回想① ―目覚め―
≪人類歴119年≫
オムレットは目を覚ました。
それは、朝、陽の光に頬を撫でられておもむろに目を覚ます感覚とは異なり、むしろ一種の覚醒に近い現象だった。
目に飛び込んできたのは、淡い白色の光を放つ魔術聖火の灯り。
自分の寝具を天幕のように覆うベールには、魔術刻印が付与されていた。その刻印は脈打つように、無色から薄紫へと色を変え続けている。
それが何を意味するのかは分からなかった。けれど、嫌な空気であると直感が囁いていた。
周囲の気配に気づき、視線を泳がせると、ベールの向こうで男女の揉めている声が聞こえてくる。
「――大体ねぇ、どうしてよりにもよって、君みたいな不出来な人間が僕の助手なのか、理解できないんだけどね」
「…………」
白衣を着た、小太りの中年男性が苦言を呈した。
その足元には、そんな男の叱責にも動じず、水浸しになった床を拭う少女がいた。
「ぁぁ……!」
喉元から声を絞り出そうとするが、思うように言葉が出てこない。
喉の奥が焼けたように熱い。
おまけに、なぜかずぶ濡れの状態だった。状況から考えるに、眠っていた自分に水をぶちまけたのだろう。
少女はふと思いついたように、
「強いて言うなら……仕事がー……出来るからっすかね~?」
と、肩に掛かった黒髪の長髪をなびかせた。
「あのねぇ、誤操作で貴重な魔術具をダメにしたり、間違った薬を投与したり、平気で寝坊してきたりするような人間が、仕事できるわけないだろうがッッ!」
医者は頭を抱え、天を仰いだ。やり場のない怒りを必死に押し殺しているようだ。
対するタリアは、悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「いやぁ、すんません」
その謝罪に、反省の色は微塵も感じなかった。
一見すると、陰湿な医者にいびられる可哀そうな助手という構図だった。だが、どうやらそうではないらしい。
むしろ医者のほうこそ被害者なのかもしれない。
頬を伝う雫を舐め、乾いた口のわずかに潤すと、オムレットは再び「あ、あの……」と恐る恐る二人に声を掛けた。
この険悪な空間に、いい加減うんざりしたのだ。
「は!?」「え」
「?」
医者と助手はオムレットに気づくと、そろって動きを止めた。そして、彼女から目を離さないまま、じりじりと慎重に距離を取った。
それはまるで、目覚めたばかりの患者ではなく、檻から解き放たれた猛獣を前にしているかのようだった。
およそ医療従事者が患者に向ける態度ではない。
「ど、どういうことですかタリアくん……!」
患者が目覚めたのだ。
まずは手放しに喜ぶべきところだ。
医者は意外と冷静な助手に縋るように訊いた。
「知りませんよ。まあ……水をぶっかけたら誰だって起きると思いますけど」
そう言って医者を盾にしようと背後に回る、タリアと呼ばれていた少女。
「ここに赴任して十年だぞ……!? 水をぶっかけたくらいで目覚められたら僕の存在価値が無くなってしまうじゃないか!」
「ホントすんません、クビっすね……」
タリアは適当に合掌した。
「それで……自分はどうしてここに」
体を起こそうとすると、妙な感触にそれを阻まれる。
鉄が擦れ合う音の出所を辿ると、手足が鎖で繋がれて、ベッドに括り付けられていた。
「な、何だこれ」
どんなに強く引いても全く取れる様子もない。
ただの冗談ではなさそうだ。
「それは混乱した君が暴れ出さないように前もって付けられたものだよ」
答えたのは医者ではなく、平然としている助手だ。
「混乱?」
「そう、混乱。君は長い間眠っていたんだ。ちょうど、今年で十年になる」
「そんなにですか……。何かの病気ですか?」
医者が居るのだから、きっとここは治療院か何かだろう。
「ううん……。強いて言うなら、不慮の事故とでも言っておこうかな」
体を見回してみても特段、外傷らしきものは残っていない。
まずはその事実にホッと胸をなでおろす。
「そうですか……でも、良かったです。けれど十年を失ったのはショックですね」
十年とは、何日間だろう。何時間だろう。
その間、自分の時間はどれだけ止まってしまっていたのか。
想像すると恐ろしい。
「ん? そんなことないよ」
警戒を解いたタリアは、ベッドの側に置かれていた椅子に腰を下ろした。
「?」
オムレットが言葉の意図がわからずにいると、手鏡を取り出し、差し出してきた。
「……」
反射的にそれを受け取り、覗き込む。
「ん…………?」
そこには、見ず知らずの少女が映っていた。
黄金色に輝く伸びきった長髪。少し長い耳、鋭利な犬歯。そして、異質な深紅の瞳。
知らない顔だ。
少なくとも、彼女にはそう思えた。
試しに目を閉じると、鏡の中の少女も、目を閉じた。
首を傾ける。
少女もまた、同じように首を傾けた。
偶然ではない。
鏡の中にいるのは、自分自身なのだ。
――それなのに。
なぜ、こんなにも知らない人間に見えるのだろう。
「自分は…………誰だ?」




