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Bar Ashveil 〜魔術師は夜を改稿する〜  作者: 南郷 兼史
第2章 ~血縁の外側~

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103.流れの戻る音


「動かんでええ」


 そう言って、パケラスは符の端を爪で軽く折った。紙の裂ける音はほとんどしなかった。空気が一度だけひどく乾き、次の瞬間に折れた部分から黒い線がすっと浮く。煙ではない。焦げ跡だけが細く宙へ引かれ、そのまま扉の前まで伸びていく。呼んでいるというより、向こうにあるものをこちらへ繋ぎ直したみたいな光景だった。


「……来るまで保てや」


 誰に向けたのか分からない呟きの後、パケラスはまた私の手首へ指を戻した。脈を見る手つきなのに、それだけではない。皮膚の下を回るもの、その細さと遅さを指先で拾い続けている感じがする。私は息を浅く刻みながら、その黒い線の先をぼんやり見た。胸の奥が薄い。起き上がるだけの力もないのに、心臓だけが無駄に早い。


 ――空気が少しだけ歪む。


 大きな音はしない。そこにあった白い壁の前の空間が一拍だけ深くなる。折った符と同じ黒い線が縦に走り、その亀裂みたいな隙間からまず手が出た。次に肩、上半身、最後に足が揃う。転移というより、最初からそこにいたものが輪郭だけこちら側へ濃くなったみたいな現れ方だった。


 現れたイグナスは、着地の衝撃すらほとんど立てずに立つと、まずパケラスを見た。それから器具を見て、最後に私へ視線を落とす。怒気より先に状況を量る目だった。局に長くいる人間の目だと分かる。何が起きていて、どこから手を付けるべきかを先に読む。そういう順番の視線だった。


()()()

「急やから符折ったんや」


 そのやり取りに、私は一瞬だけ目を瞬かせた。


 今のイグナスの声は私の知っているそれと少し違った。もっと平たい標準語で話す人だと思っていたのに、パケラスへ返した一言だけ語尾が柔らかい。()西()()()()()()()()()()()()()()()調()()()()()()()()()()()()()()()。こんな時なのに、私はその違和感の置き場に少しだけ困る。


 イグナスはベッド脇まで来ると、私の顔色と喉の動き、鎖骨の浮き方、それから器具の表示を一目で拾った。余計な説明を待つ顔ではない。パケラスも最初から長く話すつもりはないらしく短く言う。


「一割前後。流れも鈍い」

「寝ていたんだろう」

「せや。それでこれや」


 イグナスの眉がわずかに寄る。責める顔ではなく、計算がずれた時の顔だった。私はその横顔を見上げながら、やっぱり少しだけ身体を強張らせる。レイのことが頭をよぎる。指輪のこともその前後も嫌でも思い出す。多分、その怯えがそのまま顔に出ていたのだと思う。


「……こ、ころされる」


 掠れた声でそう呟いた瞬間、横からパケラスがすぐに被せた。


「それは言うなって言ったやろ」


 叱るほど強くはない。けれど、そこだけは先に塞ぐみたいな言い方だった。私を宥めているのか場を余計にこじらせないためか、その両方かもしれない。


 イグナスは一瞬だけ黙って、それから私を見た。


「……今はその話をしていない」


 今度の声は、私の知っている()()()()()()。さっきまでと同じ人のはずなのに別の引き出しを閉じられたみたいで、そのことが余計に現実感を変にした。怖いのにそこへ引っかかる自分が少し嫌だった。


 イグナスはそこでようやくベッド脇へ右手を差し出した。途中で止まり、パケラスを見る。


「受けは左でいいな」

「供給はそっちでええ。放出は右、吸う時は左。逆にしたら余計しんどなる」

「分かってる」


 魔術師にとっては当たり前のことなのだろう。渡す手と吸う手は逆。流す側の右と、受ける側の左。イグナスの右手がこちらへ差し出されたまま静かに待っているのに、私は自分の左腕を持ち上げるだけで時間がかかった。肩から先が遠い。持ち上げたはずの腕が途中で止まり、そこで力が尽きる。落ちていく手首を、パケラスが下から受けた。


「無理せんでええ。形だけ合わせたら十分や」


 そう言って、私の左手を少しだけ持ち上げる。受ける側は左、流す側は右。そんな基礎の形すら、今の私には自分一人では保てない。イグナスの右手がそのまま待っている。待っているだけなのに、そこにある量の違いだけが皮膚の上からでも分かった。


 指先が触れる。


 熱いわけではない。私の中で細く干上がっていた流れとは深さそのものが違う。押し込まれる感じではなかった。足りない場所へ水が当然みたいな顔で落ちてくるだけだ。けれど、その当然さが今の身体には重い。


「力を抜いて」

「……っ」

「抵抗するな。そのままでいい」


 イグナスは私にだけ標準語で言う。さっきパケラスに返した声とは少し違う。その違いへ引っかかる余裕が、まだ自分に残っているのが変だった。変だと思えるくせに、息は浅い。喉の奥だけがまだ細い。


「吸うより吐け」と、パケラスが続ける。

「急いで戻そうとすんな。身体が追いつかん」


 私は細く息を吐いた。吐くたびに腕の内側から入ってきたものが肘で一度だけ重くなり、肩を上がって鎖骨の裏を這う。胸の奥へ落ちた瞬間、ひゅっと喉が鳴った。苦しいが、さっきまでの苦しさとは違う。空っぽになっていく苦しさではなく、干上がった器へ急に濃いものが戻ってくる時の身体の戸惑いに近い。


