第四百三十一話 箱館戦争(前編)
---三人称視点---
「総員、退艦用意! 兎に角、急げ!」
海軍奉行・荒井郁之助の悲痛な声が、
大破し、黒煙を吹き上げながら、傾いた開陽丸の甲板に響き渡った。
側面装甲を打ち破られ、機関部にも損傷を受けた開陽丸は、
戦闘続行はおろか、こうして海に浮いていることすら困難な状態であった。
「荒井殿! 我々も援護します!」
回天丸艦長・甲賀源吾が叫び、
敵艦の砲火を浴びながらも開陽丸に接近する。
蟠竜丸艦長・松岡磐吉も、小回りの利く船体を駆使して、
敵の注意を引きつけようと奮闘していた。
だが所詮は多勢に無勢。
また甲鉄艦の存在が大きく共和国軍に立ちはだかった。
新政府軍の軍艦は、開陽丸に撃沈さすべく、集中砲火を浴びせ、
回天丸や蟠竜丸の接近を執拗に阻んだ。
「無念、これまでか。 開陽よ……。許せ……」
荒井は、唇を噛み締め、燃え盛る開陽丸を見つめた。
エストラーダ王国で建造され、
日ノ本の海軍の未来を託されたはずの最新鋭艦が、
今、目の前で海の藻屑として、消えようとしている。
それは同時に蝦夷共和国の制海権の喪失を意味していた。
ボートに移乗し、命からがら陸地を目指す生存者たちの目に、
巨大な水柱と共に開陽丸が海底へと姿を消していく光景が焼き付いた。
共和国海軍は、事実上壊滅した。
回天丸、蟠竜丸なども損傷を負い、
かろうじて戦線を離脱するのが精一杯であった。
この海戦の結果は、陸上で戦う共和国軍にとって、
致命的な打撃となった。
海からの支援が絶たれただけでなく、
新政府軍は制海権を完全に掌握し、
兵員や物資を自由に陸揚げできるようになったのである。
こうして戦いの流れは、新政府軍に自然と傾いた。
「開陽丸が、沈んだだと……?」
五稜郭で戦況報告を受けていた榎田武揚は、その場で絶句した。
彼の思い描いていた、
海軍力を背景とした国際社会へのアピールという戦略は、
ここに脆くも潰えた。
榎田の顔面は蒼白になり、
総裁としての威厳も、今は見る影もなかった。
その頃、箱館市街や各所の防御陣地では、
陸戦が苛烈を極めていた。
新政府軍は、圧倒的な兵力と最新鋭のライフル銃、
そしてアームストロング砲などの火砲を投入し、
共和国軍に対して、波状攻撃を仕掛けてきた。
弁天台場では、
聖歳三自らが指揮を執り、必死の防戦を続けていた。
「撃て! 兎に角、撃ち続けろ!
何としても敵を近づけるな!」
聖は刀を抜き放ち、胸壁の上から兵士達に檄を飛ばす。
新政府軍の兵士たちは、薩摩と長州を中心とした精鋭であり、
その突撃と勢いは凄まじいの一言に尽きた。
「うおおおぉっ!」
「死ね! 死ねい!」
銃剣を構えた新政府軍兵士が、
土嚢を乗り越え、台場内へと突入してくる。
「神剣組、参上!」
沖田悟、相馬主計、島田魁ら、聖の同士と腹心達が迎え撃った。
かつて京洛の巷で鍛え上げた彼等の殺人剣は、今も健在だった。
白刃が閃き、銃声と怒号の中で、壮絶な白兵戦が展開される。
「聖副長! 幾ら何でも敵の数が多すぎます!
このままでは……!」
島田魁が、巨体を揺らしながら叫んだ。
島田の額からは、血が流れていた。
「踏ん張れ! オレ達が今を退けば、五稜郭が危うくなる!
