109.痛みの輪郭
静脈へ入れた以上効きは早かった。
センシオルは体の奥へ沈むのではなく、まず表面を裏返すみたいに回る。皮膚の下で神経の膜だけが薄く削がれて、触れるもの全部の輪郭が一段濃くなる。ウェイトは歯を食いしばったが、抑えきれない呼吸だけは漏れた。短く浅く途中で引っかかる息だ。声にする気はないのだろうに身体の方が先に裏切る。
これでも拷問用の薬の中ではだいぶマシな方やと、僕は思う。
前に自分で作った薬の方が、性質は近いのに苦痛だけは下手したら死に至るレベルだ。まあ、それはどうしようもならなかったときにコイツに打つんだが。
「どういう気分や?」
そう聞くと、ウェイトの喉が跳ねた。返事の代わりに掠れた吐息が漏れる。言葉へ整えるだけの余裕がないのだとそれで足りた。目隠しの下の表情は見えないが、肋のあたりの呼吸、腹の薄い震えが感じたくないものまで拾ってしまっている身体の動きをそのまま出していた。
パケラスは白衣の内側から短剣を抜いた。
殺すための長さはあるが、今はその用途で持っているわけではない。牢の灯りを拾って、刃の縁だけが冷たく光る。金属が抜かれる音だけが近くで鳴った。
それだけで、ウェイトの呼吸が少し乱れた。
「殺す気はないねん」
腹の辺りへ刃を当てる。冷たい金属が、傷だらけの皮膚へそっと触れた。
「僕、医者やし」
冗談みたいな言い方だったが本気ではある。致命傷を与えるつもりはない。壊すためではなく、どこまで拾うかを見るための刃だった。
ウェイトの身体が小さく震える。普段なら恐怖や痛みそのものはまだ止められるのだろう。けれどセンシオルが入った今は、その手前の揺れまで剥き出しになる。パケラスはその反応を見ながら、わずかに目を細めた。
そして、そのまま迷いなく左脇腹へ刃を入れた。
――ウェイトが初めて叫んだ。
さすがにこれは飲み込めなかったらしい。普段なら奥歯の裏で潰せるはずの音が、そのまま喉を裂くみたいに外へ出る。切られることも殴られることも、コイツはおそらく慣れている。
だが、感度を狂わされた身体で受けるそれは別だった。痛みだけで終わらない。輪郭も冷たさも入ってくる角度まで余計に鮮明になる。
「痛いやろ?」
パケラスの声は至って静かだった。その静けさの奥で、観察と別の欲が同じ方向を向いているのを自分でも知っている。限界の顔を見たい気配と反応の質を拾いたい目が、こういう時に表れてしまう。
少し楽しいとすら思う。だが知りたいのは、ウェイトが普段止めているはずの痛みがセンシオルでどこまで抜けるかという一点だ。完全には通らなくても、揺れだけは向こうへ落ちるのか。朱音の側で拾われるのが苦痛そのものではなく、もっと曖昧な動悸や衝撃の形なのか。その線だけを見ながら、パケラスは呼吸と筋肉の跳ね方を追った。
ウェイトの叫びはすぐには止まらなかった。喉の奥で切れ切れになり、息と一緒に零れている。堪えようとするたび別の音になる。身体が拾うものが多すぎて声の方が遅れている。
パケラスは短剣を引いた。刃先が傷の縁をかすめる。抉るほどではない。ただ、抜けた後の熱がまだ皮膚の下で脈打っている場所へ冷たい刃を置き直す。切るためではなく、そこに今も刃があると身体に覚えさせるための触れ方だった。
ウェイトの腹が小さく跳ねる。目隠しの下で何も見えないまま金属だけが傷の近くをゆっくり這う。どこへ来るのか分からない。もう終わったのか、まだ入るのか、その境目だけが長く引き延ばされる。センシオルが回った神経には、そういう数秒の方が余程たちが悪い。
「ちゃんと生きとるな」
慰めでも確認でもない。こちらがまだやめる気がないと分からせるための言葉だった。
ウェイトは返事をしない。代わりに、喉の奥で荒く息を噛む。痛みを堪えているというより、来るかもしれない次の一手を待たされている身体の音だった。
パケラスはそこで短剣を持ち替えた。今度は腹へ当てない。胸骨の下から脇腹へ、刃の腹だけを平たく滑らせる。浅く、ゆっくりと。切る気ならとっくに切れている角度なのに、わざとそうしない。触れるだけの冷たさがかえって次の深さを想像させた。
「どういう気分や?」
また同じことを聞く。答えが返らないのは分かっていた。
掠れた音が漏れる。言葉ではなく吐息に近い。けれど、さっきより高い。神経のどこがどう持っていかれているかがそういう細い変化に出る。
「相変わらず往生際悪いな」
パケラスは口元だけ少しだけ笑った。目は傷口の縁と、そこから遅れて跳ねる呼吸しか見ていない。
「朱音まで通っとるか」
ぽつりと落とす。問いかけというより確かめに近い。しかし、その名を出した瞬間、ウェイトの身体がわずかに強張った。
パケラスはそれを見逃さない。
「そこは拾うんやな」
そう短く言って、刃先を傷口のすぐ脇へ立てる。刃を入れはしない。皮膚が一番嫌がる角度で止めたまま、数を数えるみたいに黙る。その沈黙のせいで、まだ来ていない痛みの方が先に身体を強張らせる。ウェイトの呼吸が浅く跳ね、拘束具に繋がれた腕がわずかに軋んだ。
「まだ間に合うで」
もちろん、本気でやめるつもりはない。言葉の意味より、その曖昧さがどこへ響くかを見たいだけだった。
ウェイトはようやく、掠れた声を押し出した。
「……趣味が……悪いな」
「褒め言葉?」
「……違う」
声が出た。それだけで十分だった。薬が回って痛みが散らず、言葉にする余裕も削れてきたところでやっと一言。壊れないわけでもないというのは分かった。
「ほな、もうちょいだけ」
今度は迷わず刃を入れた。さっきの一撃を身体が思い出した瞬間に重ねる角度だった。ウェイトの身体が鎖の中で大きく跳ねる。さっきより露骨な声が漏れた。堪える形を作るより先に、身体がもう勝手に逃げようとしている。
見たかった反応は、もう取れていた。
朱音の名を出した時の遅れ。痛みではなくその先にある衝撃の揺れ。全部ではないが、全く通っていないわけでもない。切れていない。そう判断するには足りる。
その時だった。
白衣の胸ポケットの端末が光りだした。
この牢の中では眩しいくらいはっきりと光っている。パケラスは一瞬だけ手を止める。ガルザが「なんだ」と顔を上げた。端末の表示を見ると、呼び出し元はリヴィアだった。
――やっぱり、仮説は合ってたか。
夢で抜かれる。感度が上がると揺れが落ちる。痛みそのものは遮れても、身体のショックまでは切りきれない。そこまで線が繋がったところでリヴィアからの連絡だ。偶然で済む気がしなかった。




