第百三十九話 イレギュラーと吸血王
「……エル殿?」
血の塔の四階には確かにエルが居た。しかし、それはエルだが、姿は吸血鬼だ。悪魔のような翼が背中からはえ、吸血鬼特有の犬歯がキラリと光る。エルの目は真っ赤だが、その目は光がない。いつも輝いていた赤い目はなく、暗く、濁った赤い目をしている。
「……桜ちゃん」
エルは感情が含まれない淡々とした声で桜の名を呼ぶ。
「バベル殿も待ってるでござる。早く帰るでござるよ」
「……ふふ」
エルは笑った。桜の言葉に、少女のような笑で。しかしその瞳には感情が存在しない。ただ、作られたような笑顔。
「桜ちゃんの血……オイシソウ」
「っ!」
その言葉を聞いた桜は震える。得体の知れない寒気。エルならば、絶対に言わない言葉だ。
「エ、エル殿、冗談を言わないでござる!」
桜はエルに向かって叫ぶが、エルは冷めた目でそれを見つめる。
「……ボクはエルじゃない。吸血王だよ?」
「吸血王?」
聞き慣れない言葉。吸血鬼ではない存在。桜は古代文明などを調べたりはしない。だからこそ、知らなかった。数万分の一の確率で産まれる吸血鬼の変異種。吸血鬼の数倍の力をもつ吸血鬼の王。吸血王を……。
「ああ……桜ちゃん。ごめんね」
エルは唐突に、脈略もなくそう言った。
――ガシャンッ!
その音は鎖の落ちた音だった。赤い、真っ赤な鎖。それはエルを縛っていたもの。エルの、暴走を押さえていたもの。
エルは今、解き放たれる。力が解放され、理性を失った。
「アァ……ァァア」
歪な声。歓喜と狂気が含まれる不気味な声。エルは笑っていた。今度は、楽しそうに。狂気の笑を浮かべて。
「エ、エル殿。もしかしてその姿は……」
桜は今までの経験から、エルの姿に近しいものを知っていた。今まで幾度も戦ってきた存在。それはすなわち――
「……イレギュラー」
吸血鬼の王、吸血王であり、イレギュラー。長き人類の歴史の中でも類を見ないほど凶悪な魔物がいま、解き放たれた。
◇
イレギュラー特有の真っ赤な目。狂気を感じる赤い目を爛々と輝かせながらエルは桜に襲いかかる。その速さはかなりのもので、バベル程度ではなにも出来ずに死んでいただろう。
「くっ!」
桜はエルの攻撃を横に跳ぶ事で回避する。エルの手に握られていた短剣が血の塔の壁に突き刺さるが、短剣はその壁の血を吸って肥大化する。
「ァア……アハハハハハハハハ!」
エルは狂気に支配された笑を浮かべながら笑う。その姿は美しく、はかない。
「……エル殿。なにがなんだか分からないでござるよ」
桜の脳はフル回転しながら悲鳴を上げていた。次々と起こる予想外の出来事に桜の脳は煙を上げる。桜は知らなかった。エルについてなにも。だからこそ混乱する。突然エルの全てを見てしまい。
「アハハハハハハハハ! “血の装飾”」
血で出来た壁、床、天井、すべてから血が生き物のように動きながらエルに集まり、絡みつく。エルは貴族がつけるようなデザインのネックレスや腕輪、指輪を纏う。それは全て血で出来ていた。エルはその装飾品を纏って桜を嘲笑いながら攻撃した。
その姿は高貴なる者だが、精神は赤い狂気にむしばまれている。
「ァハ」
「っ!」
突如桜に血の弾丸が襲う。エルが放った血の弾丸は数百はあり、それは桜に向かっている。しかし、桜も負けてはいない。超人的な身体能力を発揮し、自分に当たるであろう弾丸は全て夜桜を使って弾き飛ばす。
「……エル殿、あなたの正体は分からない。けど、攻撃するというなら反撃しますよ」
「アハハ。……イイヨ?」
小首を傾げながらそう言ったエルに、桜は防御体勢から戦闘態勢に入る。しかし、桜でも勝てるか分からない。Sランクでも最上位の魔物【吸血王】。そのイレギュラーだ。いや、普通に戦っても負ける。今のエルに勝つなど世界最高火力“戦神”じゃないかぎり不可能だ。それでも桜はエルに戦いを挑む。
「アハハハハ!」
「はあっ!」
エルは呪われた短剣を握って翼で飛びながらエルに突撃する。桜はそれを夜桜で受け止めた。短剣と刀がぶつかりあい、火花を散らす。
桜は一度の激突でエルの強さを理解した。力、技能、能力。すべてが自身より上。イレギュラー特有の力任せの暴走を感じない。元のエルの上位互換。それが、吸血王のイレギュラー。
「せっしゃも、本気せ行かせてもらう」
桜はそう言って、エルに刀を振りかぶった。
「ン~? アハハ。コケ、オドシ?」
「……っ!」
桜はエルを斬れなかった。吸血王を斬れなかった。イレギュラーを、斬れなかった。それは誓約。
――『恋人か。仲間か。家族か。刀は、人を斬る為の道具じゃねえ。守る為の物だ』
桜の記憶はフラッシュバックする。それはかつて夜桜の作成者である子鉄に言われた言葉。夜桜を渡された時の約束。桜は仲間を斬れなかった。桜は、ヒトを斬れなかった。
「……死? 殺?」
エルはそう言って、桜を攻撃する。狂気は暴走し、約束は枷となる。闇は、深まるばかりだった――




