107.ポケットの中のアンプル
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夜の医務室。灯りの数は変わらないはずなのに、人の気配が減ると色だけが残る。壁もシーツも器具の角も、全部が静かすぎてかえって神経を逆撫でする白さだった。僕は寝台の脇に立ったまま、朱音の呼吸の深さを見ていた。昼間よりはマシだ。少なくとも、息を吸うたび喉の奥が削れるみたいな細さはない。けれど、それで安心して目を離していいほど安定もしていない。
「寝ろ」
ぶっきらぼうに言うと、朱音は寝台の上で少しだけ眉を寄せた。
「言い方……」
「優しく言うたら寝るん?」
「……分かんない」
「ほな一緒や」
そう返しながら、僕は掛け布の端を少しだけ引き上げる。乱暴ではないが丁寧でもない。寝かせるために必要な分だけを手早く整える手つきだった。額へ手を置く。熱はない。首筋、喉、鎖骨のあたりまで視線を流し、それから寝台脇の器具の表示へ目をやる。夜の測定値は記録済みだ。少々減っているが、許容範囲だ。
朱音はまだ起きている。
身体は保っているが意識の方は眠りの縁へもう片足突っ込んでいる。こういう時が一番厄介だと知っていた。本人は半端に気づいていて半端に黙る。
「夢、見そう」
朱音がぽつりと言った。
その言い方に一瞬だけ眉を寄せる。
「見てもええけど、起きたら全部言えよ」
「……うん」
「半分だけ黙るとか、一番だるいからな」
「まだ怒ってる?」
「怒ってへん」
「さっきからそればっかり」
「怒るより先に面倒やねん」
そう言うと、朱音は少しだけ口元を緩めた。安心したのか呆れたのか、そのどちらともつかない薄い顔だった。こういう薄い表情のまま眠りへ落ちる時ほど、あとで碌でもない結果を持ってくる気がする。
「とにかく寝ろ。起きてても回復せえへん」
「……パケラス」
「なんや」
「もしまた、アレが来たら……」
「朝一で吐け」
言い終える頃には、朱音の目はもう半分閉じていた。それを見届けてから、ようやく寝台の脇を離れる。白衣のポケットへ手を突っ込み記録板を閉じる。
このまま誰も付けずに離れるのは、さすがに危ない。
そう考えて、最初に浮かんだのはベリタスだった。夜の医務室で起きそうな異常を一通り飲み込めるし、朱音が妙なことを言っても動じない。何より、必要ならそのまま監察局側の判断まで繋げられる。都合がいい。都合がよすぎる相手だ。
だが、端末へ触れてから思い出す。
今夜のベリタスは非番だった。監察局の側ではなく、普通に看護師の方の夜勤へ入っている。あの女は妙なところで手を抜かないので、今の時間に引きずり出すと後で面倒が増えるのが目に見えていた。
「……おらんのかい」
独り言みたいに漏らす。
返事は当然ない。白い部屋はそういう独り言だけをよく吸う。
他に誰がいる、と頭の中でざっと名前を並べる。僕がしばらく朱音の側を離れるなら、最低限夜の医務室へ置いておいて変なことにならない相手。余計なことを聞かない。余計な感情も乗せない。必要があれば報告だけはする。そこまで考えたところで、ようやく一つ思い出す。
「……リヴィアか」
気のない声で名前を出す。
最初からそこへ行けばよかった気もするし、今まで出てこなかったのも分かる気がする。便利だが、あまりにも温度がない。だが逆に、こういう時はその温度の低さがちょうどいいのかもしれなかった。
数分もしないうちに、リヴィアは来た。
扉が開いて白い部屋の白さの中へ緑の髪だけが先に入ってくる。新緑みたいに鮮やかな色なのに、夜の医務室だと不思議と浮かない。瞳の色はやはり曖昧だった。灰でも青でもなく、薄い光だけが底に残っているみたいな目だ。生身の女の持つ湿度がひどく少ない。
「呼び出しを確認しました。用件を提示してください」
丁寧ではある。だが柔らかくはない。確認のために鳴る機械音に少し近い。
「朱音の様子見ててほしい」
「監視、観察、応急対応。そのいずれですか」
「全部や」
「優先順位を」
「数値崩れたら起こす。起きたら呼ぶ。勝手に動き出したら止める。寝言でも変なん言うたら一応拾う」
「了解しました」
即答だった。
了解の温度が低い。だが、優しく確認されたり、事情を察されたりする方が面倒な夜もある。
リヴィアは寝台の脇へ立つと、器具の表示を確認し掛け布の位置を少しだけ直した。その手つきまで無駄がない。人を眠らせるための所作というより、配置の乱れを修正するみたいな正確さだった。
「貴方は離席するのですか」
背を向けかけたところで問われる。
僕は少しだけ立ち止まり、それから肩越しに答えた。
「ちょっとな」
「行先を」
「アレ絡みや」
「定義が曖昧です」
「曖昧でええねん」
それで会話は終わるかと思ったが、リヴィアは黙らなかった。必要な確認を終えた後にしか言葉を出さない人間の声でさらに続ける。
「不在時間は」
「未定や」
「交代要員の要否を判断できません」
「さすがにそこまでは要らんやろ。知らんけど」
そう言いながら、パケラスは部屋の奥の薬品棚へ向かった。硝子戸を開ける。中から小さなアンプルを二本、そして注射器と針を取り出す。月明かりと室内灯の間で、薬液は薄く鈍い光を返した。
「貴方は以前倒れたばかりです。使用は推奨されません」
僕は振り向かなかった。
アンプルのラベルを一度だけ確かめ、白衣の内ポケットへ滑らせる。注射器も続けて入れる。手慣れているのが、自分でも少し気に食わなかった。
「これはアレに打つやつや」
「対象名を」
「言わん」
「推測は可能です」
「ほな勝手にしといて」
そう返すと、リヴィアはそれ以上追わなかった。
だが、止める目だけは向けてくる。淡い、曖昧な色の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。非難でも心配でもない。使用判断に反対しているという事実だけがそこにある。そういう目だった。
「貴方は判断が荒くなる傾向があります」
「知ってる」
「なら、なおさらです」
「まあまあええんや今日は」
そう言いながら白衣の袖口を直す。
荒くなるのはそうかもしれない。しかし、今は確かめる相手が先だ。
――ウェイト。あの接続がまだ残っていて夢の中で魔力を半分も持っていけるなら、放っておく方が問題だ。
「行ってくる」
「了解しました。異常があれば通知します」
機械みたいな返答だった。
その平たさに少しだけ救われながらパケラスは扉を開ける。廊下の夜気は医務室より少しだけ冷えている。白衣の内側でアンプルの硝子が小さく触れ合った。




