵盤の上で止まっているのに、今にも音が出そうだった。


「この人は?」

「フラン」


 パケラスの声が少しだけ変わった。


「僕が今まで会うた人間の中で一番かっこよくて、美しい人やったな」


 冗談には聞こえなかった。

 パケラスがそういう言い方をするのは、少し意外だった。軽口に混ぜて逃がすことも、わざと下品に崩すこともしない。写真の上に置いた視線だけが、いつもより静かだった。


「どんな人だったの」


 そう聞いたが、パケラスはすぐには答えなかった。

 代わりに、隣の写真へ指を移す。そこにもフランがいた。ピアノから顔を上げ、こちらを睨んでいる。撮られたことに気づいた瞬間なのだろう。薄緑の眼が強く光り、口元がわずかに歪んでいた。怒っているのに形が崩れていない。むしろ怒ったことで、骨の線と首筋の紋章が余計に鋭く見える。


「ええ人やったで」


 パケラスはそれだけ言った。


「それだけ?」

「それだけでええやろ」

「でも」

「もう死んどる人間の話は、長くすると湿る」


 軽く流したつもりなのだろう。けれど、声の底は乾いていなかった。

 私はそれ以上聞かなかった。写真の中のフランは、まだこちらを睨んでいる。紙に閉じ込められても、その視線だけは古くなっていなかった。ピアノの黒い面に白い髪が映り、薄緑の眼だけがアルバムの中で小さく燃えていた。


 それ隠すように次のページをめくると、そこにはまだ魔術師になる前のレイがいた。

 角も鱗もなく、眼の光も今よりずっと普通の男の子に近い。十歳くらいの子どもだった。髪はきちんと整えられているのに、表情だけが従っていない。カメラに向けた目には、早く終われと言いたげな癖が、もう小さく浮いていた。


 隣には家族がいた。

 母親らしい人が少し前に出て、レイの袖を直している。レイは嫌そうにしているが、手を払ってはいない。子どもの肩はまだ薄く、布の方が少し大きい。もう片側にはイグナスが立っていた。父親面をしているわけではない。けれど、誰かが一歩下がった時、そこへ入れる位置を最初から選んでいる。


 ノクティスも写っていた。

 さっきの集合写真より背が伸び、顔つきも少しだけ変わっている。それでも、立つ場所の選び方はあまり変わらない。レイから少し距離を取り、イグナスのローブに近い場所へ半身を置いていた。掴んではいない。だが、何かあればすぐ布へ戻れる位置に指がある。


 レイはカメラを見ている。ノクティスは違う方向を見ている。二人の視線は合っていないのに、写真の中では近かった。


「レイ、子どもだ」

「当たり前や。十歳くらいやろ、これ」

「普通に見える」

「普通やった時期くらいあるわ」

「今も普通なところはあるよ」

「せやな。腹立つくらいにはな」


 パケラスの声には、嫌味と肯定が半分ずつ混ざっていた。


 写真の中のレイは、まだ龍ではなく、まだ魔術師でもない。身体の中に別の形が眠っていたとしても、少なくともこの瞬間は袖を直されるのを我慢している子どもだった。


 パケラスは何も補足しなかった。

 誰がいつ変わったのか。誰が何を失ったのか。誰が誰の代わりをしたのか。そういうことを、彼はここでは並べない。ページを押さえ、写真が浮かないように指を置いている。傷口を直接見せず、その周りの布だけを直す手つきだった。


 私は写真から目を離し、机の上の色鉛筆を見た。

 クレアが使った黄色は、蓋の閉じた箱の隙間から一本だけ少し飛び出している。さっきまでの声が、そこに細く残っていた。よしよしという幼い響きと、古い写真の紙擦れが同じ部屋にあることが、急に変に思えた。


「後ろの方も見るか」

「後ろ?」

「比較的新しいやつ。まあ、新しい言うても、こっちの感覚が狂っとるだけやけどな」


 パケラスはアルバムの束をまとめて持ち、後半へ飛ばした。

 紙の色が少し変わる。前の方より劣化が少なく、写真の発色も残っていた。そこにはリガルディーがいた。今より少し若いが、立ち方はほとんど変わらない。姿勢は真っ直ぐで、手袋をした指が書類の端をきれいに揃えている。


 隣にはハディートがいた。もう白髪になっていた。

 私はそこで、息を吸うのが少し遅れた。翡翠色の髪を見た後だと、その白さはただの色では済まなかった。写真の中の彼は笑っていない。けれど、怒っているわけでもない。何かを燃やし尽くした後、まだ立っている人間の顔をしていた。


「ここから、今のハディートに近いんだ」

「せやな」


 パケラスの声は短かった。

 リガルディーはハディートの横にいるのに、寄り添ってはいない。監視していると言えばそう見える。付き添っていると言えば、それも間違いではない。写真に残る距離は説明より正確だった。リガルディーの指先は書類を持ち、ハディートの目はカメラの向こうを見ている。二人の間には、紙一枚より薄くて刃物より硬い線があった。


「リガルディー、変わらないね」

「中身は結構変わっとるで」

「そうなの?」

「変わったから、今ああなんねん」


 その言い方に、私は少しだけ目を伏せた。

 変わることと、変わらないように見えることは同じではない。写真の中のリガルディーは静かだ。しかし、今の彼の静けさとは違う。今の静けさは選んだものに見える。写真のそれは、まだ選ぶ前の硬さだった。


 ページをめくる音が続いた。

 古い講義室。割れた窓の前で煙草を持つ誰か。式具を囲む数人。書類の山。夜の廊下。本を読むノクティス。腕を組むイグナス。椅子に座らず机に腰をかけているハディート。メイザースの後ろで、誰かが笑いを堪えている一枚。見覚えのあるような、ないような男の横顔。


 私は途中から、誰が写っているかより、誰が誰の近くにいるかを見るようになっていた。

 距離は変わる。目線も変わる。昔は隣にいた人が、次の紙では斜め後ろにいる。肩が触れるほど近かった二人が、別の写真では同じ部屋の端と端にいる。名前より先に、その変化が残る。パケラスはそれを分かっているのか、何も言わない写真が増えていった。


 最後に、彼は一枚だけ途中で手を止めた。

 そこには、翡翠色の髪のハディートと、パケラスと、ノクティスと、イグナスが写っていた。集合写真の切れ端なのか、周囲は少し欠けている。ハディートは何かを言っている。パケラスはそれを聞いて笑いかけ、ノクティスはイグナスのローブを掴んだまま相変わらず横を向いている。イグナスだけがカメラに気づいていた。


 医務室の空調が低く唸る。

 パケラスの指は写真の上に置かれていたが、誰の顔にも触れていなかった。触れない場所を選んでいる。それだけで、そこに触れてはいけないものがあると分かる。


「……昔のハディート、全然違うね」

「違うな」

「でも、ハディートだ」

「そこが面倒なんや」


 パケラスは薄紙を戻した。

 翡翠色の髪が、白く濁った紙の下へ隠れる。完全に見えなくなるのに、色だけがまだ目の裏に残った。医務室の白い灯りがアルバムの表紙に落ち、擦れた黒い角を鈍く光らせた。

最初の写真は22年前のやつですね。書いておかないと私が忘れてしまう。

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