105.構造の名残
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そこがどこなのかすぐには分からなかった。
夢の中はいつも、場所だけ先に置かれて説明が遅れる。校庭の土の匂い、夜露を吸ったコンクリート、鉄棒の黒い影、窓ガラスへ薄く貼りついた月明かり。学校だとは分かる。けれど、私には何の思い入れもない場所だった。昇降口の上に掛かった校名板だけが白く浮いていて、私はそれをぼんやり読み上げる。
「……大泉第一小学校」
小声で言ってみても、やっぱり何も引っかからない。
懐かしいわけでもないし、嫌な記憶があるわけでもない。ただ、ウェイトがここを選んだのだろうということだけは分かった。誰もいない。真っ暗で電気の気配もなく、月明かりだけが廊下の床へ青白く落ちている。風はないのに、掲示物の紙だけが時々かすかに鳴った。
「……いるんでしょう?」
小さく言っても、返事はない。
靴箱の並びを抜けて私は校舎の中へ入る。夢なのに足音だけは現実的で、廊下を歩くたび乾いた反響が少し遅れて戻ってくる。誰もいない学校の夜なんて本当ならもっと怖いはずだった。けれど今は怖いというより気味が悪い。ここに呼ばれたこと自体は分かるのに、肝心の相手が見当たらないからだ。
一年の教室、二年の教室、閉まったままの音楽室、月明かりだけが机の角を撫でる図工室。どこも空だった。黒板に残った白い粉、壁のポスター、乾いた木の机。夢なのに要らないところだけ変に細かい。
廊下の突き当たりで、理科室の札が見えた。
引き戸へ手をかける。少し重い。開けた瞬間、薬品棚の硝子が月明かりを拾って、白い線になった。アルコールとも埃ともつかない、理科室特有の乾いた匂いがある。理科準備室へ続く奥の暗がり、その手前に人影がいた。
「今日はあなたが私に探させるなんて」
私がそう言うと、教師用実験台の脇へもたれていたウェイトが少しだけ笑った。
「私から出迎えたかったんだけどね」
そう言って立ち上がる。
途中でわずかに身体が揺れた。ほんの少しなのに、今の私にははっきり分かる。支えが必要なほどではないけれど、普段のあの人なら絶対に見せない種類のふらつきだった。
「……何かあったの?」
ウェイトはすぐには答えなかった。
答える代わりに、実験台へ片手を置いて一度だけ息を整える。月明かりが頬の線を白くしているせいで、顔色の悪さだけが逆に分かりやすかった。
「耐えてきたけど、身体の方が持たなそうでね……」
その声が思ったより弱くて、私は少し言葉を失う。
詳しく聞かなくても分かった。何をされたのかまでは分からない。だが、まともな扱いではない。そういう疲れ方ではなかった。痛みを我慢した人の声というより、消耗を長く押さえ込んでいた人の声に近い。
「……そんなにひどいの」
「ひどいよ」
「平気そうな顔してるくせに」
「顔だけはね……」
その返しは前ほど綺麗には整っていない。私は理科室の入口に立ったまま少しだけ迷った。近づくべきか何を言うべきか、よく分からない。けれど、迷っているうちに向こうの方が先に距離を詰めた。
ウェイトが私の前まで来る。
いつもならそれだけで少し身構えるのに、今は違った。違うというより、心配の方が先に出てしまう。
ウェイトはそのまま、軽く私を抱き寄せた。
抱き締めるというほど強くはない。ただ、体温を確かめるみたいに腕の中へ入れる。
私は振りほどかなかった。嫌ではあるが、さっきのふらつきがまだ目に残っているせいで振りほどけなかった。
「……何」
「……落ち着くね」
その言い方に私は眉を寄せる。
月明かりの差す理科室で、薬品棚の硝子だけが薄く光っていた。人体模型も骨格標本もない。高い天井と実験台の黒い影だけがある。その中で、ウェイトの腕だけが妙に現実的だった。
「――今までは少しずつ魔力をもらっていたけど、今回は多めにもらっていいかい?」
その一言で、私は身体を少しだけ強張らせた。
多めという言い方が妙に生々しかった。しかし、断る理由を探そうとした時点で、もう半分くらいは分かっていた。今のウェイトは、少し弱っているのではない。保つための線そのものが細っている。
「……どれくらい」
「半分くらい」
あまりにもさらっと言うので、私は思わず顔を上げた。
「封魔の手錠があるからね。回復へ回す流れも、外から通す供給もほとんど潰されてる。普段みたいには動かせない」
「じゃあ、なんで……」
「君と私の間は、その供給路だけじゃないからだよ」
私は黙る。
ウェイトは腕をほどかないまま続けた。
「構造そのものの接続がまだ残っている。術として流す線は潰されても、その名残まで完全には殺せない」
「……」
「前に、損傷が君へ伝わっているって言ったよね。あれは私が君から魔力を吸い上げているから、その時に一緒に揺れまで触ってしまうんだ。痛みそのものが綺麗に渡っているわけじゃない。ただ、こちらで削れた分を君の側から引く時、傷の周りで起きている消耗や衝撃まで少し遅れて拾う」
「……だから、あの時」
「そう。君が感じていたのは私の損傷そのものというより、そこから魔力を抜く時に一緒に持ち上がった揺れだよ」
ウェイトはそこで一度だけ息を整える。
「だから夢の中で、意識や気力を繋ぐ分だけならまだ細く引ける。今まではそれで足りた。でも、もう足りない。身体が削れすぎてる。だから今夜は多めに欲しい」
「……私、また歩けなくなる?」
「そこまでは抜かない」
「絶対?」
「絶対……とは言えない。でも、今ここで足りなければ、私は戻れなくなる」
私は目を閉じた。
正直嫌だと思う。でも、渡さなければならない。感謝とか情があるとか、そういう綺麗な理由でもない。本当に死にかけているのだと分かってしまったからだ。分かってしまった以上、見捨てるのはもっと嫌だった。
「……いいよ」
小さく言うと、ウェイトは一拍遅れて少しだけ腕の力を深くする。そのまま身体の奥のどこかへ細い冷たさが差し込んだ。
最初は何が起きているのか分からなかった。けれど数秒遅れて自分の中から何かが抜かれていく感覚だけがはっきりする。血でもない、呼吸でもない。もっと静かで、もっと身体の芯に近いもの。さっきまで普通に立っていたはずなのに、足元だけが少し遠くなる。膝の裏が軽くなる。肩の内側が空く。
半分と言った意味が、その遅さの中でようやく分かる。
急に奪うのではなくじわじわと持っていく。だから余計に自分の中のどこが減っているのかがよく分かる。
「……っ」
声にならない音が喉で擦れた。
「もう少し……」
「……まだ、なの」
「半分だからね……」
視界の端で理科室の薬品棚が少しだけ遠ざかった。月明かりの白さもさっきより輪郭が曖昧になっている。立っていられないほどではない。けれど、確実に魔力が減っている。その減り方だけが丁寧で嫌だった。
やがて、ウェイトの腕がほんの少し緩む。
抜かれていく感覚もそこでようやく止まった。
私はウェイトを見た。さっきまでより顔色が戻っている。劇的ではないが、立ち上がった時のあの危うい揺れはなかった。
「ありがとう」
私は返事をしなかった。返したら、そのまま別の何かまで認めてしまいそうだったからだ。
月明かりが薬品棚の硝子へ細く走る。
その白さが一度だけ滲んだところで、理科室の輪郭ごと向こうへ遠ざかっていった。




