111.連結不良の景
牢を出た時には、もう眠気が骨の方まで降りていた。
歩くたびにさっきまで張っていた神経の糸が一本ずつ切れていく。こういう時ほど手順を落としやすい。だから先に医務室へ戻るのはやめた。白衣は前も袖も血でひどく汚れている。あのまま朱音の前へ出れば、余計な説明が一つ増えるだけだ。
シャワー室の灯りはやけに白かった。栓をひねったが、最初に出た水は少しだけ鉄臭い。ぬるい湯へ変わるまでの数秒が長く感じる。パケラスは白衣を脱いで床へ落とした。濡れた音ではなく、乾きかけた血で少し硬くなった布の重い音がした。ろくでもないなと思いながらそのまま頭から湯を浴びる。血も薬も汗も、流れ落ちる時だけは見分けがつかない。排水口へ赤が薄まりながら消えていくのを一度だけ見て、すぐに視線を切った。
髪を乱暴に拭き白衣ではなくローブを羽織る。局の中で着るには少しだけ私的で、医者より錬金術師の顔に近い格好だった。紐を結ぶ手つきが一瞬遅れる。眠い。だが、血のついたまま行くよりは良い。袖口に匂いが残っていないかだけ確認して端末をポケットへねじ込み、そのまま医務室へ向かった。
戻る頃には、廊下の白さが少し鈍って見えた。
けれど監察局の灯りは、朝とも夜ともつかない顔のまま残り続ける。パケラスは扉の前で一度だけ目を閉じかけ、それから開ける。
中には朱音とリヴィアがいた。
リヴィアは寝台の脇に相変わらず観測器具みたいな顔で立っている。緑の髪だけがこの部屋で静かに揺れていた。
朱音は半身を起こしていた。完全に目が冴えているわけではないが、もう眠りの底へ沈み直す顔でもない。掛け布の端を指先で軽く握っていて、その手つきだけがやけに現実的だった。
扉の音に気づいて朱音が顔を上げる。まずローブを見る。次に顔へ視線が来る。そこで一拍遅れて、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
「……戻ってきた」
「見たら分かるやろ」
そう返すと、朱音は曖昧に頷いたもののそこで言葉を切った。視線だけがローブの前と手元を一度なぞる。どこへ行っていたのか、何をしてきたのか、その痕が残っていないかを本人もはっきり意識しないまま確かめている目だった。
「……いなかったから」
小さく付け足される。責めているわけではない。確認したかっただけだろう。だが、その薄さが逆に嫌だった。起き際に左脇腹へ一瞬の痛みまで落ちたあとだ。目を開けてそこにいると思っていた人間がいなければ、あらぬ方向へ考えるのも無理はない。
パケラスは椅子を引いて腰を下ろした。ローブの裾が膝に触れて小さく鳴る。
「ちょっと確認したいことあってな」
朱音はそのまま「確認」と繰り返した。眠いのか声が平たい。もしくは、聞きたくない答えを薄く警戒しているせいでもあるのだろう。
「何かあったの」
「まあ、あった。お前に関係あるか言われたら、ある」
そこで朱音の肩に少し力が入る。リヴィアは寝台の脇で何も言わない。観測のためだけに立っているような目で二人を見ていた。変に濁すとかえって形が悪くなる気がした。
「お前が見た夢と、起きた時の痛みがどこまで繋がっとるか見に行ってた。雑に言えば、答え合わせや」
朱音は黙る。掛け布の端を握る指へまた少しだけ力が入った。嫌な予感が嫌な予感のまま残っている顔だった。パケラスはそれを見て小さく息を吐く。
「別に、お前に何かしたわけちゃう。確認の範囲や」
そこでリヴィアが静かに口を開く。
「現時点で朱音の呼吸、脈拍、その他数値に大きな異常はありません」
「毎回その言い方だよね……」
「不必要な恐怖の増幅を避けています」
冷たい返しだった。だが、その機械みたいな温度のなさが今はちょうどいい。
「で、夢どうやった」
朱音は少しだけ息を吸った。思い出そうとしているのか、思い出したくないのか、そのどちらともつかない間がある。
