101.自己嫌悪
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薄い掛け布が、腹のあたりで中途半端に皺になっていた。
夜はまだ明けきっていない。窓の外は黒と灰色の間で止まったような色をしていて、自室の散らかり方だけが正確に見えた。床に落ちたローブ、机の端で乾きかけたインク、洗っていないガラス器具、脱ぎ散らされた布。人が二人、同じベッドで裸のまま横になっていることだけが、その雑然とした部屋の中でやけに現実味を持っていた。
マディカルは僕の隣で機嫌よく息をしていた。長い髪が肩から胸へ流れ、煙管の残り香と女の体温がまだ薄く混ざっている。さっきまで絡み合っていた熱は皮膚の表面に残っているのに、頭の中だけがもう別の温度へ落ちていた。身体はまだ行為のあとの鈍い火照りを持っている。けれど、その火照りに遅れて、ひどく冷たいものが胸の奥へ沈み始めている。
「二回もしてくれるなんて、やっぱりまだ身体は若いのね」
低い声でそう言って、マディカルは喉の奥でくすくす笑った。指先が僕の胸元を遊ぶみたいに撫で、汗の引きかけた皮膚を確かめる。からかっているのは分かるし、半分くらいは褒めているのも分かる。分かるのに、どちらでも軽くならないものが、僕の中にはもう沈んでいた。
「……うるさいな」
「あら? 褒めてるのに」
「いらんわ、そんなん」
「そう? でも本当に思ってるわよ。途中で一回静かになったくせに、結局またこっちに来たもの」
笑いながら相手の傷も熱も見ている。その手つきは今も同じで、胸から肩へ、肩から腕へ、気まぐれみたいに撫でてくる。優しいわけではない。慰めているわけでもない。ただ、逃がさないように愛でている。そういう触り方だった。
僕は天井を見たまま何も返さない。返したら、そのまま別のものまで出そうだった。
行為そのものに後悔しているのかと言われたら少し違う。マディカルと寝たことだけを切り出して、あれが間違いだったと言うほど単純でもない。問題はそこではなかった。もっと汚くて、もっとはっきりしている。
そもそも、朱音に向いたあの熱は、あの夜だけに急に生まれたものではない。
僕は前から、からかうみたいに朱音へ触れていた。一緒に寝ようかと軽口を叩いたり、反応を見たくて肩や髪へ手を出したり、そういう半端な遊び方をしていた。けれど最初から欲情していたのかと言われたらそれも違う。あれは半分くらい、慣れない環境で強張っている相手をほぐすためだった。監察局の白い部屋や尋問の空気、周囲の視線にいちいち怯えさせないためにわざと少し軽い調子で触っていたところはある。
もう半分は、ハディートならこのくらいの距離の詰め方はしただろうという勝手な想像だった。あの男が持っている妙に人を落ち着かせる無遠慮さを、僕なりに真似たつもりだったのかもしれない。実際には似ても似つかないくせに、そういう顔を借りれば少しは場が和らぐ気がしていた。
だから余計に最悪だった。
最初は緊張をほどくためだったはずの手つきに、軽口のつもりだった距離の詰め方に、最初から別のものが混ざっていたのだとあの夜になってはっきり分かってしまったからだ。朱音の口から手錠という語が出た瞬間、それまで冗談の形へ押し込んでいた像が一気に具体になる。触れるではなく、拘束する。からかうではなく、支配する。許されたわけでもないのに本人の口から出た具体語だけが、こっちの一番よくない部分へ真っ直ぐ届いた。
僕は朱音に向いた熱を、そのまま別の場所へ流した。
クレアの件で吐くほど揺れていた直後に、それでも結局、自分を収めるために性を使った。
しかも、ただ流されたのではない。そうしているのだと分かった上で、マディカルを呼んだ。助けを求める顔をしながら、実際には自分の危うさの処理に付き合わせた。マディカルがそれを理解していることまで分かっていてそれでも呼んだ。
そこまで分かっていて、なお二回もした。
その事実が、遅れて体の中を冷やしていく。
欲に負けた、では済まない。むしろ最悪なのは、その場しのぎとしてはあまりにも正しかったことだ。あれがなければ今頃本当に何かやっていたかもしれない、と自分で分かってしまう。おそらく、助かったのだ。けれど、その助かり方があまりにも終わっている。その認識だけが、行為の熱が抜けたあとにきっちり残る。
僕は腕で目元を隠した。
隠したところで意味はない。視界が暗くなるだけで、考えることは減らない。クレアの細い肩がよぎり、その次に朱音の手首が出る。何も嵌まっていなかった白い手首。膝の上で強く組まれていた指。そこへ向いた自分の視線。壊してでも、と一瞬でいった頭。あれを僕は知っている。自分の中にそういう線があることも、そこへ行きかけたことも、全部分かっている。
その後で、こうして別の身体に縋って収まった。
収まってしまった、という方が近い。
……だから駄目だった。
