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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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115/122

115.翡翠色のハディート

 クレアの手はしばらくパケラスの頭の上を往復していた。


 最初は同じ場所ばかり撫でていたが、だんだん前髪の上から頭頂部へ、そこから耳の後ろへ移る。力加減はずっと雑で、指先が髪に引っかかるたびにパケラスの眉がわずかに動いた。それでも彼は逃げなかった。


「もうげんきになった?」

「多少はな」

「多少?」

「だいぶ」

「だいぶ?」

「……かなり」


 クレアはそれで満足したらしい。

 最後に両手でパケラスの髪を押さえ、乱れたところを直そうとした。けれど、押さえた分だけ別の場所が跳ねる。パケラスは片眉を上げたまま、その手首を軽く取った。


「もうええ。これ以上やると、僕の髪が変な形になる」

「へんなかたち、みたい」

「見せへん」


 そう言ってから、パケラスはクレアの身体を片腕で引き寄せた。


 乱暴な動きではなかった。抱きしめるというより、近くに来すぎた小動物を一度回収する手つきだった。白衣の袖がクレアの背に回り、もう片方の手が黄色い髪の結び目を避けて頭を二度撫でる。クレアは少し目を丸くして、それからすぐにパケラスの胸元へ頬を寄せた。


 撫で返す手はクレアよりずっと慣れていた。熱を測る指、骨の位置を避ける掌、強くしすぎる前に止まる腕。医者の癖が残っているのに、その奥に別のものが混ざっている。クレアはそれを疑わない。疑う前に受け取ってしまう。


「よしよしされた」

「されたな」

「パケラスもげんき?」

「元気や」

「じゃあ、クレアもげんき!」


 胸を張る理由は分からなかったが、誰も訂正しなかった。


 パケラスはクレアを離し、乱れた前髪を親指の腹で少しだけ整える。それから机の端に置いていた色鉛筆の箱を閉じ、三枚の絵をまとめて汚れない位置へ寄せた。


「ほら、そろそろ戻り。朝からだいぶ遊んだやろ」

「うん!」

「寄り道せんと部屋帰りや」

「ルシアンのとこいかない!」

「それは正解やけど、他にも危ないやつ山ほどおるからな」

「ハディートも?」

「筆頭や」


 クレアは少し考えてから、納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。

 扉のところまで行って一度だけ振り返る。黄色い髪の先が医務室の白い灯りを引っかけ薄く揺れた。


「パケラス、しおしおじゃなくなった?」

「蒸し返すな」

「しおしおじゃない?」

「……ああ」

「よかった!」


 クレアは笑って、今度こそ医務室を出ていった。


 扉が閉まると、部屋の音が一段減った。色鉛筆が転がる音も紙を引く音もよしよしという小さな声もない。空調の低い唸りだけが戻ってくる。朝の医務室は、急に本来の白さを取り戻した。



 パケラスは椅子に座ったまま、しばらく扉の方を見ていた。


 機嫌は良さそうだった。本人は絶対に認めないだろうが、口元の力が抜けている。眠気も疲れも消えたわけではないのに、さっきまでの沈み方とは違っていた。髪を直す手つきまで少し雑で、鏡を見ないまま指で梳くだけで済ませている。


「……単純だね」

「今のを見てそれ言うか」


 パケラスは鼻で笑った。

 それから机へ視線を落とす。三枚の絵のうち、彼の目は自然にハディートの紙で止まった。私が描いた目元はまだ途中で、顔の輪郭も髪の流れも甘い。だけど、誰を描こうとしたのかは分かる。分かる程度には、私はあの人を見ていた。


「そんなにハディートが好きやったら、ええもん見せたろか」

「いや、好きというか……」


 そう言いかけて、続きが詰まった。


 好きと言い切るには違う。嫌いとも置けない。関わりたくない日もあるのに、名前が出ると反応してしまう。助けられたことと厄介なことをされたことが同じ棚に入り、片方だけ取り出せない。


 パケラスはそこを待たなかった。


「まあ、どっちでもええわ」


 軽く流して、机の引き出しを開ける。


 中には書類、古い診療メモ、封筒、使いかけのペン、薄い薬包紙の束が詰まっていた。整っているようで、奥はかなり雑だ。パケラスは指先で紙を避け、底の方へ手を入れる。引き出しの中で、乾いた紙と金具が擦れた。