「跳ねてるだけだ」

「細なっとるとこへ太い流れ通しとるんや。びっくりしとるだけ」


 二人とも当然のように言う。私はその当然についていけないまま、もう一度息を吐く。今度は、少しだけ深く吐けた。さっきまでのような吸ったそばから空へ抜けていく感じがない。


 世界の輪郭が少しずつ戻る。


 白い天井の継ぎ目。器具の角。薬瓶に貼られた小さなラベル。パケラスの袖口の皺。イグナスの手の節に落ちる影。見えていなかったわけではないのに、見え方の密度だけが変わる。焦点が合うというより、意味の方が先に立つ。


「どこまで入れる」

「八で止める」


 短い応酬だった。けれど、その短さの中に前提がありすぎて、私は一瞬遅れて理解する。八割。そこが線なのだと。


 その考えが浮かんだ瞬間、背骨の奥がじわりと熱を持った。


 熱いというより、冷えていた場所へようやく何かが通る感覚に近い。腕の内側から入ってきたものが肩を越え胸の奥へ落ち、そのまま腹の底へ沈んでいく。さっきまで薄く干上がっていたところへ、濃いものが順番に行き渡っていく。足りなかった息が今度は喉の途中で削れない。吸ったぶんだけきちんと残る。残ったものが、ようやく身体の中で形を持つ。


 私はもう一度、ゆっくり息を吐いた。


「……あ」


 声が出た。

 掠れてはいたがさっきよりずっとまともだった。自分でも少し驚いて、私は喉へ指をやりかける。けれど、その途中で気づく。腕が上がる。さっきまで肩から先が遠かったのに、今はちゃんと自分のものとしてついてくる。


「見るからに回復してるな」

「もう少し入る」


 パケラスとイグナスの声が、今度はきちんと耳に入った。

 さっきまでは遠かった。言葉だけが白い壁に当たって戻ってくる感じだったのに、今は距離のまま聞こえる。ベッド脇にいる人間の声としてちゃんと近い。


 指先へ力を入れてみる。

 散らない。集めようとした分だけ、きちんとそこに残る。手首、肘、肩。順番に自分の中へ戻ってくる。何かが劇的に変わったわけではない。ただ、空だったところへ中身が戻ると、身体はこんなにも普通の顔をするのだと思う。



「もう一回、吐いて」


 言われるまま細く吐く。

 肺だけではなく、みぞおちの奥にへばりついていた硬さまで一緒にほどける。


「起きれるか」

「……多分」


 そう言ってから、自分でも早いと思った。けれど、言葉にした以上確かめたくなる。私は少しだけ腹へ力を入れる。さっきはそこで命令そのものが痩せたのに今は違った。まだ重さはあるが動く。肩が浮き、背中が寝台から離れる。勢いではない。ちゃんと自分で起き上がっている感覚がある。


 パケラスの手が背中へ来る。

 支えるためというより、途中で落ちても困らないように置いただけの手だった。私はそのまま上体を起こしきって、そこで少し息を整えた。視界が揺れないことに、逆に少し驚く。


「……大丈夫そうやな」

「急に立つなよ」

「分かっとる」


 二人が短くやり取りする。


 私はベッド脇へ脚を下ろした。

 足裏が床に触れる。そして、膝へ少しだけ力を入れる。力が抜けない。腿も、足首も、ちゃんと自分のものとして残っている。


 そのまま立つ。


 さすがに最初の一拍だけは慎重になったが、身体は思ったより素直に持ち上がった。足の裏が床を捉える。膝が笑わない。腰も落ちない。私は立ったままそこで小さく息を吐いた。呼吸一つで内側が薄く削れていく感じがない。


 試すみたいに一歩だけ足を出す。

 ふらつかない。二歩目も出る。歩ける。それだけのことが、馬鹿みたいに現実を取り戻す。


「……すごい」

「とりあえず大丈夫そうやな」


 パケラスは白衣のポケットへ手を突っ込んだまま、私の全身を一度だけ見た。喉、肩、胸のあたり、腰、脚。体調を見ているだけの目だったが、その奥で別の計算が走ったのが分かる。イグナスももう手を出さない。その代わり、倒れたら拾える距離だけはきっちり残している。


 魔力が足りないと、こうなるのか。


 そんな顔だった。

 もちろん口には出さない。イグナスがいるからというのもあるし、それだけではないのだと思う。今ここで私の身体の成り立ちに踏み込む必要はないと判断している顔だった。静かな目で一度だけ確認して、それ以上は何も言わない。けれど、その無言が逆に私の身体が普通の魔術師と少し違うものとして見られたことだけをはっきり残した。


 私はその視線を受けて、反射的に自分の腕を抱く。

 ほとんど女の身体に近い形へ作られていることは自分でも知っている。けれど、それが今こういうふうに不調と結びつくのだと他人の目を通して初めて形になると、少しだけ気分が悪い。気分が悪いが息はできる。歩ける。その事実の方が今は先だった。


「座っとけ。急に戻ると調子乗ってまた倒れる」

「……調子には乗ってない」

「顔がちょっと乗りかけや」

「……うるさい」


 そう返す声が、自分でも普通すぎて可笑しい。

 さっきまで声を出すだけで喉が削れていたのに、今は言い返せる。私はベッドの縁へ腰を下ろし直した。沈む感覚もシーツの皺も、全部がちゃんとこちら側にあった。

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