【第3話:ディッシュ・パスの実戦解体修業と、船長室の戦利品】
俺はディッシュ・パス(料理受け渡し窓)の左右のかんぬきを抜き、金属製シャッターの取っ手を掴んで、わずか二十五センチだけ引き上げてストッパーで固定した。
カウンターの向こう側、豪華客船『ロイヤル・セレスティア号』のメインダイニングは不気味な薄闇に包まれていた。
ひっくり返ったテーブルやデザートワゴンの間を、タキシード姿のウェイターやドレス姿の乗客など、十五体ほどのアンデッドがよろめきながら徘徊している。
俺は左手を伸ばし、パスの縁に備え付けられた真鍮製の呼び鈴を二回、強く叩いた。
――チーン! チーン!
「オーダー入りまーす!」
俺は静まり返ったホールに向けて大声で叫んだ。
「料理が出来たぞクソ野郎ども、取りに来やがれ!」
効果は劇的だった。
十五体の首が一斉にこちらを向き、濁った唸り声を上げながらカウンターへと殺到してきた。
真っ先に二十五センチの隙間へ頭と片腕をねじ込んできたのは、顔の半分が爛れた大柄な元ソムリエだった。
俺は長年のゲームの癖で、反射的に右手の牛刀を構え、ソムリエの額のど真ん中をめがけて真っ直ぐ突き出した。
――ガツンッ!!
鈍い衝撃が右手首から肩まで突き抜け、鋼の切っ先が頭蓋骨の表面を滑って腐った皮膚を裂いただけで弾かれた。
「……っ、何やってんだ俺は!」
俺は即座に腕を引き戻しながら、自分自身に舌打ちした。
料理人として十六年間、俺は数え切れないほどの牛のアバラを捌き、豚の頭を割り、仔牛の背骨を断ち切ってきた。
本物の『骨』がどれほど硬いかなど、誰よりもよく知っているはずだ。
ゲームの中ではボタン一つでナイフが頭蓋骨を貫通するが、現実の頭蓋骨は分厚いカルシウムの塊だ。しかも相手は激しく動いている。普通の牛刀の切っ先で平らな額を正面から突けば、刃が滑るか折れるに決まっているのだ。
(いいかアンジェロ、見習い時代に枝肉の解体を覚えた時を思い出せ……!)
まな板の上の動かない肉なら関節の位置もすぐ分かるが、暴れる相手を牛刀で仕留めるには、角度と急所の感覚を身体に叩き込むしかない。
そして今、目の前の狭い隙間には、一列に並んで順番待ちをしている十五体の実験台がいる。
これほど安全に『実戦の感覚』を掴める練習場は他になかった。
俺は牛刀のグリップを強く握り直すと、今度は額ではなく、骨が卵の殻のように薄い『眼窩(目のくぼみ)』の奥をめがけて、肩の体重を乗せながら斜め上へと刃を突き入れた。
――ゴシャッ!
今度は手応えがあった。刃が脳幹に達した瞬間、ソムリエの身体から糸が切れたように力が抜け、カウンターの上に崩れ落ちる。
俺はそいつの襟首を掴んで横へ引きずり下ろし、すぐさま隙間から頭を突っ込んできた二人目――太い首をした大柄な乗客と対峙した。
こいつは暴れ方が激しく、牛刀で目の穴を正確に狙う余裕がない。
「よし、お前には重い一撃だ」
俺は牛刀を置き、ベルトから重さ一・五キロの分厚い『中華包丁型の骨スキナタ(マンナイア)』を抜き放った。
そもそもナタという道具は、下から振り上げたり突いたりするものではない。その圧倒的な『重さ』と『重力』を利用して、上から真っ直ぐ叩き割るための道具だ。
俺は牛のゲンコツ(大腿骨)を叩き割る時とまったく同じフォームでナタを頭上高く振りかぶり、隙間から突き出た頭蓋骨のてっぺんへ向けて、真上から垂直に振り下ろした。
――ガシャアッ!!
