第四百三十二話 箱館戦争(中編)
---三人称視点---
五稜郭。かつて共和国建国の希望の象徴だったこの星形要塞は、
今や最後の砦となっていた。城内には、敗走してきた兵士たち、
負傷者、そして一部の避難民が溢れ、混乱を極めていた。
それに加えて食料は、もはや底をつきかけていた。
弾薬も、残りは僅か。薬も不足していたが、
そこは回復魔法を使える者が一人で十数人以上を
回復及び治療魔法をかけて、何とか負傷者の治療にあたったが、
負傷者の数が多すぎて、手が回らない状況であった。
「水……水をくれ……」
「痛い……お、俺も治癒してくれ……」
野戦病院と化した建物からは、うめき声が絶え間なく聞こえてくる。
兵士たちの士気は、もう最悪であった。
絶望的な状況に、自暴自棄になる者、故郷を思って涙する者、
そして何かを忘れるようと空を見上げる者……。
この絶望的な状況の中で、共和国首脳部による最後の評定が、
旧箱館奉行所庁舎の一室で開かれた。
榎田武揚、松平太郎、永井尚志、大鳥圭介、聖歳三、そして伊庭八郎。
共和国の中枢を担ってきた男たちが、重い表情で顔を突き合わせていた。
部屋の空気は、非常に重く淀んでいた。
最初に口を開いたのは、総裁・榎田武揚だった。
彼の声は、やや震えていた。
「……諸君、ご覧の通り、我々の状況は絶望的だ。
海軍は壊滅状態、陸軍も大きな損害を受け、
五稜郭は完全に包囲された。
食料や弾薬が尽きるのも時間の問題だ……」
榎田は一度言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「……最早、戦いを続けることは、
兵士たちや民の命を無為に失わせるだけかもしれん。
私は……総裁として、将兵の助命を条件に、
新政府と降伏交渉に入るべき、と考えている。
国際法に則り、最後まで、彼らの命を守るべきだと思う」
榎田の提案に、一座は水を打ったように静まり返った。
降伏。 この場に居る誰もが心のどこかで考えていたことかもしれないが、
口に出すには、憚られる言葉だった。
「……ふざけるな!!」
沈黙を破ったのは、予想通り聖歳三だった。
彼は、椅子を蹴立てるように立ち上がり、榎田を睨みつけた。
「降伏だと!? 今更、敵に命乞いをしろだとっ!
それが武士のすることかよ! 我々は、死に場所を求めて、
この蝦夷地まで来たのではないのかよっ!」
「聖君、落ち着きたまえ!」
松平太郎が制するが、聖の怒りは収まらない。
「オレは断じて認めんぞ! 降伏など、断固拒否する!
最後の一兵になるまで戦い抜き、この五稜郭を枕に討ち死にする!
それが、オレの……聖歳三の武士道だ!
降伏したい奴は、勝手に降伏するがいい!」
「聖殿の言う通りでござる!」
聖に同調する声も少なくなかった。
特に、神剣組や彰義隊の生き残りなど、
最後まで戦うことを望む者たちは、聖の言葉に強い共感を示した。
「だがな、聖君」
今度は、老練な永井尚志が、静かに語りかけた。
「玉砕が、本当に最善の道だろうか?
我々の目的は、旧幕臣の安寧ではなかったのか?
ここで我々が全滅すれば、残された者たちはどうなるかね?
もし降伏によって、少しでも多くの命が救われ、
将来に繋がる道が残るのであれば、
それを選ぶことも、また指導者の責任ではないかね?」
「永井様の仰ることも、一理あります」
陸軍奉行の大鳥圭介も後に続く。
「私も玉砕には反対です。 仮に降伏するにしても、
ただ無条件に降るのではなく、我々の主張を伝え、
できる限り有利な条件を引き出すよう、交渉すべきでしょう。
例えば、蝦夷地の開拓に関する我々の知識や経験を提供すること
と引き換えに、将兵の寛大な処置を求めるとか、
手はいくらでもあるでしょう!」
降伏か、玉砕か。
穏健派と強硬派の意見は、真っ向から対立した。
評定の間は、再び激しい議論の場となった。
榎田は、総裁としての責任感から、
将兵の助命を最優先に考え、降伏交渉の道を探ろうとする。
聖は、武士としての美学と、死んでいった仲間たちへの思いから、
徹底抗戦と玉砕を断固として主張する。
永井、松平、大鳥らは、現実的な判断として降伏は仕方ないと考えつつも、
少しでも有利な条件を引き出そうとしていた。
その中で、伊庭八郎は、黙って議論を聞いていた。
彼の心は、今、激しく揺れ動いていた。
聖の言う、武士としての矜持も分かる。
榎田の言う、命の重さも理解出来る。
どちらが正しいのか、伊庭には判断がつかなかった。
仲間たちの顔が、次々と伊庭の脳裏に浮かんだ。
共に戦い、共に笑い、そして死んでいった者たち。
今も五稜郭の中で、息も絶え絶えに苦しんでいる負傷者たち。
そして自分を信じてついてきてくれた、遊撃隊の隊士たち。
――彼らを、死なせたくない……。
――だが降伏もしたくない……。
伊庭は、ふと顔を上げた。
そして表情を引き締め、はっきりとした口調で言った。
「……降伏か、玉砕か、どちらか一方を選ぶ必要はないのかもしれません」
彼の言葉に、一同の視線が集まった。
「……それはどういう意味だ、伊庭君?」
と、榎田が尋ねる。
「我々は、最後まで戦う。 だがそれは玉砕するためではない。
我々の誇りを示すため、そして敵に我々の力を認めさせ、
少しでも有利な条件で、この戦いを終わらせるのですよ」
伊庭は更に言葉を紡ぐ。
「降伏するにしても、ただ武器を捨てるのではなく、
最後まで抵抗し、敵に相応の損害を与えた上で、
堂々と交渉する、という手もあります」
伊庭の提案は、玉砕でも無条件降伏でもなく、
第三の道を示唆するものだった。それは、
現実的な策ではないかもしれない。だが絶望的な状況の中で、
微かな希望の光を見出そうとする、
伊庭の必死の思いが込められていた。
聖は伊庭の言葉に、少しだけ表情を和らげさせた。
榎田も、永井も、松平も、大鳥も、
伊庭の言葉を吟味するように、黙り込んだ。
結局、この最後の評定でも、明確な結論が出ることはなかった。
降伏か、徹底抗戦か。共和国の指導者たちは、
それぞれの考えを胸に秘め、運命の時を待つことになった。
評定が終わった後、伊庭は一人、五稜郭の胸壁に立った。
黄昏時の空が、赤く染まっている。
眼下には、新政府軍の無数の篝火が見え、
五稜郭を幾重にも取り囲んでいた。
――明日か、明後日か……。
――最後の時が来る……。
――だが俺は最後まで諦めない。
隻腕の剣士は、静かに覚悟を決めた。
自分の信じる道のために、最後まで戦い抜こう、と、
たとえ、その先にどんな運命が待ってようとも。
五稜郭に、静かな夜が訪れようとしていた。
それはまさに嵐の前の静けさ。
蝦夷共和国の、そしてそこに生きた者たちの、
運命を決する戦いが始まろうとしていた。
次回の更新は2026年5月16日(土)の予定です。
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