102.薄い器の底
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……あまりにも息苦しくて起きた。
起き上がろうとしてもできない、と分かったのはその次だった。腹へ力を入れた瞬間、筋肉が拒むというより命令そのものが途中で痩せる。肩が少し浮いてそれだけで終わる。肺の奥が狭い。胸が痛いわけではないのに吸っても吸っても足りず、喉の奥へ細い管でも差し込まれているみたいに空気の通り道だけが頼りない。
手足も重い。鉛みたいに重いのではなく、水の底へ長く沈めておいた布のように形はあるのに芯がない。指先へ力を集めようとしても、集まる前に散っていく。自分の身体なのに一番外側の皮だけがここにあって、中身はどこか別の場所で減り続けているような感覚だった。
喉を鳴らしてみる。乾いた音が出ただけで声にならない。助けを呼ばなければと思って視線を動かすと、ベッド脇のナースコールが見えた。白い壁、白いシーツ、白い器具、その中でボタンの色だけが妙に現実的で指先さえ届けばどうにかなるように見える。けれど、そこまで腕を伸ばすだけの体力がなかった。肩から先が遠い。数十センチの距離がやけに長く、私は二度ほど指を動かそうとして、結局諦める。
苦しいというより、足りなさそのものが胸の中で薄く擦れ続けていて、その擦れる感覚だけがはっきりしていた。何が足りないのか、最初はうまく分からなかった。眠っていれば戻るはずのものが眠っている間も戻らず、そのまま静かに減っていた感じがある。
その時、扉の向こうで口笛が鳴った。
軽い調子の場違いなくらい気の抜けた旋律だった。医務室の空気に似合わない音だからこそ、誰かすぐ分かった。次の瞬間には扉が開き、白衣の影が入ってくる。パケラスは最初の一歩こそいつも通りだったが、私の顔を見た途端その歩幅だけがはっきり変わった。
「……なんや」
口笛がそこで切れる。ベッド脇まで来るのは早かった。白衣の裾が揺れ金属の小さな音が鳴り、すぐに額、頬、首筋へ順番に手が来る。撫でるのではない。汗のにじみ方と熱の残り方と皮膚の色を、指先で一気に拾っていく手つきだった。
「朱音。聞こえるな」
「……う、ん」
「何があった」
短いのに逃がさない訊き方だった。私は答えようとして、そこでまた息の配分を間違える。喉が先にひりついて、言葉の形になる前に空気だけが漏れた。
「わかん、ない……なんか……」
「なんや」
「くるし、くて……ちから、入らな……」
ひどい返し方だと思った。何も説明していない。けれど、説明しようにも自分でもまだ上手く掴めていなかった。ただ苦しいだけではない。熱があるのとも違う。痛みが強いわけでもない。何かが足りていない。けれど、その「何か」をそのまま口に出すのは、ひどくまずい気がした。気づいてしまったら別のものまで一緒に形を取ってしまうような、そんな嫌な予感だけが先にあった。
パケラスは返事を急かさない。代わりに私の手を取って掌を上へ向けさせ、親指の付け根を押し、手首へ触れる。そのまま脈を取りながら、もう片方の手で鎖骨のあたりへ軽く触れた。
「息、吐いて」
「……ぅ」
「無理に吸わんでええ。そのままや」
言われるまま細く吐く。吐ききる前に吸いたくなる。吸っても足りない。繰り返すたびに、胸の奥ではなくもっと別のところが先に空になっていく感じがした。肺でも血でもない。体の芯を回っているはずの何かが、どこにも行けずに細っている。
パケラスの視線が一度だけ胸元を掠め、それから喉、瞳、首筋へ落ちる。最初、彼は別のものを疑っているように見えた。ハディートの魂の干渉がおかしくなったのか、杖の核が変に噛んでいるのか、そういう目だった。今の私は普通の体調不良では説明のつかないものを内側に抱えているから、そこから切り分けるのは自然なのだと思う。
けれど、手を握ったまま数秒黙った後、彼の顔つきが少し変わった。
「……ちゃうな」
独り言みたいな声だった。私に向けたというより、自分の診立てを途中で修正した音に近い。そこで初めて、背筋の奥が少し冷えた。責められたわけでもないのに、見つけられたくないものへ触れられた感じだけがある。