一・五キロの鋼の質量が重力を乗せて直撃し、頭蓋骨を一撃で真っ二つに叩き割った。
三体目からは、完全にコツを掴んだ。
相手の頭の位置に合わせて、最小限の力で急所(眼窩やこめかみ、首の付け根の関節)を牛刀で正確に貫く技術と、真上からナタの重さを落として頭蓋骨を粉砕する技術。
何度もゾンビの歯が俺の左腕に噛みついてきたが、料理雑誌と極厚アルミホイル、そしてダクトテープで固めた即席の籠手には傷一つ付かなかった。
そして十五体目――変わり果てた姿の副料理長ジャン=リュックの脳天に真上からナタを振り下ろした時、広大なレストランホールには完全な静寂が戻っていた。
「……ふうっ。いい解体修業になったぜ」
俺は荒い息を吐きながら、確かな手応えが残る自分の右手を握りしめた。
もう迷いはない。動いているアンデッド相手でも、どう刃を入れれば一撃で沈められるか、俺の料理人としての身体が完全に理解していた。
俺はシンクで牛刀とナタを綺麗に洗い、研ぎ棒で刃を蘇らせてから、ロッカーから黒の大型バックパックを取り出した。
これから船長室へ向かうにあたり、ガラス瓶に入った重たいオイル漬けや、塩漬けの生の肉塊などを持ち歩く意味はない。
戦場へ持っていくべきなのは、軽くて、いつでもその場で最高に美味い状態で食える『完成した料理』だけだ。
俺は密閉性の高い軽量タッパーとアルミホイルを使い、バックパックの中に俺の自信作を次々と詰め込んでいった。
一つ目は、ブロンズダイスのショートパスタにチェリートマト、オリーブ、角切りチーズ、自家製ツナを和えたレストラン仕様の『冷製パスタ(パスタ・フレッダ)』。
二つ目は、ハーブとニンニクでしっとりジューシーに焼き上げた『豚ロース肉のソテー(フェッティーネ・ディ・マイアーレ)』。
三つ目は、熱々を冷まして味が染み込んだ『茄子のパルミジャーナ』と、濃厚な『ラグーソースのポルペッテ(肉団子)』。
そして四つ目は、俺が焼いたばかりのパンに具材を挟んだ特製の『パニーニ』三つと、ソースを拭うための切り分けパンだ。
最後に、充電100%の新型ゲーム機と『純正の充電器』を防水パックに入れて一番安全な内ポケットにしまい、水筒をベルトに吊るして、俺はついに厨房のメイン隔壁扉を開放した。
通路のゾンビはすべてレストラン側へおびき寄せて処理していたため、階段は無人だった。
最上階のブリッジ(操舵室)へ続く踊り場で、物陰から飛び出してきた二体の感染者――女性客室乗務員と機関士――が立ち塞がったが、今の俺の敵ではなかった。
女の噛みつきを料理雑誌の左腕で受け止めてそのままこめかみに牛刀を突き入れ、隣から掴みかかってきた機関士の頭蓋骨には、振りかぶったナタを真上から垂直に叩き落として一撃で沈めた。
俺はそのまま、最上階にある『船長室兼ブリッジ』の防弾扉を押し開けた。
だが、室内に足を踏み入れた瞬間、俺は思わず顔をしかめた。
「……全滅かよ」
通信コンソールも、長距離無線機も、衛星電話も、初期のパニックで誰かが銃を乱射したらしく、弾痕だらけで黒焦げになって完全に破壊されていた。どのスイッチを押しても、うんともすんとも言わない。
俺は舌打ちしながら、壁際の非常用ロッカーをこじ開けた。
その中には、オレンジ色のプラスチックケースと、黒い革のホルスターが残されていた。
ケースを開けると、中から太い銃身を持つ『救難信号用の閃光弾ピストル(フレアガン)』と、空に撃ち上げて救助隊に居場所を知らせるための赤い信号弾が三発出てきた。
そして革のホルスターには、護身用の『小型ピストル』が一丁。マガジンを抜いて確認すると、弾は七発しか入っておらず、予備の弾薬箱はどこにもなかった。
俺はフレアガンをバックパックにしまい、小型ピストルを腰のベルトに差して、ブリッジの巨大な窓から外を見下ろした。
すぐ目の前の海には、黒煙を上げる小さな孤島『ブラックロック島』が浮かんでいる。
船長の双眼鏡を覗くと、島には小さな港のすぐそばに『宿屋』があり、その奥にいくつかの『商店』、白い壁の『病院』、そして四角い頑丈な建物の『警察署』があるのが見えた。
しかも幸運なことに、十一日前に急病人を運んできた現地の小型連絡船が、真下のCデッキのハッチにロープで繋がれたまま放置されている。
船の無線が死んでいる以上、選択肢は一つしかない。
あの島へ降りて、宿屋の電話か、警察署の非常用無線機を使って助けを呼び、空へ信号弾を撃ち上げるのだ。
「よし。豪華客船ステージはクリアだ」
俺は背中のバックパックのベルトを締め直し、不敵に笑った。
「次は『孤島ステージ』の攻略といこうじゃねえか」




