第1話
「今回は抜け出すのに結構、時間が掛かったね」
私に言っているのでしょうけど、彼女が差も当然のように言うので、すぐには理解できなかった。『抜け出すのに』っていうのは森の事だと分かります。確かに時間はかかりましたが『今回』とはどういう意味なのでしょうか。少し首を傾げて疲れ取っている深幸ちゃんに聞いてみました。
「知らなかったの? この混沌の森を抜け出せるのは森の気分次第なんだよ」
この世界の住人が普通に混沌の森と呼んでいて私は落胆しました。聞くところによると森が意図的に侵入者を迷わせているらしい。その原因も木々が動いているのか、幻覚を見せているのか、森に住んでいる者なのか、理由が分からないみたいです。
彼女はいつも木の上に乗って飛び次いで行くので、そんなに時間が掛からず脱出しているそうです。今回は私がいたから一緒に歩いてくれたみたい、付き合ってくれて助かりました。しかし、こんな事を言うのも何ですが時間の無駄使いをしているようにも思います。もしかしてこれは妖怪ならではの道楽なのでしょうか。
「事情を知らなかった人が入って一晩立っても出られなかった、っていう話もあるからね」
話を聞いて冷や汗が出ました、まさか『鬱陶しい』っていうのはこれの事ですか。鬱陶しいなんて言ってられませんよ、下手したら遭難してたかもしれないじゃないですか。森を通らないといけないのなら、事前に教えといて下さいよ。なんてところを案内してるんですか睦江さん。
「じゃあ、日が沈むまでに森を抜けられなかったらどうしてたの?」
「さあ、それこそ本当に置いて行ったかもしれないよ?」
私の反応を楽しむように、したり顔で言う深幸ちゃん。もしそうだとしたら、そのイタズラが一番堪えそうです。自分で言うのもなんですが、化け猫にも混沌の森にも化かされて私の苦労は絶えませんね。
「ほら、お姉ちゃん着いたよ」
徐々に人里の入り口へと近づいていたので分かってはいたが、騙されやすい自分のあり方に少し下を向いていたので、わざわざ声を掛けてくれた。
入り口から眺める人里は三途の川や混沌の森で受けた孤独感を一気に取り払ってくれた。人々の出入りが盛んで自分の切なさを忘れさせてくれるほどの明るい場所だった
「人がたくさんいる」
足を踏み入れると様々な店が広がっていた。そこには米問屋、肉屋、魚市場など食材を買い求める場所がいろいろある。見ているとお腹が空いてくるので、顔を背けると今度は料理店が目に飛び込んだ。割烹屋、お茶屋、甘味処まであり、匂いにつられて足が向いてしまいそうです。店主の挨拶や呼び込みの活気さも手伝い、心が踊っています。
無意識で自分の衣服をあちこち探ってみたところ、お金を一銭も持っていない事に気がついた。そもそも、この世界で金銭があるのでしょうか。何も持っていませんけど物々交換でなんとかなりませんか。
「なにしてるのお姉ちゃん、寺子屋こっちだよ」
空腹に我を忘れるとはこの事ですね。よそ見をしていた私を引っ張り、本来の目的の場所に連れて行ってくれました。
先程、深幸ちゃんが寺子屋と言っていましたが、察するに朔來先生は教師なのですね。なるほど、確かに頭がいい人を紹介してと聞いて思いつく職業ですね。
幾つか角を曲がり、この広いのか狭いのか分からない人里を案内してもらうと、本当になんでもあるように感じます。ここはさっきとは打って変わって、呉服屋、金物屋、古物商と日常生活に必要なものを揃えるお店が並んでいます。活気はそれほど無いが落ち着いた雰囲気で、店主とお客が談笑などをしている。
「あそこが寺子屋だよ」
深幸ちゃんは私に目的地を指差して教えてくれた。やはり寺子屋というだけあって大きな建物です。いままで見てきたお店とは格段に違います。まあ、ここで幾人の生徒が朔來先生の授業を聞くんだからそうですよね。
「深幸ちゃんはここの生徒なの?」
「う、うん、まあね。じゃあ深幸は帰るね」
「ちょっとまってください、私はその朔來先生の顔が分からないですけど」
たぶん扉開けて呼んだら出てくるよと言い残して、くるりと方向転換して帰ろうしている深幸ちゃんの手を掴んで呼び止める。どうしたのでしょうか今までとは様子が違います。せめて特徴だけでも教えてくださいよ、あと先生がいなかった場合は他に思い当たる場所とか聞きたいんですよ。寺子屋の前で私達がごたついていると声がした
「深幸さん、どうしたのですか? こんな時間に」
声のする方に目をやるとそこには、少し背が高くて茶色い長い髪の女性が十冊ほどの本を両手で抱えて立っていた。穏やかそうな感じがして、物腰柔らかく話すこの人が朔來先生なんでしょうか。
私の視線に気がついたのか、女性に話し掛けてくれました。こちらの顔を見てすぐに初対面だと理解したのか丁寧に自己紹介をしてくれた。
「申し遅れました、私はここで寺子屋をしております。加賀谷朔來と言います」
「あっ!初めまして私、朔來先生に聞きたいことがあってここに来ました」
正しい礼儀作法が分からないため、喋り終わった後にとりあえず大きくお辞儀をした。私の言葉を受けて朔來先生はこちらが恐縮してしまうほどの低姿勢で、寺子屋の中へ上がるよう促してくれました。そして、そのまま私達に笑顔を見せて話し続けた。
「あと深幸さんは少しお話しましょうか」
彼女は短く驚きの声が出した、そして肩に力が入ったのが見て取れる。もしかして朔來先生に緊張しているのかな。朔來先生が私達の目の前を通り過ぎ、寺子屋の扉を開けて中に入っていった。
それを見届けた後、深幸ちゃんが人差し指でちょいちょいと曲げて無言で私を呼び、耳に口を近づけ手を添えて小さな声で話し出した。
「今見ての通り、朔來先生って物凄く怖いから気をつけてね」
深幸ちゃんはそう言いますが私にはまったく怖く感じませんでした。それに気をつけるって何をどうすれば良いのか分からないままなのですが。これまで鬼と化け猫に会ってきた私に何が出来るのでしょうか。




