113.伏せ損ねた絵
先に動いたのはクレアだった。迷いがない。赤、青、黒、黄色。次々に持ち替えながら、紙の上へ線を置いていく。こちらと違って好きな人と言われた瞬間に描く相手が決まっている手つきだった。
私はまだ紙を見たままだった。白い面の上へ、何も置けない。好きな人と言われて、最初に浮かぶ顔があること自体は否定できない。否定できないのに、それをそのまま紙へ出していいのかが分からない。いいわけがない気もするし、ここで別の誰かを描く方が嘘臭い気もする。
けれど、結局は黒を取った。
顔より先に浮かぶのは、癖のない髪と、温度の低い目元と、いつもどこか線を引いたまま立っている気配だった。見慣れているわけでもないのに、思い出す時だけは細部が勝手に残る。私は一度だけ息を詰め、それから観念したみたいに輪郭を置き始めた。
パケラスもようやく一本だけ色鉛筆を取った。黒に近い、紫を含んだ色だった。
紙へ置かれた最初の線は迷っているようでいて、手が進み始めるとやけに滑らかだ。輪郭から入る。顔の線、その外側へ落ちる髪。少し長い。肩で切れない。そのまま首筋が細く下りて、目元へ入った線だけがやけに早い。上がりすぎず緩みすぎず、笑っているように見せながら本当には笑わない類の角度だった。
私は自分の紙へ目を戻す。見ない方がいい気がしたからだ。見ればこちらがまだ途中なのに、向こうだけ完成へ向かっているのが分かってしまう。
クレアの紙の上ではもう人の形ができ始めていた。髪は暗めで体つきはすらりとしていて、その横に大きな龍らしきものまで描かれている。龍の方がやたら元気で、紙の上で一番生き生きしていた。
私の方はまだ顔の輪郭を置いたくらいで進みは遅い。遅いくせに一度目元へ線を入れてしまうと、それが誰なのかがもう隠しようもなくなる。紙の上の人間はまだ未完成なのに、未完成なままハディートに寄っていく。そのことに、自分で少しだけ腹が立った。
「朱音、かいてる?」
「……描いてる」
「ほんとに?」
「描いてるよ」
クレアは満足したらしく、また自分の紙へ戻った。パケラスはもうほとんど何も言わない。時々色を持ち替える音だけがして、そのたびに紫に近い黒や髪へ入れる濃い色が目につく。
先に声を上げたのはクレアだった。
「できた!」
紙を持ち上げる。そこにはレイがいた。少しだけ目が大きく、実物よりも格好よさが増している。けれど本人だとちゃんと分かる。隣には青っぽい龍がいて……というより、半分くらい龍の方が主役だった。
「レイ君や」
「うん!」
「クレアは僕のこと描くんじゃなかったのか」
わざとらしく言うと、クレアは心底不思議そうに目を丸くした。
「えー?」
「えー、やないやろ」
「だってレイ君かっこいいもん! 龍になれるもん! レイ君とけっこんするんだ!」
医務室の白い空気の中で、その宣言だけが妙に明るく跳ねた。
私は思わず、あぁ、とだけ心の中で思う。確かに、あの人と結婚したい人は多いだろうな、と納得してしまうくらいにはレイは分かりやすく格好いい。強くて顔もよくて黙っていても目を引く。しかも龍にまでなれる。子どもが憧れる条件としては満点に近い。
ただ、結婚はできないんだよな、とその後で思う。
許婚がいる。あの人の周りの事情を全部知っているわけではないけれど。クレアの絵みたいに真っ直ぐな願いでは済まないところでもう最初から線が引かれている。
「そうかそうか。ジジイ、負けたんやな」
パケラスが大して悔しくなさそうに言う。
「まけ!」
「元気よく言うなあ」
困ったみたいに笑いながら、パケラスは自分の紙を机へ伏せかけた。けれどクレアがそれを見逃すわけもなく、すぐに身を乗り出す。
「パケラスのも見る!」
「なんでやねん」
「見たい!」
押し切られて、パケラスは観念したみたいに紙を戻した。
そこにいたのは、女だった。
長い髪。少し吊り気味の目。口元は笑っているようでちゃんとは笑ってはいない。派手に描き込んでいるわけでもないのに、紙の上へ置かれた時点で妙に温度のある顔だった。首筋は細く、その下へ落ちる線は、布が足りているのに足りていないように見える種類の女を連想させる。煙の匂いまで染みついていそうな顔だと、ふと私は思った。
「マディカル!」
クレアが迷いなく言った。
パケラスの手が、その瞬間だけ少し止まる。隠すには遅い間だった。
「……早いな」
「だってマディカルだもん」
「せやけど、そこで即答すなや」
私はその絵をもう一度見た。言われてみれば、と思う。見覚えはあるけれど、最初からそこへ繋がるほど私はあの人を見ていない。クレアの方が、顔を覚える時の距離がたぶん近いのだろう。
「……あぁ」
そこでようやく、私の中でも輪郭が噛み合った。マディカルだ。そう思って見れば、目元も、口元も、あの人だった。しかも、ただ似ているだけではない。描き慣れていないはずなのに、変なところばかり正確だ。見ている時間が長い人間の描き方だと分かる。
「誰でもええやろ」
「よくないでしょ」
「ただの女の人や」
「マディカルだよ?」
「お前は黙っとき」
そう言い返しながらも、パケラスが紙を伏せる手つきだけ少し早い。見られたくないのか見られて困るのか、その両方みたいな動きだった。どうでもいい相手ならあそこまで露骨に閉じない。クレアが一発で名前を言い当てたせいで、ごまかし方まで少し雑になっている。
クレアはもう深く追わなかった。今度は自然な流れで私の紙へ顔を寄せてくる。
「朱音のも!」
まぁ逃げられないな、と思う。
私は少しだけ迷ってから、紙を裏返さずにそのまま机へ置いた。まだ描き込みきっていない。線も少ない。けれど、少ないなりに誰を描こうとしたかは、多分見れば分かる。
クレアが紙を覗き込んで、それから首を傾げた。
「……ハディート?」
「うん」
「好きなの?」
「……どうだろう」
即答できない自分の声が少しだけ遅れる。
好き、の中身が何なのか自分でもまだ説明できない。けれど、好きな人の絵を描けと言われて、結局この顔を選んだ。選んだ以上、そこから逃げるのも変だと思った。
パケラスは私の紙をちらりと見ただけで、特に何も言わなかった。からかうわけでもなく、深読みするわけでもない。その方がかえって気まずい。
「みんなちゃんと描けたね!」
クレアだけが満足そうに言う。
紙の上には、レイと、マディカルと、ハディートがいる。
並べてみると全く統一感がない。だが、それぞれちゃんと選んだ人なのが分かってしまう。そのことが少しだけ落ち着かなかった。




