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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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108.針先の液滴

 夜の廊下は昼より少しだけ長く感じる。

 白い壁が続いているだけのはずなのに、歩くたび距離の感覚が曖昧になる。人の気配が薄くなる分、靴底の硬い音と蛍光灯の唸りだけが残る。僕は白衣のポケットへ片手を突っ込んだまま、内側の感触を確かめた。


 今回、自分に打つ気はない。


 前に倒れた時に使ったあの()()()()()()とは違う。あれは無理やり頭だけを起こす。効けば早いがその分判断の端が変に削れ、余計な方へ鈍ることもある。今夜欲しいのは、雑に起きることではなかった。細部を拾うこと。反応を読むこと。痛みと快楽とその奥で繋がっているかもしれない筋を、余計なノイズなしに見分けることだ。


 ポケットの中のアンプルは、細い硝子のままわずかに青く沈んでいる。

 名は()()()()()


 正式な薬剤番号はもっと味気ない。管理票に載るのもそちらだ。だが、現場でそんな呼び方をする人間はいない。打つと感覚の閾値が下がる。皮膚に触れた温度、筋肉の震え、毛細い擦れ、内臓の奥で起きる反応まで、普段なら切り捨てる分を全部拾わせる。痛みだけを増やす薬ではない。むしろそこが厄介だった。快楽も同じだけ持ち上がる。冷えも、熱も、甘さも、苦さも、全部が輪郭を持つ。殴られれば殴られた分だけ鮮明になり、撫でられれば撫でられた分だけ深く入る。選べない。切り分けられない。身体が単なる受け皿ではなく、刺激の意味まで拡大して返すようになる。


 要するに、()()()()()()()()()()


 神経を鋭敏化するなどと言えば少しは上等に聞こえるが、やっていることはもっと下品だ。感じるべきでない細いものまで感じさせる。繋がりの滲み、魔力の擦れ、身体の奥で起きる微かな変調、そういう普段なら見落とすものを無理やり意識の表面へ押し上げる。治療に使えないことはない。だが、大体は尋問か拷問の手前で役に立つ類の薬で、まともな医者ならあまり好んで持ち歩かない。


 いやらしい手だと、パケラスは思う。


 しかし、持ち出している時点で今更である。もしウェイトと朱音の接続が夢や魔力の話だけではなくもう少し身体の反応に近いところまで通じているなら、この薬で拾った波が向こうへ滲むかもしれない。こっちで上げた感度の揺れが、そのまま朱音の側にまで落ちるかもしれない。そうであるならほとんど人体実験だ。しかも、承諾を取った実験ですらない。


 ……疑問も残る。もし本当に身体まで通じているなら、ガルザにしばかれている時の痛みはどうなる。ウェイトが受けている損耗の一部が朱音へ滲くのなら、もっと露骨に出てもいいはずだった。あの落ち方は確かに普通ではなかったが、殴打のたびに朱音が同じだけ悲鳴を上げるわけでもない。なら、伝わるものと伝わらないものに偏りがあるのか。痛みそのものではなく、消耗や気力の摩耗に近い層だけが流れているのか。あるいは、起きている時は別の刺激に埋もれているだけで、眠りの中だけ拾われやすいのか。仮説はいくつも立つ。


 だから行くしかない。

 廊下を折れるたび、監察局の夜は少しずつ底へ降りていく。人の使う区画から離れるほど、壁の白さは色を失って、その代わり湿気と金属の匂いが強くなる。封印区画の前を抜ける。刻印の並ぶ扉。無駄に重い沈黙。ここまで来ると蛍光灯の唸りすら遠い。


 ウェイトの牢は、いつ見ても趣味が悪い。

 扉を開ける前から、内側の空気の濃さだけで分かる。血の匂い、薬剤、汗、石の冷えた湿り気。それらが混ざって、一度も人のための部屋になったことがない顔をしている。パケラスは施錠を解き、重い扉を押した。


 最初に見えたのは壁だった。

 次に鎖。鉄具。そこへ張りつくように固定された、裸の男の身体。


「……なんやこれ」


 思わずそう漏れた。

 目隠しされた全裸のウェイトが、両腕を左右へ引かれたまま壁に固定されている。脚も開かされていた。傷だらけだ。切り傷、打撲、浅い裂け、乾いた血、まだ新しい赤。どれも無秩序に見えて、実際には加減だけはされている。死なせる気はない。死なせる気がないまま、見た目だけ悪趣味になっている。


()()()()()()()か?」


 奥にいるガルザへ向けて聞いてから、パケラスは少しだけ顔をしかめた。

 ごっこにしては雑だ。十字の見栄えに寄せたいなら、もう少し腕の角度も、足の位置も、視線の落ち方も揃える。今のこれは、形だけ真似して途中で飽きた痕がそのまま出ている。磔にするならするで、もう少し美意識を持てとすら思う。


 当のガルザはえらく機嫌がよさそうに振り返った。


「いろいろ()()()飽きてきたから試しにやってみたが、案外面白いな」

「面白さでやるなや」

「見た目はいいだろう」


 声音だけなら祭りで新しい遊びを見つけた子どもと大差なかった。やっている内容だけがひどい。パケラスは一瞬だけ目を閉じる。牢の中の空気が無駄に乾いているのも腹立たしい。こんなふうに吊られたままの身体は、乾くと余計に反応が素直になる。


