第4話 深層の静かなる怪物
現代世界に突如としてそびえ立った未知の構造物『巨塔』。人類に魔石という新エネルギーをもたらしたその大迷宮は、同時に『覚醒者』と呼ばれる超常の力を持つ者たちを生み出した。
探索者たちはその実力に応じて、最上位のS級から下位のF級まで、厳格なランク制度によって階級分けされている。上位になればなるほど莫大な富と名声を得ることができ、中でも『A級』と呼ばれる階級は、全探索者のほんの一握りしか到達できないエリート中のエリートだ。彼らは巨大ギルドの主力として優遇され、メディアで英雄としてもてはやされる存在である。
レオンもまた、二十二歳という若さでA級に昇格した天才剣士だった。
彼とそのパーティメンバーは、己の才能と輝かしい未来を微塵も疑っていなかった。自分たちなら、さらなる高みへ行ける。まだ見ぬ未踏破エリアのボスを討伐し、S級の領域にすら手が届くはずだ。そう信じて、巨塔の奥深くへと足を踏み入れた。
だが、それは致命的な慢心だった。
「……あ……、んあぁ……っ」
肺から絞り出されたのは、恐怖でひび割れた情けない呻き声だった。
薄暗く、濃密な瘴気が立ち込める空間。ここは巨塔の地下深く、『第20階層』――探索者たちの間で『深層』と恐れられる死の領域である。
足元には泥濘んだ毒沼が広がり、空気は肺を焼くほどに重い。下に降りれば降りるほど難易度が跳ね上がるダンジョンの構造上、この深層は、最新鋭の防具で固めたA級冒険者のパーティでさえ、一瞬の油断で全滅する魔境だったのだ。
レオンの視界は、己の頭部から流れる血で赤く染まっていた。
自慢の魔法剣は中ほどから無残にへし折られ、最高級のミスリルアーマーは紙切れのように引き裂かれている。
少し離れた毒沼の中では、パーティの要であった重装盾士がピクリとも動かず倒れ伏していた。後衛の回復術士はすでに魔力が底を突き、恐怖で泡を吹いて気絶している。
壊滅だった。文字通りの、手も足も出ない一方的な蹂躙。
レオンの絶望に満ちた視線の先で、地響きを立てながら『それ』がゆっくりと歩み寄ってくる。
身長四メートルを超える、漆黒の牛頭人身の怪物。『ディープ・ミノタウロス』。
深層の瘴気を吸い込んで変異したその怪物は、全身の筋肉が鋼のように隆起し、鼻からは高熱の毒霧を噴き出している。その手には、レオンの仲間たちを血の海に沈めた、見上げるほどに巨大な両刃の戦斧が握られていた。
(死ぬ……ここで、俺たちは死ぬのか……っ!)
エリートとしての誇りも、輝かしい未来の展望も、圧倒的な暴力の前では何の意味も持たなかった。
ディープ・ミノタウロスが血走った赤い瞳でレオンを見下ろし、天高く戦斧を振り上げる。死の恐怖に体が硬直して動けない。レオンは、ただ迫り来る処刑の刃を見つめ、絶望のままに目を閉じることしかできなかった。
その時だった。
「……おいおい、こんな所で派手に暴れんなよ。血抜きする前に食材が傷んじまうだろうが」
重く濁った深層の空気を切り裂くように、ひどく掠れた、だが妙によく通る男の声が響いた。
レオンが驚いて目を開けると、いつの間にかディープ・ミノタウロスのすぐ背後に、一人の大男が立っていたのだ。
(誰だ……!? 他のA級パーティか!?)