パケラスは私の手首を持ったまま、今度はみぞおちの上へ掌を当てた。呼吸の浅さだけでなく、その下を流れているものまで探るような手つきだった。
「朱音、ちょっと計るで」
「……なに、を」
「ええから」
ぶっきらぼうに言って、ベッド脇の器具へ手を伸ばす。淡い光が一度だけ走り、冷たい感触が手首から肘の内側へ細く這った。私はその細さを追うみたいに目を閉じかけ、けれど閉じると余計に息苦しくなる気がして、また天井を見る。
パケラスは器具の表示を見たまましばらく何も言わなかった。白い数値だけが冷たく光っていて、私の手首を押さえる指は離れない。
「……魔力残量、これだけかいな」
低く落ちた声に、私はそちらを見ようとして首だけ少し動かした。パケラスは器具の数値を見たまま、確認するようにもう一度私の手首へ指を置く。
「最大の一割前後やな」
「……そんな」
「普通、寝とるだけでここまで減るか」
その言い方は問いかけみたいでいて、ほとんど独白だった。私を責めているのではなく、自分の中で合わない数字を並べ直している声。けれど、その静かさが逆に怖い。十%。数字にされると、急に現実味が出る。息が苦しい理由も、身体が言うことを聞かない理由も、全部その数字の側へ吸い寄せられていく。
私は口を開いた。何か言わなければと思った。けれど、何を言えばいいのか分からない。自分が知らないところで足されていたもののことを、私はついさっきまで知らなかった。知ったところでそれが今どう減っているのか、自分でも説明できない。言えばまずい気がするのに黙っていてもまずい方向へ進んでいる。その感覚だけははっきりしていた。
パケラスは私の顔を見たあと、手首へ置いた指先の角度だけを少し変える。
「……減っとるだけやないな」
「……なに」
「流れが鈍い」
その一言で、喉の奥がまた細くなる。言い当てられたというより、輪郭を与えられた感じだった。苦しさそのものより、その苦しさに名前がつきかけることの方が怖い。私は視線を逸らそうとして逸らしきれず、結局、ベッド脇のナースコールをぼんやり見つめたまま息を繰り返す。
パケラスは器具の表示を見たまま、小さく舌打ちに似た息を吐いた。
「……おかしいな。普通やったら、自前で回してるぶんでここまで落ちん。寝とるだけで減り続ける量ちゃうで、これ」
パケラスはそこでようやく、私の方を真っ直ぐ見た。
「普通の魔術師なら体力温存して寝とったら一日くらいである程度は戻る。多少前後はしても、こんな寝台の上で起き上がれんほどにはならん。せやけど、お前は戻りが追いついてへん。しかも器だけはでかい」
「……器?」
「許容量や」
ぶっきらぼうに言って、彼は器具の数値を顎で示した。
「入る量が多い。抱えられる量が多い。せやから減り始めた時、見た目よりずっと底が深い。今のお前は、でかい器の中身だけが薄うなってる状態に近い」
パケラスはもう一度、数値と私の顔を見比べた。
「これ、寝てるだけで減る量ちゃう」
「……じゃあ、なんで」
「俺が知りたいわ」
そう返してから彼は少しだけ目を細めた。苛立っているというより、診立ての筋を探している顔だった。
「供給切れのまま無理に維持してたんやろな。要するに、お前の中で回ってたもんが、今は足されへん状態になってるいうことや」
私はそこで初めて、自分が知らないままウェイトに支えられていた部分の大きさを、輪郭だけ理解する。
パケラスは私の首筋と喉のあたりをもう一度見て、それからベッド脇の柵へ軽く指先を打ちつけた。考えている時の癖なのか、一定ではない拍が小さく鳴る。顔つきだけを見るなら落ち着いているのに、指先の方だけが少し急いていた。
「とりあえず、足さんとあかん」
ぽつりと落ちた言葉は、診断というより決定に近かった。私はその意味をすぐには飲み込めず、ただ彼の横顔を見る。パケラスは器具の光を切ると、私の手を寝台の上へそっと戻したが、目だけはまだ数値の残像を見ているみたいに細かった。
「足すって……何を」
「魔力や。今のお前、自力で戻すには薄すぎる」
薄すぎるという言い方が現実的で嫌だった。足りないのではなく、薄い。水で引き延ばされたみたいに自分の中の何かが濃度を失っている。その表現の方が、苦しさより先に身体へ馴染む。
「ただ、埋めるだけでもそこそこ要る」
