112.無垢な視線
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目が覚めた時、窓の外から回り込んだ薄い光が壁の白へわずかに灰を落としていた。眠った実感はある。けれど、よく休めたと言うほど深くもない。昨日の夢の継ぎ目はもう頭の表面からは遠のいていて、代わりに思い出そうとすると左脇腹へ手が行きそうになる感覚だけが残っていた。
起き上がると、毛布の擦れる音がやけに乾いて聞こえた。喉も少し乾いている。体は重いが、昨夜みたいな嫌な浮き方はない。動けると分かるだけで、少しだけ気が楽になる。
寝台の脇には、もう朝食が置かれていた。
白い陶器の器にヨーグルト。その上へ切った果物が雑然と乗っている。黄桃と、缶詰っぽい色のパイナップル、それから少しだけ苺。別の小鉢にはコーンフレーク。乾いた甘い匂いが、薬品と消毒の残り香と混ざる。
「起きた?」
声のした方を見ると、パケラスがもうそこにいた。昨日の血の気配はさすがに消えていて、今日は白衣ではなくもう少し緩い格好の上へ適当に何か羽織っている。本人の前にも同じような器があり、椅子へ浅く座ったまま匙を持っていた。眠そうではあるが、眠いのを隠す気もない顔だった。
「……おはようございます」
「おはよ。ほら、それ混ぜて食べ」
そう言われて、私は自分の前の器と小鉢を見比べた。コーンフレークを、ヨーグルトへ。頭では分かる。分かるが、寝起きのせいか一拍だけ引っかかる。
「ヨーグルトと混ぜるものでしたっけ? 牛乳と一緒に食べるイメージだけど」
「いけるで」
「どうなんだろう……」
そう言いながらも、私は小鉢を持ち上げた。乾いたフレークが器へ落ち、白い表面の上へ茶色が散る。匙でひと混ぜすると上の方だけがすぐ湿って、下の方にはまだ乾いた硬さが残った。思っていたよりおかしくはないが、正解かと言われると少しだけ迷う見た目をしている。
パケラスは自分の器でも同じことをしていた。しかも迷いがない。混ぜ方まで慣れている。あの人の手つきは、薬を合わせる時も食べ物を崩す時も雑味が少ないなと、どうでもいいことを思う。
「そんな気になるならあーん、してあげたろか?」
匙を持ったまま、パケラスが口元だけで笑う。
「それとも口移しの方がええか?」
「普通に食べます」
即答して、そのまま一口を口へ入れた。少し急ぎすぎたせいで、冷たさが先に上あごへ当たる。ヨーグルトの酸味は思ったより柔らかくて、果物の甘さが遅れてくる。フレークは上の方がもう湿っているのに、下の方だけまだ少し硬い。その半端さがかえって食べやすかった。
「そんな急いで食わなくても」
「誰のせいですか」
「ジジイやな」
認めるのが早いが反省した顔はしない。私はもう一口を口へ運びながら、パケラスの器を見る。向こうも普通に食べていた。からかった直後でも、食べる時はちゃんと食べる。その切り替え方が少しだけ腹立たしい。
黙って食べる時間が少し続く。匙が器へ当たる音だけが、朝の医務室の白さの中で細く響いた。フルーツは冷えていて、ヨーグルトは思ったより重くない。起き抜けの胃にはちょうどよかった。昨夜のことを思い出そうとすると、まだ少し嫌な感じが戻る。だから、今は目の前の食感の方だけ拾っている方が楽だった。
「……ほんとに合うんですね」
「せやろ」
「でも、最初から混ぜて出されるとちょっと嫌かも」
「湿気るからな。食う直前がええねん」
「そこはちゃんとしてるんだ」
「食べ物に関してはわりとちゃんとしてるで」
平然ともう一口食べる。私は少しだけ笑いそうになったが、そこまで大きくは動かない。ただ、昨夜より肩の力は抜けていた。
食べ終わる頃には、器の底に薄く残ったヨーグルトをほとんど掬いきっていた。フレークの欠片だけが端へ張りついていて、私はそれを匙で集める。パケラスの方はもう先に終わっていて、椅子へややだらしなく体を預けている。眠いのだろう。眠いのに起きている人の座り方だった。
「朝からそんなちゃんと食べられるの、ちょっと意外です」
「何が」
「もっと煙だけで生きてそうだったので」
「失礼やな。僕かて人間やぞ」
言い方は軽いが、どこか少し掠れている。昨夜まともに寝ていないのかもしれない。そう思ってから、何となくその先を聞くのはやめた。今ここで掘っても、ろくな方向へ行かない気がしたからだ。
「お前、今日は昨日より顔マシや」
「褒めてます?」
「まあな」
前も似たようなことを言っていた気がするが、それとは温度が違った。今のは単に起きた顔を見て言っているだけだ。
器を下げようとしたところで、扉の向こうに軽い足音がした。
走ってくるほどではない。けれど、大人の歩幅でもない。途中で一度止まって、それからまた近づく。パケラスは誰だか分かったらしく、椅子に座ったまま薄く息を吐いた。
「朝から元気やな……」
次の瞬間、扉が何の遠慮もなく開いた。
