平和な世界とは
勇者ロドニスは言ったそうだ。
隔たりのない平和な世界を築こうと。
しかし――その夢は、夢のままで終わった。
魔力という先天的な格差を排除したとしても、人々の本質は何も変わらなかったのだから。
***
人類歴106年
「我々は魔力廃絶主義を推し進める大陸魔法協会の政策に断固として反対する!」
オリエントの言葉には、人々を惹きつけるだけの覚悟が宿っていた。
高く澄んだ空に、夕刻の陽が傾いていた。駅のロータリーを茜色に包み込み、行き交う人々の吐息が白くほどけていく。
厚手のコートを着込んだ会社員たちは、ハットを押さえながら足早に駅を離れていく。
その流れに逆らうように、ビラを配る者たちがいた。
誰もが家路を急ぐ夕暮れの中で、彼らだけが、通り過ぎる人々に声を張り上げていた。
豊穣の大地を思わせる美しいブロンドの髪を束ね、真紅のコートをまとった彼女。その姿に、思わず足を止める者も少なくなかった。
けれど、その深紅に染まった瞳を見ると、ばつが悪そうに皆、その場を足早に去っていった。
オリエントは≪虹の輪≫と呼ばれる宗教団体の開祖だ。
全ての種族が差別なく暮らす社会の実現を目標に、仲間たちと改革派の思想を広める活動を行っている。
「政府が行っているのは意図的な意識の誘導で――」
オリエントは不意に演説を区切った。
肩にべっちゃりと冷たい感触が広がったからだ。
視線を落とすと、深紅のコートに白いソフトクリームが張り付いていた。
「あちゃー……これは怒られるぞ、ワタシが」
肩にべったりと付着したソフトクリームは、溶けてコーンごと地面に滑り落ちる。
会社員らしき男は、こちらを一瞥しただけで観衆の中へ紛れていった。
こんな寒い夕暮れに、わざわざソフトクリームを買って投げつけてくる。そんな行為に、軽蔑も怒りも湧かず、オリエントはその背中を見送ると、小さく肩をすくめた。
「代表……! 大丈夫ですか!」
近くでビラを配っていた側近の男が血相を変えて駆け寄ってくる。
「ありがとう、問題ないよ。ちょうど甘味が食べたかったところだし」
肩に付いたアイスを指先ですくい、ひと舐め。
バニラ味だ。
「はぁー……そんな物、食べてはいけません。やっぱり、魔法を使わないのは考え直した方がいいですよ」
他人の心を汲み取る魔法。
相手の意思が向かう先を直感的に察知するその魔法は、詠唱を必要としないオリエント独自の能力だ。
常時発動させておくことで、危険をいち早く察知し、身を守ることができる。
オリエントはその魔法をあえて使わない。
魔力廃絶主義を推す民衆と対等な立場で向き合うためだ。
「君は大袈裟すぎる。……でも、ミント味だったらワタシも怒っていたかもしれないな」
オリエントは「ハハハッ」と乾いた笑いを漏らし、話を煙に巻いた。
「飛んできたのがナイフなら怪我をしていましたよ。毒が入っている可能性だってあるんですから、軽率な行動は控えてください。貴女はもう独りじゃないんです」
側近の男はご自慢の丸眼鏡を正しながら、もっともな忠告を口にした。
「はいはい気を付けまーす」
それほど自分がやわでないことは知っている。
髪をかき上げると、少し尖った耳がのぞいた。
小さく微笑むと鋭い犬歯が光る。
これは≪魔族≫特有のものだ。
この世界には数多の種族が混在する。
その中でも魔族は永久に近い時を生きる不老の種族だ。
病気にかかりにくく、傷も癒えやすい。さらに、他種族を上回る豊富な魔力を備えている。
長い時を生きてきたオリエントとって、他の種族は赤子とさほど変わらない。
(……まあ、その赤子に面倒みられているワタシが言えたことじゃないか)
そんなことを考えてまた苦笑した。
「とにかくコートを早く取り替えてください。替えはあと二着ですので、そのおつもりで」
側近の男は釘を刺すように言い、どこからか新しい紅色のコートを取り出した。
「すまないね。いつも当てにしているよ」
「しないでください。クリーニング代も馬鹿になりませんから。それと――」
「あー、はいはい分かったよ。気を付ける。次からちゃんと避けるよ」
あの場では、あえて避けない方が親近感を持ってもらえる思ったのだが、判断を誤ったらしい。
オリエントは彼の言葉を遮り、手早くコートを交換した。
(当てにしてるのは君なのにな……)
口には出さず、男の丸眼鏡を指先でちょいっとわざとズラしてやる。
それから、悪戯っ子のように笑って歩き出した。