だが、レオンの目に映ったその男の姿は、深層という死地にあまりにも不釣り合いだった。
身長は百八十五センチは優にある巨躯。グレーに黒が混じった無造作な短髪に、無精髭を生やした顔。
何より異常なのは、その服装だ。最高級の鎧を着た自分たちが瞬殺されるこの魔境に、男は『よれよれのTシャツにスウェットズボン』という、まるで近所のコンビニにでも行くかのようなラフな格好で立っていたのだ。口元には火のついたタバコを咥え、細く紫煙を吐き出している。
防具はおろか、武器らしきものすら一切持っていない。ただの一般のオヤジが、散歩の途中で迷い込んだようにしか見えなかった。
「に、逃げろ、オッサン!! そいつは深層のバケモノだ!!」
レオンは咄嗟に喉が裂けるほどの声で叫んだ。自分が死ぬのは自業自得だが、武器も持たない無関係な人間まで巻き添えにするわけにはいかない。
レオンの叫びに気づいたのか、ディープ・ミノタウロスが標的を背後の大男に変え、地を揺るがすような咆哮を上げた。風を切り裂き、巨大な戦斧が男の頭上へと振り下ろされる。
直撃すれば、肉片すら残らない一撃。
しかし、タバコを咥えた大男は、逃げるどころか瞬き一つしなかった。
ただ面倒くさそうに右手を持ち上げ、その分厚い掌を無造作に突き出したのだ。
――ゴアァァァァンッッ!!
爆発が起きたかのような轟音が深層の空間に鳴り響いた。
レオンは己の目を疑った。
大男の『素手』が、数トンもの破壊力を持つはずのミノタウロスの戦斧を、ピタリと受け止めていたのだ。
激突の瞬間、大男の手のひらと斧の刃の間に、わずかな空間の歪みのようなものが見えた気がした。だが、それが何らかの魔法なのか、それとも物理的な防御の極致なのか、レオンの知識ではまったく理解が及ばなかった。
「グ、グォ……?」
怪物が、困惑したように低い唸り声を上げる。渾身の力を込めて斧を押し込もうとするが、大男の腕は万力で固定されたかのように、ただの一ミリたりとも後退していない。
「……脂の乗りは悪くねぇな」
大男は咥えタバコのまま、品定めをするようにミノタウロスの巨体を見上げた。
その時、大男のTシャツの袖から伸びる太い腕がレオンの目に留まった。
思わず息を呑む。男の腕には、無数の白濁した『傷跡』がびっしりと刻み込まれていたのだ。鋭利な刃物で肉の奥深くまで抉られた痕、広範囲を焼け焦げた痕。高位の治癒魔法やポーションですら消しきれなかった、何十、何百という『致命傷』の痕跡。
それが物語る事実は一つ。この男は、狂気としか呼べないほどの凄惨な死線を、幾度となく潜り抜けてきた本物のバケモノだということだ。
「よし、上玉だ」
男が低く呟いた瞬間、空気が変わった。
タバコを咥えたままの男の左手が、ブレたように見えた。
いや、動いたことすら、A級剣士であるレオンの動体視力では捉えられなかった。
ただ、男の左手が『手刀』の形を作り、空間を撫でるように滑らせただけ。
それだけで、ディープ・ミノタウロスの巨大な首が、音もなくスリップと滑り落ちた。
「なっ……!?」
レオンが驚愕の声を上げる間もなく、男の神速の手刀は宙を舞い続けた。
タタタタタタッ!! という微かな風切り音。
それは戦闘ではなく、極限まで洗練された『解体作業』だった。大男の手刀は、怪物の硬い皮膚や分厚い筋肉の繊維、骨の継ぎ目をミリ単位の狂いもなく見極め、細胞の隙間を縫うようにして切断していく。血の一滴すら飛沫させない、完璧で異常なまでの精密操作。
ドサリ、と音を立ててミノタウロスの巨体が崩れ落ちた時、男の腕の中には、最高級のリブロースにあたる部位だけが、美しく切り出された巨大な肉塊となって抱えられていた。
致死の毒を孕む内臓や、不要な部位はすべて綺麗に取り除かれている。
素手による、わずか数秒の解体劇。
「……」