白い光の筋と一緒に、黄色い髪が先に飛び込んでくる。小さな影は部屋の様子を確かめるより早くパケラスの方へ向かって、そのまま椅子に座っている彼の膝元へ身体ごとぶつかるみたいに抱きついた。
「パケラスー!」
勢いのわりに、受け止める側は慣れていた。
パケラスは一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐに困ったように笑ってクレアの背へ腕を回して軽く抱き寄せている。
「なんやなんや、朝から元気やな」
声音は呆れているのに、手つきは思ったより柔らかい。追い返す気配も引き剥がす気配もない。むしろ少しだけ嬉しそうに見えて、私はそのことへ先に引っかかった。
しかし、別の意味でも引っかかる。
五十を過ぎた男に十代の女の子が躊躇なく抱きつく絵面というのは、客観的に見るとあまりよろしくない。よろしくないというか、事情を知らない人が見たらまず面倒な方向へ受け取るやつだ。昨夜のことだの監察局だの夢だのと頭の中へずっと重たく積もっていたものとは別の意味で、私は一瞬だけ言葉を失う。
けれどクレア本人はそんなことを一切考えていない顔だった。抱きついたまま肩越しにこちらを見るでもなく、ただ目的だけを真っ直ぐ持ってきた子どもの目をしている。
「おえかきしたい!」
パケラスはクレアの髪へ顎が当たらない程度に顔を引きながら、小さく息を吐いた。
「絵かぁ。まあええけど」
「ほんま?」
「ほんまほんま。せやけど、いきなり飛びつくのやめえや」
「だってはやくいいたかった!」
そう言いながらも、クレアはすぐには離れない。パケラスの方も、もう一度困ったように眉を下げるだけで、そのまま背中をぽんぽんと軽く叩いている。甘やかしているのか宥めているのか、その境目が曖昧だった。
私はそのやり取りを見ながら、昨夜までのパケラスと目の前のパケラスが同じ人間の中に入っているのが少し不思議に思った。あの人は、相手によって手の温度を変える。変えるというより、最初からいくつか持っているのかもしれない。
ようやくクレアが離れる。
離れたと思ったら、今度はくるりとこちらを向いた。
「朱音もいっしょにやろ!」
「私も?」
思わず聞き返してしまう。
クレアは当然みたいに頷いた。
「うん。ひとりよりふたりの方が楽しいもん」
「……まぁ、そうかもしれないけど」
絵を描く、という行為がこの白い部屋に急に持ち込まれたこと自体が少し妙だった。医務室にあるのは薬と記録と白い布ばかりで、色のついたものはあまり似合わない。なのにクレアが言うと、それだけで話が成り立ってしまう。
パケラスが机の端を指で軽く叩く。
「色鉛筆やったらどっかにあったやろ」
「あるよ! もってきた!」
クレアは胸を張って、いつの間に持っていたのか小さな箱を掲げた。蓋の角が少し潰れていて、使い込まれた跡がある。中で色がぶつかる乾いた音がした。
「準備ええな」
「えらい?」
「えらいえらい」
その返しも早い。
クレアは満足したらしく、今度は勝手知ったる様子で机へ紙を広げ始めた。
私は寝台の上で少し迷ったあと、結局そのまま付き合うことにした。断る理由もない。むしろ、ここで一人だけ乗らない方が変に空気を固くする気がした。
紙を受け取る。少しざらついた厚めの紙だった。こういうのまでちゃんと用意されているのか、あるいはクレアがどこかから持ち込んだのか、その辺はよく分からない。
「なに描くの?」
「好きなん描いたらええんちゃう」
「ううん、ちがうよ」
クレアは机へ肘をつき、こちらとパケラスの顔を順番に見た。
「すきな人の絵、かいて」
その一言で、部屋の空気が少し止まった。
私の手の中で、色鉛筆が一本だけ乾いた音を立てる。思っていたよりずっと困難な課題だった。花とか猫とか空とかそういう逃げ道のあるものを想像していたのに、一番逃げにくいところへいきなり置かれる。
隣を見ると、パケラスもさすがに一拍遅れていた。
困っているというより、もっと露骨に「そこか」と思った時の顔だった。指先で紙の端を押さえたまま視線を落とす。
「……急に難しいこと言うなあ」
「むずかしい?」
「むずかしいで」
クレアは首を傾げる。本当に分かっていない顔だった。分かっていないからこそ、余計に逃げ場がない。
私は紙を見たまま、誰を描くべきかと考えてしまう。好きな人、と言われて、すぐに誰かの顔が浮かぶほど単純なら苦労しない。そもそも、好きという言葉の幅が広すぎる。恋だの情だの家族だの執着だの、全部ひとまとめに押し込まれている感じがして、最初の一本が選べなかった。
パケラスの方もまだ描き始めない。
あの人ならこういう時はもっと適当に流すかと思ったのに、意外なくらい黙っていた。からかうこともせず紙の前で小さく考え込んでいる。
クレアだけが急かさず待っている。
待っているというより、二人とも当然描けると思っている目だった。好きな人なんて聞かれたらすぐ分かるものでしょう、とでも言いたげな無垢な視線だ。
その無垢さが、今は少しだけ残酷だった。




