114.迂回した気遣い
パケラスが椅子にもたれたまま、低く息を吐く。
「朝からえらいもん描かされたな」
「たのしかったよ!」
「お前はそうやろな……」
クレアは次の紙を一枚引き出しかけて、ふと手を止めた。
さっきまで色鉛筆の箱へ向いていた目が、急にパケラスの顔へ移る。明るい動きのまま、そこだけ少しだけ静かになった。医務室の白い灯りの下でクレアの黄色い髪が細く光る。朝の軽さの中に、ほんの一粒だけ違うものが混ざった感じがした。
「パケラス、げんきないの?」
唐突だった。
パケラスは椅子にもたれたまま、目だけをクレアへ向ける。
「なんや急に」
声はいつもの調子だった。少し面倒そうで、少しだけ甘い。けれど、私はその返事より先に、彼の指が紙の端を押さえたまま止まったのを見ていた。否定するには一拍だけ遅い反応だった。
クレアは色鉛筆を箱へ戻す。赤い軸が他の色に当たり、乾いた音を立てた。
「あのね、ハディートがさっきいってたよ」
「……また余計なことを」
パケラスが小さくつぶやく。
本当に小さい声だった。クレアへ聞かせるためではなく、自分の口から勝手に落ちたものに近い。私はその名前に少しだけ反応してしまう。紙の上に描きかけたハディートの目元が、急にこちらを見返してきたように思えた。
パケラスはすぐに顔を戻す。
「あんな危ないおじさんと話しちゃダメだよ」
「パケラスもおじさんだよ?」
「そこは今関係あらへん」
「あぶないの?」
「危ないで。局の人間で一番危ない」
「でも、ハディートがね」
そこでクレアは椅子から立つ。小さな身体が机の横を回り込み、パケラスの前へ来た。パケラスは怪訝そうに目を細めるが、止めはしない。
「『僕が撫でたって喜ばないから、クレアが代わりに慰めてあげて』っていってた」
その瞬間、パケラスの顔から少しだけ表情が抜けた。
怒るのかと思った。あるいは、いつもの調子で悪態をつくのかとも思った。けれど実際には、彼は何も言わなかった。言い返す言葉を探したというより、どこから否定すればいいのか分からなくなった顔だった。
クレアは迷わない。
背伸びをして、パケラスの頭へ手を伸ばす。届きにくい高さだったので、パケラスは反射的に少しだけ身を屈めた。屈めてから、自分でそれに気づいたように眉を寄せる。
「……いや、待て。なんで僕が撫でられる側になっとんねん」
「よしよしするの」
「せんでええ」
「するの」
クレアの手が、パケラスの髪に乗った。軽い手だった。力も技術もない。ただ、撫でるという行為だけを信じている手つきだ。髪を整えるのでも、熱を測るのでも、傷を確かめるのでもない。上から下へ、ぎこちなく何度も同じ場所を通る。
パケラスは目を伏せた。
困っている。明らかに困っている。五十を過ぎた男が、十代の少女に頭を撫でられている光景は、さっき抱きつかれた時とはまた別の意味で収まりが悪い。けれど、彼の肩から余計な力が少しずつ抜けていくのも見えてしまった。
「ハディート、ちゃんとみてたんだね」
「見んでええところばっか見よるんや、アイツは」
「でも、パケラスげんきなかったよ」
「僕はいつもこんなもんや」
「ちがうよ。きょうは、ちょっとしおしお」
しおしお。
その言い方に、私は思わず息を詰めた。笑いそうになったのではない。あまりにも遠慮なく、あまりにも正確で、変なところを突かれた気がした。
パケラスも同じだったのか、片手で顔を覆いかけて途中でやめる。
「誰がしおしおや」
「パケラス!」
「元気よく言い切るなあ」
「げんきないから、げんきよくいったの」
理屈になっているようでなっていない。
けれどクレアの中ではそれでちゃんと成立しているらしい。彼女はまたパケラスの頭を撫でた。今度は少しだけ手つきが雑になり、髪が乱れる。パケラスは文句を言いかけて、結局言わなかった。
私はその光景を見ていた。
昨夜、ウェイトのことを拷問しに行った人。朝、眠気を隠しきれないままヨーグルトを食べていた人。その同じ人が、今はクレアの小さな手に頭を預けている。
奇妙だった。
でも、嫌ではなかった。
ハディートがこれをさせたのだと思うと、余計に奇妙だった。自分では撫でない。自分がやっても喜ばれないと分かっている。だからクレアを寄越す。気遣いと呼ぶには迂回しすぎていて、嫌味と呼ぶには少しだけ優しい。
私は紙の上のハディートを見る。
まだ未完成の顔は、何も言わない。だが、こういう時だけ余計なことをする人なのだと分かってしまうのが少し腹立たしかった。
「もうええやろ」
パケラスが低く言った。
「まだ」
「いつまでやるん」
「げんきになるまで」
「それやと今日中に終わらへんかもしれんで」
「じゃあ、いっぱいする!」
クレアは即答した。
パケラスは一瞬だけ黙って、それから諦めたように小さく息を吐く。
「……ほんま、誰に似たんやろな」
「クレアはクレアだよ」
「せやな」
返す声が、少しだけ柔らかかった。
本人は素直に喜んでいると思われるのが嫌なのだろう。だから口では文句を言うし、困った顔も作る。けれど、椅子から逃げない。頭を引かない。クレアの手が滑って髪を乱しても、直すのは撫で終わってからでいいという顔をしていた。
医務室の白い部屋に、色鉛筆の箱と三枚の絵が残っている。レイと、マディカルと、ハディート。さっきまで少しだけ落ち着かなかった紙の並びは、今は机の端で静かに乾いているように見えた。そこへクレアの「よしよし」という小さな声が重なる。
パケラスは何も言わない。ただ、目を伏せたまま、クレアの手が頭の上を通るのを受けていた。




