レオ姉の思い出
「音子さん!」
ドアベルが今日もカランコロンと軽快な音を立てる。
「おお。三番書記くん」
昨日と同じ景色の事務所。
「今日もずいぶんと勢いが良いじゃないか」
昨日と同じ服の音子さん。
「それにめずらしくランドセルも背負っている」
でも――昨日とは何かちがうわたし。
「何かあったのかい?」
あいさつもしないわたしの顔を音子さんがのぞきこむ。
「わたし、今日ね、久しぶりに学校に行ったの。わたしだっていつかは行かなきゃと思ってたし、知波ちゃんもいてくれるしだいじょうぶだと思ったの。でも――」
「でも?」
「あの目のことを考えるだけで、頭がぎゅってなって涙がぽろぽろってなって………。なんでこんなにも頭が痛いの?どうしてこんなにも涙が出るの?」
「そうさな」
音子さんはひざを折り、わたしと同じ目線になる。
いつもより近くなった距離に思わず音子さんのかたに顔をすりつける。音子さんのシャツはわたしの涙で色が変わってゆく。
「その理由を君は見つめ直す必要がある。どんなに悲しくても、どんなに辛くても」
音子さんが寄りそう反対側のほほも急に温かくなった。
羽毛布団にみたいなふわふわの毛。——きっと市蔵だ。
「君が泣き止むまで私と市蔵が君のとなりにいるよ」
放課後、慎司くんと知波ちゃんが事務所にやってきた。知波ちゃんは音子さんと話している。
慎司くんはふたりの会話に加わらず、わたしの向かいに座っていた。ティーカップに目線を落した慎司くんがわたしに問う。
「だいじょうぶか。」
わたしが音子さんに泣きついてから数時間は経った。だから慎司くんはわたしが泣いたことを知らないはずだ。
でも、そういえば、慎司くんってカンがいいんだっけ。だいじょうぶなフリをして、わたしは慎司くんに問い返す。
「——何が?」
「……そうか」
慎司くんはそう言って、わたしの方にお茶菓子を寄せた。わたしは慎司くんに顔が見られないよう、お菓子の包装紙を手のなかで持て余した。
わたしたちがしゃべらなくなったことで、音子さんと知波ちゃんの会話が聞こえてきた。
「それにしても二番書記くんのやり方は少々おてんばがすぎるなあ」
「でも知りたいことはこれでわかったでしょう?」
「——知波」
慎司くんの冷たい声が事務所にひびいた。
「………ごめんなさい」
「ちゃんと謝れるなら良い。ほら、和風にも」
「和風もごめんなさい」
「悪かった。オレらが知波に確認をたのんだから」
………確認?
「これは慎司センパイからのお願いなの」
昨日知波ちゃんが言っていたことばだ。
「確認て」
知波ちゃんはみやちゃんの部屋に1分もいなかったと思う。
それで何かわかったことがあっただろうか。いや、わかったからこそあんなに早く帰ったのだ。
「——何を?」
わたしは思わず慎司くんに聞いた。
「………」
慎司くんは口を閉ざしていて、答える気はなさそうだった。
そういえばよだかをつかまえるときも、慎司くんに何かを答えてもらえなかったことがあった。
――あの時も今も、なんで何も言ってくれないんだろう。
そうフシギに思っていると音子さんがわたしのとなりに座った。大人の重さが加わったソファーは沈み、わたしは音子さんの方にかたむく。
「三番書記くん、君がその心の苦しさの理由にたどり着いたとき、我々は君に決断をせまるだろう」
かたむきに導かれて寄りかかったわたしを音子さんはかたに受け止めて、そのまま頭を引き寄せた。
「けれど、冬が終われば春になるように、君はそれを乗りこえなければならない。」
カミをなでる音子さんの手はあたたかくて、優しくて、大きい。わたしは音子さんの手にすがるように目をつぶった。
「和風ちゃん?」
うたた寝から起きたわたしをレオ姉がやさしくゆり起こす。
今日はレオ姉のお家にお泊りする日だ。
とても楽しみにしてたのに、なんだが心が晴れない。それは学校に行けなかったことが理由じゃなくて
「レオ姉、レオ姉はわたしが乗りこえなきゃいけないことってわかる?」
この前音子さんに言われたことが頭をぐるぐるしているからだ。
音子さんは初めて会ったとき、わたしにまじめな顔で悩みを聞いた。
——そのときのわたしはどう答えたっけ?そもそもわたしの悩みってなんだろう。
その時のこと考えてたら、レオ姉がお風呂から帰ってくる前にいつの間にか眠ってしまったみたいだ。