 やがて、彼は一冊のアルバムを取り出した。


 黒い表紙だった。角は白く擦れ、背の部分には細かなひびが入っている。古い紙と糊の匂いが、医務室の消毒臭の中へゆっくり滲んだ。題名はない。けれど、雑に捨てられていた物ではなかった。何度も開かれ、閉じられ、そのたびに少しずつ重くなったものの顔をしている。


「写真?」

「せや。大半は、アイツがまだ今ほど面倒になる前のやつやな」


 パケラスは表紙を開いた。


 台紙の間に薄い紙が挟まっており、めくるたびにかすれた音がした。写真はどれも古い。色が少し抜け端が丸まり、何枚かは裏の日付が滲んでいる。写っている場所はばらばらだった。古い講義室、魔術具の並んだ部屋、石造りの廊下、煙草の煙で曇った窓際。白黒に近いものもあれば、妙に鮮やかな色だけ残っているものもあった。


 そこに、今より若いパケラスがいた。


 白衣ではなく、私服の上からローブを羽織っていた。笑っているのに、口元だけで済ませている。今の軽さへ至る前の余分な尖りがそのまま写っていた。


「これ、パケラス?」

「僕やな」

「若い」

「そら若いやろ。()()()やし」

「三十一……」


 その数字は写真と合っていた。

 目の前の写真にいるパケラスは、ちゃんと三十一歳の男に見えた。若いし痩せていて、どこか姿勢に力が入りすぎている。けれど、今の彼を知っているせいで、その自然さの方がかえって不気味だった。今のパケラスは五十を過ぎているはずなのに、()()()姿()()()()()()()()()()()()()。写真の中の若さより、そこから現在までの時間の抜け落ち方の方が目についた。


「魔術師なんてこんなもんやで。時間の使い方が下手やねん」


 冗談の形で言われたのに、言葉の底だけが変に冷えていた。

 パケラスは次の薄紙をめくる。そこに写っていた男を見た瞬間、私は指先を止めた。


 ――ハディートだった。


 ただ、髪だけが違った。

 写真の中の男は、綺麗な翡翠色の髪をしていた。光を拾うところは青く、影へ沈むところは深い緑に見える。硝子の奥に水を閉じ込めたような色だった。今の白髪しか知らないせいで、一瞬別人を見せられたのかと思った。だが、細い顎も、人を見ているのに別の規則を読んでいる目も、あの嫌なほど整った立ち方も、全部ハディートだった。


「……髪、違う」


 口から落ちた声が、写真の上で少しだけ遅れて沈む。


()()の前やからな」


 パケラスは台紙の端を指で押さえた。

 その一言だけで、医務室の白さが少し鈍った。私は写真へ近づけかけた指を止める。触れれば紙の表面に自分の体温が残りそうで、それが余計なことに思えた。


「ハディートは、この時いくつ?」

「三十」


 三十歳のハディートも、ちゃんと三十歳に見えた。

 今より頬の線が薄い。目元の鋭さもあるが、そこには疲れが乗っていない。傲慢さも、冷たさもある。しかし、現在の彼にまとわりついている灰の匂いまでは写っていない。目の奥にまだ燃え残りではなく火そのものがある。


 写真の中で、パケラスとハディートは並んで立っていた。

 距離が近い。親しいと言い切るには互いに顔が素直ではないが、少なくとも警戒はしていない。パケラスは片手に本を抱え、ハディートは何か言いかけた顔でこちらを見ている。撮った人間に文句をつけようとした瞬間を切られたのかもしれない。口元だけが少し動きの途中で止まっている。


「この頃は、まだハディートやなくて、ちゃんと()()()()()()()()()()()()って呼ばれとった」


 ――アレイスター・クロウリー。


 その名前は、今のハディートより少しだけ人間に近い響きを持っていた気がした。紙の中の翡翠色の髪が医務室の白い光から外れて、別の時間の中で薄く光っていた。

ハディートは1章でメイン張っていたはずなのに、口数少ないのでパケラスにセリフの文字数負けてますね。ちなみに、ちょっとしか出てないウェイトとほぼ文字数変わらないという。パケラスがなんでも喋っちゃう多弁なキャラなので仕方ないとは思うのですが。

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