赫眼
鮮血をまき散らしながら、腕が宙を舞う。
ちょうど彼らのすぐそばに、ボトリと音を立てて落ちた。
「は……?」
全員の視線が腕に向けられた後、ゆっくりと視線を上げると、頭から血を被ったオムレットが立っていた。
「え、はぁ? ……お前、目隠しの――」
セリシウス監獄の囚人であれば知らぬ者はいない。
気味が悪いからと設けられた不可侵の暗黙の了解。
その囚人が、返り血を浴びたような姿で自分たちの前に立っている。
混乱するのも致し方あるまい。
「――お前ら、ダサいことやってたんじゃねぇーよ」
オムレットは、頭上で抱えていた囚人の腕を絞り、血を浴びたのだ。
実力不足。
魔力不足。
知識不足。
今この場で彼らに優る部分は何一つない。
であれば、残っているのは嘘だけだ。
精一杯のはったり。
それが、オムレットの導き出した彼らを退散させる唯一の作戦だった。
「な……何してるんだコイツ!」
明らかに動揺する人族のエリック。
「兄貴、コイツ普通じゃねぇーよ……」
獣族のサムエルは二人に気づかれないよう、さり気なく背後に半歩下がった。
「止まりなさい目隠し。自分が何をしているのか分かっているのですか……!」
魚人族のギルは制止するよう手をこちらに突き出した。
「――俺はもう、こんな豚箱には飽き飽きなんだわ。一人ずつ血祭りにしてるとこ。丁度いいところにお前たちが居て助かったよ。ありがとう」
オムレットは返り血(腕から絞った鮮血)が滴る人差し指を彼らに向けた。
出来る限り気が狂った囚人のように、頬に飛び散った血を舌で舐めとったりもしてみた。
「クソ……! ずらかれ! あの監査官が鎮圧するまで逃げきるぞ!」
エリックの号令を合図に他の二名の囚人も含め、オムレットとは反対の方向に向かって走り出した。
その際、愛人に勧誘されていた亜人族の少女を、囮にするようにこちらへ突き飛ばした。
オムレットにとっては、好都合の展開だ。
「おいお前、大丈夫か?」
地面に倒れ込んだ亜人族の少女に手を差し伸べる。
その手はもちろん血がベッタリと付いている。
「ひっ! ひぃぃぃぃぃぃぃ! こ、こっちに来るな!」
明らかにオムレットを警戒しているようだ。
最大限の愛想笑いを浮かべて、
「大丈夫。俺は味方だ」
と胸元で小さく両手を振った。
「来るなあぁぁぁぁぁぁ!」
亜人族の少女が、腰を抜かして四つん這いになったまま逃げていく。
ひとまず、あの三人から引き離すことはできたらしい。
オムレットは小さく息を吐き、三人組が逃げた方向を確かめようと視線を向けた。
「ッ……!」
気づいたときには、火球が目と鼻の先に迫っていた――
回避する暇も、声を出す刹那の間も無いうちに、火球が顔面に直撃し、目隠しが燃え上がった――
「あッ! 熱ッ!」
オムレットは咄嗟に、燃える目隠しを引き千切った。
本来であれば魔術刻印の効力によって、引き千切ることはおろか、彼女の手でずらすこすら許されない強固な独自結界を構築していたのだが。
物理的にその結界が焼き切れた。
朝露を吸い、僅かに湿り気を帯びた芝生に顔を埋める。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
苦悶の表情を浮かべ、顔面のひりつく痛みに耐えながら、何が起こったのか、思考を巡らせた。
それと同時に途切れていた魔力感知を中庭全体に再展開させた。
犯人は言わずもがな、あの三人組だった。
(おかしい……! これだけの火球を放てるだけの魔力なんて残ってなかったはずなのに!)
オムレットは三人の魔力を再確認した。
普通なら、火球を放ったエリックの魔力だけが尽きるはずだ。そもそも、先ほど感知したエリックの魔力残量では、あの威力の火球を発生させることすら難しかった。
それなのに、三人全員が同時に魔力切れを起こしている。
命を削らない限り、あの威力の魔法を放つことは不可能だ。
逃げ切れる場面でわざわざそんな賭けに出るだろうか?
ではなぜ、三人の魔力が同時に枯渇して――
(そうか……だから三人なのか――小賢しいやり方もあったもんだ)
真相に気づいたオムレットは己の未熟さに苛立ち、握った拳を地面に叩きつけた。
他二人の魔力を撃ち手であるエリックの手のひらに集約させたのだ。
かき集められた魔力は歪で、本来は使い物にもならないグチャグチャな魔力構造をしていただろうが、低位の火炎系魔法を、油断したオムレットに直撃させるという一点においては、申し分ない性能を発揮した。
魔法という技術が衰退しつつある現代において、他者の魔力を強引に集約させる発想なんて、オムレットには思いつきもしなかった。
彼らを甘く見ていた。オムレットは自分の頬をぐっとつねった。
(さて困ったぞオムレット)
彼らは逃げるよりも戦うことを選んだ。
実に野蛮な彼ららしい発想だ。
次弾は無いにしても、攻撃がオムレットに有効であることを示してしまった。
錯乱した囚人の猿真似はもう通用しないだろう。
「ん……?」
視界に広がる光景があまりにも眩しく、鮮明で、目隠しが外れたことに気が付いた。
あの時。三人組が放った火球が目隠しに刻まれた魔術刻印を焼き切ったのだ。
おかげで実に一年ぶりに肉眼で世界を見ている。
しかも、白い何も無い部屋とは、わけが違う。
痩せた中庭の土。
それでも生きる芝生。
土で汚れた手のひら。
すべての情報が鮮烈に、オムレットの脳を焼き焦がしていく。
「なんだ、思ったより大したことねぇーじゃねぇーか」
獣族のサムエルが先陣を切って、彼女の前に立った。
「綺麗だ」
オムレットは頭上を仰いだ。
中庭の壁が額縁のように青い空を切り取り、空が一枚の絵のように映った。白い雲がその向こうをゆっくりと流れていく。
吹き込む風は冷たい。それなのに、頬を撫でる感触は心地よかった。
これまで魔力感知と肌の感触で捉えていた世界が、途端に色づいていく。
まるで、オムレットに意味を与えてくれているように。
ただそこにあるだけのものが、今はどうしようもなく鮮やかだった。
両手を大きく広げ、全身で世界を味わった。
このとてつもない多幸感が永遠に続くかと思われたが、その夢はオムレットの耳をつんざく悲鳴によって、現実に引き戻される――
「――オ……オリ……エント……ッ!」
生物なら誰でも感じる根源的恐怖。
背筋が凍るような強烈な波動に彼らは体を震わせ、へたり込んだ。
彼らの視線の先には、オムレットの深紅に染まった瞳――赫眼が映っていた。




