オリエント
定時を過ぎた駅前の広場では、靴音とざわめきが響き合い、人々の往来が一層盛んになっていた。
帰路を急ぐ彼らの足を止めるのは、至難の業だろう。
その中で、一際声を張り上げる少女の姿が目に入った。
「お願いします! お願いします! お願いします!」
まだ年端もいかぬ人族の子だ。
弱冠十六歳にして、自分なりの価値感からで虹の輪の活動に参加している。
両親共に健在。裕福で何不自由ない生活を送っている。
そんな彼女がなぜ、虹の輪なんて社会のはぐれ者たちの集まりに参加したのかは、定かではない。
心を読めばすぐに分かる話だが、大事な活動仲間に魔法は使わないと決めているのだ。
『他人が何を考えているのか考える』
それを放棄しては目標の成就はない。
「ティリスは相変わらず元気だな」
オリエントは、自分が活動を始めた頃を思い出し、遠い目をした。
「あ、あの! 虹の輪です! 是非、私たちの活動を知ってください!」
差し出したビラを、誰も受け取ってくれない。それでもティリスは、次の通行人へと手を伸ばす。
「お願いします! 少しだけでも、目を通していただけませんか?」
声を張るほど、喉がひりついていく。足を止める者はいない。視線さえ向けてもらえない。
初々しさと一生懸命さが、危うさへと変わりつつあるのを感じた。
努力に対して、結果が伴わないことによる猛烈な焦りが魔法を使わずとも感じ取れた。
「……これは良くないな」
ティリスがビラを配る手が止まず、急ぐ会社員の行く手を阻んでいる。
「あっ」と小さな声を上げ、彼女はバランスを崩して冷たい地面に倒れこんだ。
ばら撒かれたビラは無情にも通行人に踏みつけられる。
「……チッ」
ティリスは初めて向けられた嫌悪の眼差しに硬直していた。
それも無理はない。
普段は温かな家庭で悪意に晒されることなく、幸せに暮らしているのだから。
常に嫌悪される魔族たちとは、住む世界が違う。
だからこそ、彼女が自ら泥の中に足を踏み入れたその無謀さを、オリエントは愛おしく、そして危ういと感じた。
「気を付けろよ」
会社員は相手が人族だと気づくと、不満げな表情を顔に塗ったまま、その場を足早に去って行った。
「ティリス、怪我はない?」
座り込んだまま動けずにいた少女に駆け寄る。
同じ目線に立ち、ティリスの手を取った。
「……お、オリエント様……申し訳ございません……私……」
ティリスの瞳が震え、唇を引き結んだ。
「怖かったね。温かい物でも飲もうか」
「是非っ!」
教祖直々の提案にティリスは目を輝かせている。
教祖という立場を利用することに、少しばかり後ろめたさはある。けれど、彼女が立ち直るきっかけになるのなら、それも悪くない。
「手伝うよ」
「いけません! オリエント様のお召し物が汚れてしまいます」
「大丈夫だよ。まだ替えはあるようだし」
チラリとメガネの男に目を移すと、不服そうに替えの衣装をチラつかせてきた。
つまり問題はないということだ。
「大丈夫です! すぐに拾っちゃいますから!」
ティリスは仕事を奪われまいと、羽が生えたように軽快にビラをかき集めた。
すぐに散らばったビラは回収されていき、残すところ五枚、四枚、三枚、二枚――
あと一枚。
しかしティリスが最後の一枚を拾い上げようとした時だ。
「イッ……!」
伸ばした手の甲に、無遠慮な靴底が食い込んだ。
男は「おっと失礼」と、わざとらしい反応を示すも、高級な革靴の底がティリスの指を、なおも蹂躙するように、じりじりと体重を乗せてくる。
趣味の悪い高級志向の黒いコートに身を包み、ハットを被った横長の髭を生やした中年の男だ。
人は見かけによらないと言うが、それは本当だろうか。
この男は、まさに見た目どおりの男ではないか。
「痛い……!」
ティリスは苦悶の表情を浮かべ、身をよじる。
「まさか下劣にも地を這いつくばるような野蛮な民族がいるかと思えば、くだらない思想を振りまく社会のゴミたちじゃないか。道理で気が付かなかったわけだ。ゴミだから」
およそ日常生活を送っていて浴びせられるような罵倒ではない。
思わずティリスは涙を浮かべた。
痛いのはもちろんのこと、それ以上にこの騒ぎの渦中に仲間を巻き込んでしまったことを悔いているようだ。
「……すまないが、足をどけてもらっても?」
オリエントは友好的な姿勢を示し、愉悦に歪んだ顔をぶら下げた中年男性を見上げた。
先程まで彼女の演説に聞く耳を持たなかった通行人も、魔族が面白おかしく弄ばれている様子は是非見物したいと足を止め、いつしか人だかりが出来ていた。
「はぁ~? 地面に落ちているゴミを踏んで何故いけないんだぁ~? 教祖様ぁ~?」
男は観衆の前で堂々と魔族に喧嘩を吹っ掛ける。
そんな自分に酔いしれているのか、大袈裟に両手を広げ疑問を周りの観衆にまで投げかけた。
