【第4話:宿屋『ラスティ・アンカー』の死闘と、ロレックスと安物オイルの悲劇】
小型連絡船のディーゼルエンジンが低く唸りを上げ、俺がキーをひねって電源を落とすと、船体はブラックロック島の岸壁に吊るされた古タイヤへと静かに接岸した。
錆びついた係船柱にロープを結びつけ、左手に牛刀、右手に一・五キロの重厚な骨スキナタ(マンナイア)を構えてコンクリートの桟橋へと飛び降りる。
着地した瞬間、太ももと肩の筋肉にズシリと鈍い痛みが走った。
ゲームの中の主人公なら、八十キロの荷物を背負って全力疾走しても息一つ切らさない。
だが現実は違う。厨房のパスで十五体の頭蓋骨を叩き割り、重いバックパックを背負って客船の階段を最上階まで登り降りしたのだ。俺の身体には、すでに確かな疲労が蓄積し始めていた。
俺は息を整えながら、島の通りを見渡した。
船の上から双眼鏡で見た通り、島の中は文字通り地獄の吹き溜まり(カオス)だった。
港のすぐ目の前には、黒い木材で造られた二階建ての宿屋『ザ・ラスティ・アンカー・イン(錆びた錨亭)』が建っている。
メインストリート沿いにはガラスの割れた『商店』がいくつか並び、坂の上には白い『病院』、そして広場の反対側には四角いコンクリートの『警察署』が見えた。
そして、その通りのどこを見渡しても、生きている人間の姿は一人たりともなかった。
血まみれの黄色い合羽を着た漁師や、観光客、島の住民たちの成れの果てが、乗り捨てられた車の間を虚ろな目でうろついているだけだ。
「……よし、まずは目の前の『ラスティ・アンカー』だ。電話が生きているか確認する」
俺は桟橋の網カゴの陰に身を潜め、感染者の群れが通り過ぎる隙を突いて、宿屋のポーチへと音もなく駆け込んだ。
半開きになっていたガラス扉をすり抜け、薄暗いロビーへと足を踏み入れる。
その瞬間、受付カウンターの奥から、血まみれのチェックのシャツを着た太った男――この宿屋のオーナーらしきゾンビが、左手首に高級な『純金のロレックス』をギラつかせながら猛然と飛びかかってきた。
さらに奥の廊下からは、元ウェイトレスの感染者も唸り声を上げて迫ってくる。
腰の小型ピストルには手を触れなかった。こんな場所で発砲すれば、港中のゾンビを呼び寄せてしまう。
俺は奥歯を噛み締め、オーナーがカウンター越しに身を乗り出してきた瞬間、半歩だけ横にステップを踏んだ。
そのまま頭上高く振りかぶった一・五キロのナタに全身の体重を乗せ、奴の頭蓋骨のてっぺんへ向けて、真上から垂直に叩き落とした。
――ガシャアッ!!
鈍い音を立てて頭蓋骨が割れ、オーナーが床に沈む。
間髪入れず、横から飛びかかってきたウェイトレスの噛みつきを、料理雑誌とアルミホイルで固めた左腕のガードで受け止め、右手の牛刀をこめかみへと深く突き刺した。
二体目が絨毯の上に崩れ落ちた瞬間、俺はその場に片膝をつき、しばらくの間「ハァッ、ハァッ……」と荒い息を繰り返した。
右腕が鉛のように重く、微かに震えている。コックコートの下は冷や汗でびっしょりだった。
ゲームならボタン連打で何十体でも倒せるが、現実の戦闘はたった二体相手でも全身の筋肉と神経を激しくすり減らす。
俺は重い足を引きずって宿屋の正面扉に鍵をかけ、カーテンを閉め切ってから、受付と事務所の固定電話の受話器を上げた。
……ダメだ。プーという発信音すらしない。アナログの電話線は完全に死んでいる。唯一の救いは、宿屋の裏手で自家発電機がまだ動いており、電気が生きていることだけだった。
「固定電話は全滅か。やっぱり警察署の無線機を使うしかねえな……。だが、この疲れ切った身体のまま外の群れに突っ込むのは自殺行為だ」
俺は宿屋の奥にある厨房へと入り、内側から業務用の鉄扉を完全に封鎖してバリケードを作ってから、ズルズルと座り込んでバックパックを下ろした。
ゲームをする気力よりも先に、まずは『食事』だった。
俺はタッパーを開け、船から持ってきた自家製の『冷製パスタ(パスタ・フレッダ)』と、ハーブを効かせた『豚ロース肉のソテー』を口へと運んだ。
チェリートマトの酸味とオリーブの塩気、そして冷めても驚くほど柔らかい豚肉の脂の旨味が、擦り切れた筋肉と五臓六腑に染み渡っていく。
そして食事の締めに、俺はアルミホイルに包んでおいた特製の『パニーニ』を取り出した。
俺が船で焼いた外はパリパリ、中はモチモチのパンに、極上の具材を挟んだ自信作だ。
かぶりつく前に、俺は何気なく上のパンをめくって中身を確認し――そのまま凍りついた。
「……嘘だろ?」
俺の声は、船のモニターで最初のゾンビを見た時よりも震えていた。
パンの内側が、真っ白で乾いていたのだ。
出発前、パンがしんなりしないように「食べる直前にかけよう」と思って包んだ結果――俺としたことが、仕上げの『エキストラバージン・オリーブオイル』をかけるのを忘れ、しかもオイルの小瓶を船の厨房に置き忘れてきてしまったのだ!