「……変だった。場所がちゃんとしてなかった」
掛け布の端を握り直す。指先が少し白くなる。痛みのことを話す時とは違う景色そのものへの違和感を辿っている手つきだった。
「道があって建物があって空もあるのに、曲がったら急に全然違う景色になっていた。住宅街みたいだったのに次は学校の廊下みたいなのが出てきて、また見たら道路へ戻っている。継ぎ接ぎというか、パッチワークみたいだった」
パケラスは何も挟まない。横からリヴィアが短く補った。
「連結不良の景です」
「なにそれ……」
朱音が少しだけ眉を寄せる。そのやり取りで、逆に続けやすくなったらしい。掛け布から片手を離し、膝の上へ置いたまま言葉を探す。
「ウェイトもいた。いた、にはいたんだけど……固まってた」
そこでパケラスはほんの少しだけ上体を起こした。
「固まってた?」
「いるんだけど、いるだけっていうか。ちゃんと人の形ではいるのにこっち見てるわけでもないし、話しかけても反応しなくて」
そこまで言ってから、朱音は自分でもうまく言えていないと思ったのか小さく首を振る。
「聞こえていない感じとも違うし、聞こえているのに無視している感じとも少し違う。反応するための何かだけ止まっているみたいだった」
「置き物みたいやった?」
「……そう。それ」
リヴィアがまた淡々と言う。
「対象の応答性低下も確認できます。夢ではなく接続先の状態です」
白い部屋がその一言で少しだけ静まる。朱音は掛け布から離した手を、自分の左脇腹へ持っていった。今は痛くない。それでも、思い出しただけでそこへ手が行く。そのこと自体がまだ少し嫌そうだった。
「近づこうとした時に一瞬だけ刺さったみたいに痛んだ。今はないけど、起きた時はびっくりするくらいちゃんと痛かった」
パケラスはそこでようやく小さく息を吐いた。医務室から入っていた報告と、今の言葉が綺麗に噛み合う。位置も、落ち方も、残り方も、考えていた線と大きくはずれていない。
「……なるほどな」
朱音がすぐにこちらを見る。
「何か分かったの」
「まあ、大体は。全部はまだ決め打ちしたない」
そう前置きしてから、パケラスは朱音を真っ直ぐ見た。
「向こうがまともに保ててへん時の景なんやろな。せやから継ぎ目が出る。ウェイトが固まっとったんも同じや。景を立てるだけで手一杯やったか、返事するところまで回っとらんかったか、そのへんやろ」
朱音は黙る。黙ったまま、自分の中で形を合わせ直している顔だった。
「切れかけてるってこと?」
「そこまでは言わん」
即答したのは、怖がらせるだけなら簡単だからだ。実際には、切れかけているというより細って歪んでいる感じに近い。切れるならもっと単純だ。切れていないから継ぎ目も残るし一瞬だけ痛みも落ちる。
「切れかけ、いうより保ち方が汚い」
「ひどい言い方」
「ひどいもんはひどい」
「同意します」
「お前はいちいち頷かんでええ」
そう返しながらもパケラスは少しだけ助かっていた。リヴィアが合いの手を入れるたび、朱音の意識が一度外へ逃げる。逃げる先があるだけで、夢の嫌な感触へ沈み込みすぎずに済む。
「聞かんままの方がもっと嫌やったやろ」
「それはそうだけど……」
さっきよりはマシだが、まだ眠気と嫌な感触の間で身体の置き場が決まっていない顔だった。
「まだ寝れそうにない?」
「さっきよりは寝れそう」
「ほなそのうち落ちるやろ」
そこへリヴィアが静かに付け足す。
「再入眠の可能性は上がっています」
「いつも思うんやけど言い方が機械やな」
「機械的である方が有効な場面です」
朱音の声がわずかに緩む。笑うほどではない。けれど、さっきまでみたいに棘だけで張っている顔でももうなかった。
パケラスはそこでようやく椅子の背へ少し体重を預けた。眠い。思った以上に眠い。けれど、少なくとも戻ってきた意味はあった。まだ夜は終わっていないのに、場面だけが少し落ち着いた形へ寄っている。