「冗談がお上手なようだ。大事な革靴が汚れてしまっては大変だと思うのだが」
「本来は汚らわしいゴミ共の皮脂が張り付いた靴なんざ、履けたものではない! 弁償してもらいたいくらいだね!」
男は嗤った。周囲の視線を集め、己の優位を確信したように。
オリエントは、しばらく男の顔を見つめていた。
それから、静かに口を開く。
「――いいから。私は退けろと言っているんだ」
刹那――世界から音が消えた。
中年男性も、ティリスも、野次馬も、空気でさえ凍り付いたように静止する。
それは精神的な恐怖によるものではない。
生物としての本能が根源的恐怖を理解させる。
オリエントの深紅に染まった『赫眼』が、ただ静かに中年男性に向けられていた。
「……ッ!」
まるで草食動物が猛獣を前にしたように、男は反射的に飛び退いた。
赫眼とは膨大な魔力の根源――
勇者ロドニスが宿していたとされる、特異な瞳。そこには膨大な魔力が宿っている。
普段は魔力制御を行い、その影響を最小限に抑えているが、いざその枷が外されれば目が合っただけで相手を屈服させるだけの絶大なプレッシャーを放つ力がある。
「え、あ…………」
男は言葉も出ない。
両手を上げ、猛獣を刺激しないように身構えたまま、ゆっくりと後ずさっていく。
「謝罪はいらない。すぐに去れ」
告げると、中年男性は踵を返してこの場を全速力で走り去った。
ご自慢の革靴が片方脱げていることに気が付かない程、それは見事な逃げっぷりだった。
男が逃げたことで舞台は終幕を迎え、観衆も少しずつこの場から解散していく。
ぎこちなく歩く観衆の姿は、ティリスには酷く滑稽に映った。
「痛む?」
オリエントは地面にぐったりと座り込んだままでいた彼女の手を再び取る。
靴底が押し当てられていた場所は赤く爛れていた。
「あ、ありがとうございます。オリエント様が私のような新参者に……」
「新人とか関係ないよ。今日は切り上げて治療しよう。今すぐ治してあげたいところだけど生憎、私は治癒魔法がてんでダメだからね。教会に戻るまでの辛抱だ」
現代において魔法の使用は原則禁止とされている。
平和な世界に魔法のような危険な技術は不要。
争いを生む火種にしかなりえないのだ。
治癒魔法も禁止項目の一つであり、本来公衆の面前で言葉にするのも憚られる。
彼女の手を取って立ち上がらせると、近くでビラを配っていた仲間たちが駆け寄ってきた。
「だ、大丈夫ですか……」
気まずそうに亜人種の夫婦がこちらの顔色を伺いながら尋ねてきた。
渦中に飛び込んでくる勇気がなかった自身を悔いているのだろう。
そんなことを出来る人間なんてほとんどいないことをオリエントは知っている。
だから全く腹を立ててはいなかった。
「今日の活動は終わりにしよう。他の皆にも撤収するよう伝えてくれ」
「は、はい……あの……すみませんでした」
主人が深々と頭を下げると遅れて夫人も頭を下げた。
「気にすることはない」
謝罪の意図は概ね理解しているつもりだ。
「…………見ていたのに、僕らは何もしませんでした」
出来なかったのではなく、しなかったと彼は表現した。
変にプライドがある者は保身に走って『出来なかった』と言う。
自分たちの非力さを認め、助けに行けなかった自分たちを悔いている。
「そうか」
変に励ますのはかえって彼らの勇気を無下にすることになる。
それからオリエントは言葉を続けた。
「自分の身を一番に考えるのは悪ではないよ」
うつむいた二人の顔へ順番に視線を配り、
「――でもまあ、私の目が行き届かないところで同じような場に遭遇したら、みんなでフォローし合ってもらえると私も安心して活動に打ち込めるかな」
責める必要はない。だからと言って、慰める必要もない。
ただ、次に何ができるかを伝える言葉だった。
信者たちの肩をそれぞれ軽く叩き、オリエントは独り歩き出した。
「オリエント様……! どちらへ」
「今日は酒だ酒。みんないつもの店に集合」
「は、はい……!」
水を得た魚の如く、信者たちの瞳に活気が戻った。
「はぁー……今日は冷えるな」
白い吐息が薄暮の空に消えていく。
鮮やかに輝く髪色と同じ夕焼けを眺めながら、オリエントは小さく呟いた。
この美しい景色を眺めることは、誰しもに与えられた当然の権利であるべきだ。
悲願を成就させるため、オリエントは改めて決意を固めた。
***
それから四年後――人類歴110年。
ガナリア帝国領内で開かれた政治討論会に招待されたオリエントは、自らが創設した宗教団体『虹の輪』の信者たちを精神干渉系魔法により洗脳。
政府高官を狙った自爆テロを起こした。
数千人の死傷者を出した戦後最悪の事件は、後に『血の討論会』と呼ばれるようになり、今も人々の心に禍根を残す形となった。
彼女は町内の商業施設で包囲され、治安当局による銃撃に遭い、命を落とした。
――はずだった。




