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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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106.細い筋の向こう

 起きた瞬間、自分でも分かるくらい身体が重かった。


 しかし、昨日までの「重い」とは違う。筋肉がだるいとか寝起きでうまく力が入らないとか、そういう鈍さではない。

 私は寝台の上で浅く息を吸う。起き上がれないほどではない。けれど、立てばふらつくと分かる程度にははっきり減っていた。


 夢の中で抜かれた分が、そのままこっちにも残っている。


 別に驚きはしなかった。むしろ、やっぱりという方が近い。あれだけ持っていかれて、何も残らないわけがない。あとでまたもらえばいいと、どこかで思っている自分がいるのも分かる。とはいえ、その考え方そのものがあまり健全ではないことも分かってはいた。


 起きたことを察したのかパケラスが椅子から立ち上がる。

 いつもの気の抜けた足音だけが先に来る。白衣の裾が揺れ、パケラスが寝台の脇へ立った。おはよう、でも具合どうや、でもなく、最初に私の顔を見た時点で少しだけ目つきが変わる。


「……減っとるな」


 独り言みたいな声だった。

 私は何も言わない。言わないまま起き上がろうとして、昨日よりずっとマシなのに、やはり体の芯が軽いことをそこで改めて知る。パケラスはそれを見て、ベッド脇の器具へ手を伸ばした。淡い光が一度だけ走り、冷たい感触がみぞおちへ這う。数秒もしないうちに表示が出る。


 パケラスはその数字を見て顔をしかめた。


「……夜より落ちとるやん。しかも減り方が素直すぎる」


 私はそこで初めて彼を見た。

 責める顔ではない。けれど、もう仮説では済まないものを見つけた顔だった。記録板を開き、昨夜の数値と今の数値を並べる。白い表示の差がそのまま沈黙の長さになる。


「寝とる間にここまで落ちるなら、昨日の時点で思った通りやな」

「……何が」

()()()()()()()()()()()()()


 そう言い切られて、喉の奥が少し細くなる。

 私は思わず視線を逸らした。パケラスはその態度を見て小さく鼻を鳴らす。


「やっぱりウェイトか」

「……」

「当たりか」


 その声は静かだった。

 私は否定しようか少し迷った。けれど、ここで嘘をついてもあまり意味がない気がした。数字が私より先に喋っている。


 パケラスは記録板を閉じることなく、指先で端を軽く叩いた。


「お前、夢で抜かれたやろ」

「……」

「その顔はそうやな」


 呆れているのか、診立てが繋がって納得しているのか、そんな感じの表情だった。


「半分くらいか?」

「……なんで分かるの」

「そりゃ減り幅見りゃ分かる」


 あっさり返される。


「ちまちま触られた程度の落ち方ちゃう。もっとまとまって持ってかれとる」

「……」

「しかも戻る前提で黙っとる顔や。お前、自分でそんなにまずいと思ってへんやろ」


 そこで私は言葉に詰まった。

 思っていないわけではない。けれど、完全にまずいとも思いきれていない。


 パケラスはその一瞬の詰まりを見て、小さく息を吐く。


「やっぱりな」


 白衣のポケットへ片手を突っ込んだまま、もう片方の手で器具の表示を消す。


「……怒ってる?」

「別に」


 即答だった。


「怒る言うより納得しただけや。供給切れだけでも説明はつくけど、寝てる間の落ち方が綺麗すぎた。夢で直接持ってかれたんなら、そらこうなるわ」


 その言い方があまりにも医者だったので、私は逆に少し腹が立った。

 人の夢で抜かれた話を症例の整合性みたいに処理しないでほしいと思う。だが、そうやって整理されると確かに現実の方は綺麗に繋がるのも分かってしまう。


 パケラスはそこでようやく私を見た。

 さっきまでの静かな観察の目とは少し違う。怒鳴るほど熱くはない。けれど、だからこそ逃げにくい種類の苛立ちがあった。


「……で、お前」

「……何」

「それ、黙っといてええことやと思ったん」


 私はすぐに返せなかった。

 返せないままいると、パケラスは小さく舌打ちに似た息を吐く。


「夢で抜かれました、でもまたもらえばええか、で済ませたやろ」

「……」

「顔に出とる」


 その一言が嫌なくらい正確で、私は視線を落とした。

 ベッドの縁を握る。言い返そうと思えばちょっとは言えるだろう。実際、あとでまた流れてくると思っていた。切れないと聞かされている以上、完全になくなるわけではないとも思っていた。だから、黙っていた。黙ったままやり過ごせる気がしてしまった。


 パケラスはそれを見て、今度ははっきり眉を寄せる。


「そういう問題ちゃうねん。戻る戻らへんやのうて、まず報告せえって話や」

「……でも」

「でもやない」


 短く切られる。

 声は大きくない。けれど叱られているのだと、そこでようやく身体の方が理解した。


「お前の身体がどう落ちるか、こっちは昨日見たばっかやろ」

「……うん」

「その翌朝に夢でまた半分抜かれました、黙ってました、は普通にあかん」


 何も言い返せないままいると、パケラスは白衣のポケットへ手を突っ込んだまま、もう片方の手で記録板の端をとんとんと叩いた。一定ではない拍が小さく鳴る。苛立っている時の癖なのだろうと、今更気づく。