「……パケラス」
マディカルの声が少しだけ近づく。
僕は返事をしなかった。腕もどけない。どけないつもりだったのに、こめかみのあたりだけが妙に冷えているのに気づいて自分で少し遅れて分かった。
泣いている。
泣くほどのことではない、と頭では思う。
けれど、泣いている理由もちゃんと分かる。僕は今、自分のしたことの意味がようやく全部追いついたから泣いている。朱音に向いた加虐性を見たこと。クレアの件でぐらついた直後に、それを性で処理したこと。しかも、その処理を自分の意思で選んだこと。その上、それが実際に効いてしまったこと。助かった方法が最悪だった時、人は案外簡単に泣く。情けないからではない。もっと先に、理解が遅れて体に届くからだ。
嗚咽になるほどではない。声も出ない。ただ、目尻から勝手に滲んだものが、こめかみを伝って髪へ消えていく。それだけなのに、止める気力がうまく出てこない。
「あらまぁ」
「……何」
「本当に死んでるじゃない」
マディカルは僕の腕を無理にどかさず、露出している頬へ指先を置いた。涙をぬぐわず、ただ熱を確かめるみたいに触れる。からかいの続きではない。泣いている理由までは言わなくても、今どこまで落ちているかだけは見ておく、そういう手つきだった。
「うるさい」
「うるさくないわよ。だって、そんな顔してるもの」
「見んな」
「無理ね」
さっきまでみたいなからかい一辺倒の響きはなかった。事情を全部分かった上で、慰めない。説教もしない。分かっているとだけ態度で置く。そういう時のマディカルは、余計に逃げ場がない。
「朱音に向いたのがきついの?」
「……」
「クレアの件の後で、結局こういう形で収めたのがキツいの?」
「……」
「それとも、分かってて私を呼んだのが?」
どれも正しい。正しいから返せない。マディカルは黙った僕を見て、小さく息をついた。勝った顔ではない。答え合わせが終わった時の顔だ。
「全部ね」
「……まあ、せやろな」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。喉は乾いていて頭も重い。泣いていること自体が情けないのではない。そこまで追いつめられていることも、そこまで分かっているのに同じやり方しか選べなかったことも、全部込みで情けなかった。
マディカルは僕の肩へ額を寄せた。甘えるみたいな仕草に見えて、実際には違う。僕の体温を見ているだけだ。胸元へ手を置き、呼吸の深さを測る。薬屋の顔と夜の顔とそのどちらでもできることを、同じ手つきでやる女だった。
「別に、あなたが今更綺麗な人間だとは思ってないわ」
「ひどい言い方やな」
「ひどいでしょう? でも事実」
そこでまた少し笑う。
僕は笑えないまま、腕の下でまた涙が増える。
「……終わっとるな、僕」
「えぇ、かなり」
「否定せえや、そこは」
「だって嘘になるもの」
マディカルはあっさり言った。
それから、今度はほんの少しだけ声を落とす。
「でも、あれがなかったらもっと終わってたんでしょう?」
「……」
「それも分かってるから泣いてるんじゃないの」
返事をしないまま、僕は腕を下ろした。
目元が熱い。みっともない顔をしているのは分かる。マディカルはそれを見ても、綺麗ごとは言わない。可哀想とも仕方なかったとも言わない。僕の頬へ指を這わせ、涙の跡を乱暴でも丁寧でもない手つきで拭った。
「本当にひどい顔」
「さっきも聞いた」
「さっきよりひどいもの」
「……うるさい」
「はいはい」
そう言いながら、彼女は僕の胸へ頬を乗せる。豊かな胸の重みと長い髪の感触が、裸の皮膚へそのまま落ちてくる。行為のあとの余韻としては柔らかすぎるのに、慰めとして受け取るには生々しすぎた。だからちょうどいいのかもしれない。甘くも綺麗にもならないまま、ただ二人で同じベッドにいるだけの重さだった。
「ねぇ」
「……なんや」
「三回目はさせないわよ」
その一言に、僕はようやく鼻で少しだけ笑った。そのせいで残っていた涙がまた目尻から落ちる。
マディカルはそれを見て、僕の頭をゆっくり撫でる。その撫で方だけがさっきまでと少し違っていた。煽ることでも試すことでもなく、神経を落とすためだけの速さだった。
「少し寝なさい」
「寝れる顔しとるか」
「泣いた後は案外寝るものよ」
「……経験則か?」
「えぇ。いろんな人で見てきた」
最低なことをさらっと言う。けれど、その最低さに少し救われる自分がいるのもまた最低だった。僕は目を閉じる。朱音の手首もクレアの細い肩も完全には消えない。しかし、さっきまでみたいに鋭くは来ない。代わりに自己嫌悪だけが鈍く沈んで、そこへマディカルの体温が重なる。
僕がやったことの意味は消えない。
それでも眠気が少しだけ勝ち始める。最悪やな、と頭のどこかで思う。そう思いながらも、もう口には出さない。口にしたらまた笑われるのが分かっているからだ。