レオンは、へたり込んだまま口をパクパクと開閉させることしかできなかった。
A級パーティを壊滅させた深層のボスが、武器すら持たないオヤジに、まるでスーパーで野菜を吟味されるかのようにして処理されたのだ。理解が追いつくはずもない。
大男は、抱えた巨大な肉塊の重さを確かめるように軽く持ち上げると、満足そうにタバコの煙をふっと吐き出した。
そして、呆然と尻餅をついているレオンたちを一瞥し、面倒くさそうに口を開いた。
「……ここは深層だ。遠足気分で来るところじゃねぇ。さっさと仲間連れて上に戻りな」
男はそれだけ言うと、振り返る。
「あ、あんたは……あんたは一体、何者なんだ……!?」
震える声で絞り出したレオンの問いかけに、大男は立ち止まることもなく、紫煙を夜闇の中へ溶かしながら答えた。
「ただの飯屋だ。……廃れた商店街のな」
大男は、巨大な肉塊をひょいと肩に担ぎ上げると、悠然とした足取りで深層の闇の中へと消えていった。足音一つ立てず、まるで近所の裏路地を散歩するような気軽さで。
後には、首を落とされたディープ・ミノタウロスの残骸と、ただ震えることしかできないA級冒険者たちだけが取り残されていた。
* * *
「……ふぅ」
巨塔から数駅離れた、社会の端っこにある廃れた商店街。
夜が明けきらぬ薄暗い時間帯、定食屋『お食事処 えんど』の厨房に、地下水路に繋がる隠し扉から宗谷が姿を現した。
巨塔の正規ゲートを通れば、面倒なギルドの検問や素材の申告手続きが待っている。そのため、宗谷はいつもこのスラムのような商店街の地下深くから、直接ダンジョンの深層へとアクセスし、新鮮な食材を調達して帰ってくるのだ。
宗谷は肩に担いでいたディープ・ミノタウロスの肉塊を、巨大な業務用冷蔵庫の中にドサリと放り込んだ。
温度を調整し、熟成させるための下準備を数分で終わらせる。素手で怪物を解体したというのに、彼の服には血の一滴も、泥の汚れすらも付着していない。
手を洗い、濡れたタオルで顔を拭うと、宗谷は新しいタバコを口にくわえた。
カチッ、とライターで火を点け、深く煙を吸い込む。
そして彼は、厨房の奥の棚に置かれている、一冊の古いレシピ帳の前に立った。
油跳ねで表紙が汚れ、角がすり減ったそのノートには、彼にとってこの世界で何よりも大切な味が書き残されている。
宗谷はレシピ帳の前に小皿を置き、そこに火のついたタバコを一本、そっと線香代わりに横たえた。
細く立ち昇る紫煙を見つめながら、宗谷はただ無言で手を合わせた。
その背中には、先ほど深層で怪物に見せた圧倒的な殺気や威圧感は欠片もない。ただの不器用で、孤独な男の静かな横顔があるだけだった。
「――あ、店主さん! おかえりなさい!」
背後から、パタパタという軽い足音と共に元気な声が聞こえた。
振り返ると、店の二階から降りてきたばかりのリリィが、眠そうな目をこすりながら立っていた。琥珀色のキツネの耳がピクピクと動き、鼻をくんくんと鳴らしている。
「わぁ……なんか、すっごくいいお肉の匂いがします! もしかして、今日の仕込みですか!?」
狐の尻尾をちぎれんばかりに振り回し、目をキラキラと輝かせるリリィ。昨日から押しかけ見習いとしてこの店に居着いた彼女は、すっかりここの生活に馴染むつもりらしい。
宗谷は供えていたタバコの横で、自身のタバコの灰を落とすと、深くため息をついた。
「……うるせぇ。賄いが食いたきゃ、さっさと表のシャッター開けて床を拭け」
「はいっ! お任せください!」
満面の笑みで雑巾とバケツを取りに向かう少女の後ろ姿を見送りながら、宗谷はもう一度だけ、棚の上の古いレシピ帳に視線を向けた。
「……少し、騒がしくなりそうだな」
誰に言うでもない独り言は、換気扇の回る厨房の音に静かに吸い込まれていった。
廃れた商店街の片隅で、新しい一日が始まろうとしていた。