「お前が倒れたら、誰が診る」

「……パケラス」

「せや。で、何かあった時に、最初に突っ込まれるん誰やと思う」


 私は黙る。

 答えが分かってしまったからだ。パケラスはそれを待たずに続ける。


()や」

「……」

「監察局の医務室預かりの人間が、外から干渉されて寝てる間に魔力抜かれてまた倒れかけました。で、担当は気づきませんでした、報告も受けてませんでした。そんな報告書、誰が書きたいねん」

「……ごめん」

「遅い」


 即答だった。

 けれど、その即答の後で彼は少しだけ顔をしかめる。怒っているというより本当に面倒なのだろう。


「ほんま、面倒臭い。レポート増えるし、説明増えるし、上に聞かれた時にこっちがどこまで把握してたか詰められるし、最悪ウェイト絡みで監視強める話にもなる」

「……そんなに」

「そんなにや」


 その言い方は雑だったが、雑な分だけ本気に聞こえた。

 私は少しだけ肩を縮める。叱られている。しかも、優しさで叱られているというより実務と責任の側から殴られている。


「お前一人で済む話やないねん。お前の身体の問題でもあるし、ウェイトの接触経路の話でもあるし、局の管理の話にもなる」

「……うん」

「せやから、勝手にあとでもらえばええかで流すな」


 パケラスは呆れたように息を吐く。


「分かりやすいねん」

「……そんな顔してた?」

「しとった。危機感の薄い顔」

「ひどい」

「ひどない。事実や」


 言いながら、彼は器具の黒い画面を指先で軽く叩いた。

 もう表示は消えているのに、そこにまだ数字が残っているみたいな仕草だった。


「今回まだ良かったんは、お前が起き上がれんほどまで行ってへんことだけや。次、同じことやって昨日みたいに落ちたら、夢で抜かれたんか、供給切れなんか、別の干渉なんか、切り分けるとこから全部やり直しやねん」

「……ごめん」

「せやから、抜かれそうでも抜かれた後でも、夢で何かされた時点でもええ。とにかく先に出せ」

「……うん」

「黙ってあとから数字だけ見せられるのが一番だるい」


 その一言だけ、妙に実感がこもっていて私は少しだけ困る。

 レポートが面倒だとか、説明が増えるだとか、そういう俗っぽい不満をわざわざ混ぜてくるのは本気で怒鳴らないためなのだろう。怒るだけならもっと簡単なはずなのに、パケラスはそうしない。その代わり、現実的な面倒を並べてこちらを引き戻す。


「……レポート、そんなに嫌なの」

「嫌や」

「即答……」

「嫌なもんは嫌やろ」


 そこで初めて、私は少しだけ息を抜いた。

 抜いたところで、叱られていること自体は変わらない。けれど、怒りだけではない温度が混ざると少しだけ息がしやすい。


 パケラスはそれを見て、もう一度だけ小さく鼻を鳴らす。


「まあ、今回はええわ」

「……ええんだ」

「よくはない。全然よくない。でも今から締め上げてもレポートが増えるだけや」

「どうしてもそこなんだ」

「そこや」


 あまりにもはっきり言うので、さすがに少しだけ笑いそうになる。

 笑うのも変だと思って口元を押さえると、パケラスはそれを見て今度は少しだけ目を細めた。


「次は先に言え」

「……うん」

「返事軽いねん」

「ちゃんと言ってる」

「信用ならん」


 そのまま彼は記録板を閉じ、白衣の裾を直した。

 怒りはもう最初ほど表に出ていない。けれど、完全に消えたわけでもない。実務としての苛立ちと、少しだけ本気の心配がまだ半端に重なっている顔だった。


「とりあえず、今日は足さん」

「……え」


 思わずそのまま顔を上げる。

 パケラスは器具を片付けながら、事務的な声で続けた。


「日中でまた滅茶苦茶減るとか、立てんとか、呼吸おかしなるとか、そこまで行かん限り今日は供給せえへん」

「なんで」


 問い返した瞬間、自分の声が少し尖っていたのが分かった。

 パケラスはそれをいちいち咎めなかったが、少しだけ呆れた顔でこちらを見る。


「なんで、やあらへんよ」


 白衣のポケットへ片手を突っ込んだまま、もう片方の手で器具の電源を落とす。


「お前とウェイトの間にまだこのまま流す筋があるんやったら、こっちが足した分まで向こうへ逃げる可能性あるやろ。そうなったら、あっちを拷問しとる意味があんまりなくなる」


 ()()


 あまりにもそのままの言葉だった。

 尋問でも処置でもなく、拷問。言い換えもしない。その響きだけが妙に乾いていて、私は一拍遅れて息を止めた。


 夢の中で見たウェイトは、顔色が悪くて少しふらついていて身体が持たなそうだと言った。けれど、それだけだった。何をされているのかまでは言わなかったし、私も聞かなかった。聞かなくても、まともな状態ではないとは思っていた。