「くそっ、なんたる失態だ……! 最高のオリーブオイルがかかっていないパニーニなんて、ただの乾いたパンと肉じゃねえか!」
そのままパサパサの状態で食うことなど、料理人としてのプライドが許さない。
俺は重い身体を無理やり起こし、宿屋の厨房の棚という棚を必死に漁り始めた。
二分後、フライヤーの近くの暗い戸棚の奥から、黄色い安っぽいラベルが貼られた五リットルの透明なプラスチックボトルが見つかった。
ラベルには英語でこう書かれていた。
――『ブレンド・クッキングオイル(業務用・超徳用サイズ)』。
どこの馬の骨とも知れない植物油を混ぜ合わせた、市場で一番安い最低ランクの油だ。
キャップを開けて匂いを嗅いだ瞬間、俺は顔をしかめた。酸化した油とプラスチックが混ざったような、ひどい匂いがする。
だが、これしか選択肢はなかった。
俺は泣く泣くその安物オイルをほんの少しだけパンに垂らし、パニーニを閉じて一口かじった。
肉は完璧だ。パンも美味い。
だが最後に、あの安物オイルのベタついた化学的な後味が舌の上に広がり、俺の完璧な料理のバランスを台無しにしていく。
俺は怒りに震えながら顔を上げると、ロビーで倒れている宿屋のオーナーの死体の方へ向かって怒鳴り散らした。
「手首にロレックスを巻いて、厨房には超激安のオイルかよ……!」
俺は苦虫を噛み潰したような顔でパニーニを噛み締めた。
「経営者の九割はどいつもこいつも全員同じだな! 食材選びは料理人に任せろってんだ!」
俺は水筒の水で口の中の嫌な油の味を流し込み、どうにかパニーニを完食した。
腹が満たされたところで、俺はようやく内ポケットから『最新型の携帯ゲーム機』と『純正の充電器』を取り出した。
調理台の上のコンセントに充電器を挿し、一息つくために電源を入れる。
ゲームの続きを始める前に、俺はゲーム機の動画アプリを開き、毎週欠かさず追いかけていた『お気に入りの海賊アニメ』の今週の最新話を再生した。
動画は止まることもなく、フルHDの最高画質でサクサクと再生された。
俺は二十四分間、海賊たちの熱い戦いに夢中になって画面にかじりつき、最新話を見終えてから満足してゾンビゲームの続きを起動した。
だが、ゲームを始めて二十分も経たないうちに、突然、猛烈な『眠気』が俺を襲った。
腹いっぱい食べた後の急激な眠気と、ゾンビとの生身の戦闘で蓄積した凄まじい肉体疲労が、一気に押し寄せてきたのだ。
ゲームの中なら不眠不休で走り回れるが、現実の身体はもう限界だった。
「……ダメだ、まぶたがくっつく。警察署へ行くのは、明日の朝にするか……」
俺はゲームをセーブしてスリープモードにし、充電ケーブルが繋がっていることを確認すると、厨房の中央にある冷たいステンレス製の調理台の上へとよじ登った。
バックパックを枕にし、冷え切った金属の感触を背中に感じながら、俺はそのまま朝まで泥のように深い眠りへと落ちていった。