「それってだれに言われたの?」
レオ姉がわたしの頭をなでる。音子さんとはまたちがうけど、レオ姉のゆりかごみたいな温かさにわたしはまたうとうとしてしまう。
「えっと」
起きたてのふわふわの頭でちゃんとお返事ができない。
わたしは何も言えずにレオ姉を見つめた。
「………私が初めてそういう場に行ったのは小学校2年生の時、だったかな」
わたしがうまくお話できないのがわかったのか、レオ姉が話し出す。
ゆっくりと、静かに。
「2学期に入ってからずっと入院してたクラスメイトがいてね」
――まるで大切なことを思い出すみたいに。
「当時はクラスメイトだった子が全員参列したから実感がなくて、和風ちゃんみたいに落ちこむみたいなことはなくてね、次の日もふつうに学校に行ってた」
ずっと入院している子。
「でもふとした時に思うの。机とかゲタ箱とかが片付けられていく時に」
モノが片付けられてしまう子。
「ああ、あの子はもう学校には来られないんだな、って」
もう学校に来られない子。
レオ姉が話すその子の思い出に、わたしの心がなぜか苦しくなる。
——どうしてだろう。レオ姉のお話のなかでしか知らない、会ったこともないその子。
でも、わたしの心はその子の存在をなぜかとても重くとらえている。
「レオ姉も悲しかった?」
レオ姉はわたしの質問にうなずいてまばたきをする。閉じられた目じりがきらりと光った。
「数か月しかいっしょにいなかった子にそう思うんだから、和風ちゃんはきっと、もっと――」
――わたしにもそういう子がいたんだろうか。ふと居なくなったことを悲しく思ってしまうような存在が。
「レオ姉」
だからレオ姉の話でこんなに胸が苦しくなるんだろうか。
「和風ちゃんは初めて会ったときからおとなしい子、というかオトナっぽい子だった。お姉ちゃんらしい、って言うのかな?」
今から五年前の春、わたしたちはいっしょの登校班になった。お家のなかで「お姉ちゃん」として育ったわたしにはレオ姉がいてくれることで人に甘えることを覚えた。
「でも」
わたしはレオ姉のほほに手を伸ばした。レオ姉はわたしの手を自分の手で包みこむ。
「レオ姉?」
レオ姉は登校のときにいつも手をつないでくれた。
お家ではみやちゃんの安全を守るためにわたしにはつながれない。だから、わたしが歩くとき、いつもひとりだった。
「こんなにはやく大人になってほしくないなあ」
そう言ってレオ姉がしゃべらなくなって、そのままわたしたちは見つめ合った。
しばらくするとレオ姉がいつもより明るい声で言う。
「今日はお母さんたちに特別に許可もらったから夜ふかししても良いって!何する?DVDはこの前見たもんね?ほかには、確か昔使ってたゲームとかはここに――」
そう言ってレオ姉が学習机の引き出しを開ける。その時、わたしの目がひかれたのはゲームではなくて
「ねえ、その本何?」
猫の事務所にあったのと同じ背の本だった。
「これ?私の学校の教科書だよ」
わたしが指差した本をレオ姉が引っぱり出してくれる。
レオ姉のお家に来てから大人しくしていたよだかもその本が気になるのか、本の周りをぐるぐる回っていた。
「何が書いてあるの?」
「教科書だからいろいろな人のお話が書いてあるけど、和風ちゃんが知ってるとしたら……」
うーん、とうなりながら目次をながめたレオ姉がページをめくり出す。そうして出てきたページにはつい最近見た作者
「宮沢賢治!」
の名前が書かれていた。
「宮沢賢治って『よだかの星』の作者だよね」
「そうだよ、よく知っててえらいね」
先生みたいな優しい口調でレオ姉が言う。
わたされた教科書には見たことのないタイトルが書かれていた。
「これってなんて読むの?」
「これはね、永訣の朝って読むんだよ」
「エイケツノアサ………」
聞いたことのないお話だ。
「それってどういうお話?」
「このお話はね」
「——君にぴったりの話だ」
急に思い出すあの日の音子さんのことば。
市蔵と初めて会った日、音子さんはわたしにそう言った。慎司くんが答えてくれなかった質問もたしかこれに関することだった。
宮沢賢治のお話がわたしにぴったりってどういうことだろう。結局いまだにその答えを教えてもらっていない。
レオ姉から永訣の朝のあらすじを聞き終わるまで、なぜだかその時の声が耳からずっと離れなかった。