ここで何としても食い止めるんだ!」
聖は、羅刹のごとく刀を振るい、迫りくる敵兵を斬り倒していく。
だが敵は倒しても倒しても、次から次へと現れる。
弾薬も尽きかけていた。共和国軍の兵士たちは、
次々と銃弾に倒れ、あるいは敵の銃剣に貫かれていく。
「聖さん! 危ない!」
沖田が叫んだ瞬間、聖のすぐそばで砲弾が炸裂した。
爆風と土砂が、聖に襲いかかった。
「く、くっ……!」
聖は地面に叩きつけられ、一瞬意識が朦朧とする。
「副長! ご無事ですか!」
沖田や相馬らが駆け寄る。
幸運な事に大きな怪我はなかったが、
聖は己の限界を感じ始めていた。
――これまでか……。
――だが、まだだ……。
――まだ、死ねん……死ぬわけにはいかん。
一方その頃、函館山の麓で、
奇襲攻撃を仕掛けていた伊庭八郎率いる遊撃隊も、
予想以上の苦戦を強いられていた。
初期の奇襲は成功し、敵に混乱と打撃を与えたものの、
すぐに態勢を立て直した新政府軍の反撃は想像以上に激しく、
遊撃隊は逆に包囲されつつあった。
「八郎さん! 敵が背後にも回り込んできます!」
人見勝太郎が、思わず焦りの声を上げる。
「くっ! さすがに数が多すぎるか……」
伊庭は、馬上で銃を撃ちながら、状況を判断しようとした。
右腕一本での戦闘は、長期戦には向いてない。
「一旦退くぞ! 山中に逃げ込み、機を窺おう!」
伊庭は、撤退の合図を送った。
だが退路には既に新政府軍の兵士たちが待ち構えていた。
「しまった!」
「伊庭八郎! 覚悟せよっ!」
新政府軍の士官と思われる男が、
刀を構えて伊庭に斬りかかってきた。
「させものるか!」
伊庭は、馬を操りながら、右手一本で刀を受け止める。
斬撃の衝撃により金属音が激しく鳴り響く。
伊庭の剣技は、隻腕とは思えぬほど巧みだったが、
相手もかなりの手練れであった。
数合打ち合ったところで、伊庭の馬が敵の銃弾を受け、
嘶きと共に地面に崩れ落ちた。
地面に投げ出された伊庭に、敵兵たちが殺到する。
「八郎さん!」
人見らが助けに入ろうとするが、敵の数が多い。
絶体絶命かと思われたその時に――
「援軍だ! 陸軍奉行、大鳥様の部隊だ!」
後方から、共和国軍の別部隊が現れ、新政府軍の背後を突いた。
大鳥圭介が率いる伝習隊の兵士たちだった。
「無事なのか、伊庭君!」
大鳥は馬で駆けつけながら叫んだ。
「大鳥殿! 何とか無事です!」
こうして伊庭は、辛うじて窮地を脱した。
だが戦況全体が好転したわけではなく、
箱館市街にも戦火は及び、各所で市街戦が繰り広げられていた。
千代ヶ岱陣地も陥落寸前となり、
共和国軍の防衛線は、次々と破られていく。
「ここまでだな……。 ――全軍、五稜郭へ撤退せよ!」
陸軍奉行・大鳥圭介は、苦渋の決断を下した。
各地で奮戦していた部隊に、撤退命令が出された。
撤退は、困難を極めた。
追撃してくる新政府軍と戦いながら、負傷者を運び、
五稜郭を目指した。 その過程で多くの兵士が命を落とした。
箱館の町は戦火に包まれ、住民達の悲痛な叫び声が響き渡る。
聖歳三も、相馬主計らに半ば強引に説得され、
弁天台場を放棄し、少数の手勢と共に五稜郭へと向かった。
聖の顔には、屈辱と怒りの色が濃く浮かんでいた。
――俺は、また負けたのか。
――権藤さん……。すまねえ……
伊庭八郎も、遊撃隊の生き残りと共に、
五稜郭へなんとかたどり着いた。彼の体は泥と汗にまみれ、
その表情には深い疲労と、失われた仲間たちへの悲しみが刻まれていた。
次回の更新は2026年5月13日(水)の予定です。
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