 ウェイトは無言だった。

 顔だけを少し上げてこちらを見る。表情はほとんど変わらない。だが、近くで見れば分かる。雑だな、とでも思っている顔だった。痛めつけられている本人なのに、処置の質や順番の悪さを評価する側の目をまだ残している。その神経がまず気に入らない。



「聞くで」


 パケラスは牢の中へ少し踏み込みながら言った。


「朱音と繋がっとる筋のことや」


 返事はない。

 ウェイトは目隠し越しにこちらを見ている。それ以外何も動かさない。痛みで喋れないわけではないのは分かる。単純に口を開く気がないだけだ。


 ガルザが横で喉の奥を鳴らして笑う。


「まただんまりか」

「前よりしぶといな」

「根性論に付き合うタイプではなさそうだが」

「そらそうやろ」


 僕は白衣のポケットへ手を入れたまま、ウェイトの正面へ立つ。壊し方が雑だ。しかし、痛みの方向が散っているのに要所だけ妙に重い。確かに()()()()()()()()()()()だった。こういう雑さは嫌いではないが、尋問としては腹立たしい。


「聞こえてんのかお前」


 そう問うと、ウェイトは数拍遅れて口を開いた。


「……聞く気はないが、聞いてはいる」


 声は掠れている。

 けれど、芯はまだ折れていない。その返答に少し腹を立てたが、完全に黙られるよりはずっとマシではあった。


 その後は、ウェイトは何を聞いてもはぐらかした。

 朱音の夢に入る経路。魔力を抜く時にどの層を通しているのか。痛みはどこまで滲いて、どこから先が落ちないのか。問いの順番を変えても、言葉を削っても、返ってくるのは沈黙か、沈黙に毛が生えた程度の返答だけだった。


 パケラスは一度だけ浅く息を吐いた。


「……しゃあないな」


 白衣の内ポケットへ手を入れる。アンプルの硝子が指先へ冷たく当たる。取り出した薬液は、牢の灯りの下でわずかに青く沈んで見えた。見た目だけなら、ただの上等な試薬にも見える。中身はもっと質が悪い。


 だが、ウェイトには見えていない。

 それが余計に嫌な手だと思う。アンプルの首を軽く弾く。液が底へ落ちる、小さな乾いた音。続けて細い部分へ力をかけ、硝子が折れる。高く短い破断音が、湿った牢の空気の中でやけに近く響いた。注射器を取り出し薬液を吸い上げる。筒の中へ満ちていく青い影。その一連をウェイトは音と気配だけで拾っている。


()()()()()()()()()()()


 そう言って、パケラスは注射器の中の気泡を軽く弾いた。針先にごく小さな液滴が浮く。


「言っとくけど、今ならまだ間に合うで」


 最終確認だった。

 脅しでもなく親切でもない。後からそんな話は聞いていないと言わせないための言い方に近い。


 目隠しの下で、ウェイトがわずかに顔を動かす。


「何をするんだ」


 パケラスはわざといやらしそうに言い放った。


()()()()()()()()


 横で見ていたガルザが、案の定妙なところで感心した。


「なんだ、お前もたまにはそういうことやるんだな」


 パケラスは顔を向けず、目だけで睨んだ。

 そういう意味じゃない、バカかお前は――と、そのまま言葉にしなくても伝わる程度には露骨な視線だった。ガルザは一拍遅れて「ああ」と鼻を鳴らす。分かったのか分かっていないのか、その辺は相変わらず怪しい。


 パケラスは注射器を持ったまま、もう一度ウェイトの正面へ立つ。


「で、拒否しないなら()()()()


 煽るように言う。

 ウェイトには見えていない。何を打たれるのかも、どこまで身体へ来るのかも、向こう側へ何が波及するのかも分からない。分からないまま針の気配だけが少しずつ近づいてくる。嫌な予感くらいはさすがにあるのだろう。呼吸だけほんのわずかだが浅くなっていた。


 けれど、それでもなお黙っていた。

 考えているのだろう。薬の正体は読めない以上、賭けるしかない。自分が耐えるかどうかではなく、朱音の側まで含めてどこまで崩れずに済むか。その線を、見えないまま探っている沈黙だった。



「……好きにしろ」


 返答は静かだった。

 投げやりにも聞こえたが、腹の据わった声にも聞こえる。どちらにせよ往生際は悪い。あれだけ黙っておいて、最後の最後だけ潔い顔をするのが余計に質が悪かった。


 パケラスは小さく息を吐く。


「……バカだなぁ」


 ぼやきながら近づく。

 本音を言えばあまり打ちたくはない。打てば拾えるものが増える。その分余計なものまで見える。しかも今回は、向こう側へ波が行くかもしれない。その意味でも、できれば別の手で済ませたかった。


 でも、それで済まないからここまで来ている。


 ウェイトの腕を取る。傷を避け、まだ刺せそうなマシな場所を探す。皮膚の温度は低くないのに芯の方だけが削れている身体だった。拘束具に引かれた腕は、力が抜けているように見えて、触れると微かに張る。どこへ何をされるか分からない時、人の身体は勝手に先回りする。

 中身を知らない薬ほど気配だけがいやらしい。見えないまま近づく針先と、割られたアンプルの音だけで身体のほうが先に身構えていた。


「動くなよ」


 そう言って針先を当てる。

 針が入るその一拍手前。ウェイトの呼吸がわずかに詰まった。たったそれだけの変化が、この牢の中では大きかった。

 そこで迷いを切るように、僕は静かに針を入れた。

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