そこで初めて、私はその言葉の意味を感覚として理解した。自分が抱えられる量が多いことは、こういう時には利点にならない。ただ埋めるべき空白がその分広いというだけの話になる。
パケラスは一度だけ舌打ちに似た息を吐いた。誰を呼ぶか考えているのだと口に出される前から分かった。今の私に会っても問題がなく、魔力を分けるだけの総量があり、なおかつ監察局の中で話が通る相手。条件を並べるほど数は減る。
その沈黙の長さに耐えきれず、私は掠れた声で言った。
「……パケラスじゃ、だめなの」
一瞬だけ、指先の拍が止まった。
彼はすぐに私を見たが、その目は驚いたというよりそんなことを言うのかという顔に近かった。それから鼻で短く息を抜く。
「無理や」
「……でも」
「そもそも俺、普通の魔術師より少ないねん」
言い方があまりに乾いていて、冗談にも聞こえなかった。パケラスは白衣のポケットへ手を突っ込みながら、淡々と続ける。
「お前に回せるほど持っとらん。今の俺が足しても、カスみたいな量しか入らへんよ。気休めにもならん」
そこで少しだけ視線を逸らしたのが逆に本当っぽかった。卑下しているというより、事実としてそう判断している顔だった。私は何か言い返そうとしたが、喉が詰まって息だけが細く漏れる。自分でも今の問いが半分以上は縋るためのものだったと分かってしまって、余計に惨めだった。
パケラスはそのまま言葉を継がない。慰めることもなく気まずさを薄めることもなく、ただ現実だけを机の上へ置く。そういうところは時々助かる。
「足りる奴呼ばんと意味あれへん」
「……誰、なの」
彼はすぐには答えなかった。答えを選んでいるというより、私がそれをどう受け取るかまで先に見ているような間だった。それから、あまり飾らない声で言う。
「――イグナス」
その名前を聞いた瞬間、背中の内側が冷えた。息苦しさとは別の冷えだった。喉がまた狭くなる。指輪を壊した話のことが嫌でも先に浮かぶ。それに、私はレイを殺そうとしたのだ。そしてその親が来る。今の私が会って、無事で済む相手だとは到底思えなかった。
「……ころ、される」
自分でも情けないくらい小さい声だった。けれど、パケラスは笑わなかった。ああ、そこを怖がるか、という顔を少しだけしただけで、白衣の胸元を整えながら肩をすくめる。
「アイツはいちいち怒る奴やない」
「でも……レイが」
「レイも怒っとらん」
あまりにもあっさり言われて、私は反射的に彼を見る。パケラスはそこでようやく、少しだけ人を宥める時の声になった。
「ぴんぴんしとるよ。ほんまに分かりやすい。ハディートが指輪直して、あれで大体満足しとる」
「……そんなので」
「良くも悪くも単純なんよ。ええやつやしな」
最後の一言だけは本心っぽかった。擁護しているというより本当にそう思っている声だったので、逆に少しだけ困る。私の中ではまだ、レイもイグナスも「怖い側」にいた。怖くないと言われても、身体の方が納得しない。
パケラスはその反応を見て、無理に安心させようとはしなかった。大丈夫や、と何度も言う代わりに、事実だけを置く。
「非常時や。選り好みしてる暇あらへん。今のお前に必要なんは、気まずない相手やのうて足りる相手や」
その言い方は冷たくもあったが、変に優しくされるより飲み込みやすかった。慰めではなく、手順として言われる方がまだ助かる。
パケラスはそれを見て、もう結論を引っ込めないと決めたらしかった。白衣のポケットから転移符を素早く取り出す。
「呼ぶで」
「……今、から」
「今やからや」
そう言って振り返った顔には、さっきまでの考え込む影がもうほとんど残っていない。決めた後の顔だった。私は止める言葉を探したが、探すだけで息が減る。止めたいのかどうかすら、自分でよく分からない。ただ、イグナスという名前の重さだけが、胸の中で別の苦しさみたいに広がっていく。
「心配せんでええ。お前が今みたいな顔してたら、アイツの方が困る」
「……そんな、わけ」
「あるよ」
そう言い切る声は軽かった。その軽さが本当に信用できるものなのか、私にはまだ分からない。分からないまま、白い天井を見上げる。足りない息、薄い魔力、呼ばれようとしている名前。その全部が一度にのしかかってきて、私は目を閉じた。