 でも今、パケラスが何でもない声でその単語を置いたことで、輪郭だけ曖昧だったものが急に現実の形を取る。


 ――やっぱり、相当ひどいことをされている。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。

 昨日、理科室で私を抱き寄せた腕の力を思い出す。あれは現実でも本当に弱っていたのだと今更生々しく分かる。


 パケラスはそんな私の顔を一度だけ見て、そこで初めて少し声を落とした。


「夢で何か言うとったか」

「……何かって?」

「具体的に何されとるとか。どこまで保たんとか。そういう話や」


 私は少しだけ迷った。

 けれど、思い返してもウェイトは多くを喋っていない。喋れる状態でもなかったのだろう。ふらついていて、耐えてきたけどわりと身体が持たなそうだと、それくらいしか言っていなかった。


「……身体が持たない、くらいしか」

「それだけ?」

「うん。封魔の手錠で流れが潰されてるとか、普段みたいには動かせないとか、その辺は言ってた。でも……何をされてるかまでは言わなかった」


 パケラスはすぐには返さなかった。

 目だけが少し細くなる。疑っている顔だった。嘘をついているかどうかを見る時の、あの静かな目だ。


 私は視線を逸らさなかった。逸らしたら余計ややこしくなる気がしたし、実際そこは嘘ではない。聞かなかっただけで、私が知っていることは本当にその程度だった。


 数秒後、パケラスは小さく息を吐く。


「……まあ、嘘っぽくはないか」

「嘘ついてない」

「分かっとるよ」


 パケラスはすぐに話を切らなかった。

 怒ることもなく掘ることもなく、白衣のポケットへ片手を入れたまま記録板の端を親指で軽く押さえる。その手つきだけが、少しだけ考えている時のそれに戻っていた。


「……別に、こっちかて好きでやっとるわけやない」


 私は思わず顔を上げた。

 パケラスは視線を器具の黒い画面へ落としたまま続ける。


「拷問なんかできるならせん方がええに決まっとる。面倒やし、後が悪いし、加減間違えたら取り返しつかんし、報告書も増える。何より、取れる情報と壊れる量が釣り合わんことも多い」


 その言い方はあまりにも淡々としていて、逆に少しだけ現実味があった。


「せやけど、今回は筋の話が絡んどる。お前の身体がどう落ちるかにも関わるし、ウェイトがどこまで繋いどるかも見なあかん。そこで供給までこっちが足してまうと、余計に線がぼやける」


 パケラスはそこで一度だけ私を見る。

 医者の顔に近かった。優しくはないが少なくとも雑ではない。


「こっちも、なるべくならお前の身体のことだけ見て済ませたいねん」

「……ウェイトのこと抜きで?」

「抜けへんから困っとる」


 即答だった。

 パケラスは小さく鼻を鳴らし、記録板を閉じる。


「お前とあっちの間にまだ流す筋が残っとる以上、片っぽだけ見てもしゃあない。せやから今は、足して楽にするより先に、どこまで繋がっとるか見極める」

「……そのために、拷問」

「そういうことや」


 そこで言葉が止まる。

 止まったあと、パケラスは少しだけ顔をしかめた。自分で言っておいて、そのまま飲み込みたくないような雰囲気だった。


「好きちゃうよ、別に。必要やからやっとるだけや。そこ勘違いされんのも面倒やしな」


 私は何も返せなかった。

 好きでやっているわけじゃない。けれど、必要ならやる。そういう線引きを、この人は自分の中でとっくに済ませているのだと分かる。綺麗ではないけれど、だからこそ余計に怖い。


 パケラスはその沈黙ごと流すみたいに、白衣の裾を軽く直した。


「せやから今日は足さん。お前が本当に落ちるなら、その時はこっちで対処する。けど、まだ保つ段階で下手に入れると、あっちへ回る」

「……分かった」


 パケラスの怒りは完全には抜けていない。実務としての苛立ちと、切り分けを外したくない神経がまだ残っている顔だった。


「こっちも楽したいんや。できるだけ少ない工程で終わらせたいし、余計なレポートも書きたないし、拷問の結果まで診療記録と突き合わせるとか、ほんまにだるい」

「そこまで言う?」

「言うよ。実際だるいもん」


 あまりにもはっきり言うので、私は少しだけ肩の力を抜いた。

 抜いたところで話の重さは変わらない。けれど、綺麗ごとで誤魔化されるよりはまだ呼吸がしやすかった。


 パケラスは最後にもう一度だけ私を見た。


「せやから、今日は様子見。抜かれたら言う。減ったら言う。しんどかったら言う。黙るのが一番割に合わん」

「……うん」

「よろしい」


 そう言って、彼は記録板を脇へ抱えた。

 部屋は白く静かで器具の画面も消えたままなのに、拷問という単語だけがまだどこかに残っている気がした。私はベッドの縁に座ったまま、自分の左手を一度だけ握る。温度はある。しっかり動く。しかし、その手の向こう側にまだ細い筋が続いているのだと思うと、どうしても少しだけ気分が悪かった。


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