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日々と予感と紙飛行機。上

⚠以降、本章は地震・火災等の自然災害を取り扱います

 ビリビリと音を立てて八月の暦が引き剥がされ、真新しい九月の頁が姿を現す。雷蔵は昨日で不要となった紙を丁寧に折りたたみ、屑籠へ放った。視線を落とし、布団の中で丸くなって眠る波留日の枕元へ、何時ぞや貰った薬湯を煎じた湯呑みを置く。そして物音を立てないように文机に向かうと、ひたすらにペンを動かした。


 紙とペン先が擦れ合う音と、雷蔵の息遣いが部屋の中に響く。九月に入ったというのに、その暑さは留まることを知らない。朝方にも関わらず首筋に伝う汗を、雷蔵は文字を綴る合間に袖口で拭った。


「おはよう、……雷蔵」


 身を起こした波留日が、噛み締めるように朝の挨拶をする。雷蔵は振り向いて微笑むと、薬湯の湯呑みへ手を伸ばして波留日に手渡した。


「おはよう波留日。ほら、飲め」


「ありがとう、」


 波留日は少し湯気の立ち上る、植物臭いそれをこくこくと飲み下す。空になった湯呑みを両手で包み込み、波留日は窓に切り取られた青空を見上げた。足のない入道雲がぽっかりと空に浮かんでいる。


「波留日、昨日の夜からこの章を書いてみたんだが……どうだ」


 雷蔵は徹夜で書き上げたらしい原稿の束を手に、波留日の枕元に腰を下ろした。半身を起こした波留日は、膝の上にそれを置いて丁寧に頁を捲る。


「……うん。最高だ。この物語も終盤だね。よく書けているよ」


 波留日は頷いて、そっと原稿の紙面を撫でた。雷蔵は少し気恥ずかしそうに鼻を鳴らす。


「雷蔵が元来持っている繊細さや優しさ、物を書くことへの執着や魂に、技術がちゃんと追いついている」


 波留日は愛しそうに目を細め、原稿を雷蔵に渡した。そうして上がった面の丸い頬は、満ち足りたように桃色に染まっている。波留日は原稿を受け取る雷蔵の手を取り、そっと包み込んだ。


「君の成長が見れて、僕は本当に嬉しいよ」


 普段通りの褒め言葉である筈なのに、波留日の柔らかい声音を耳にした雷蔵の心がざわりと騒ぐ。形容しがたい胸騒ぎに唇を噛んだ雷蔵は、己の着物の胸元を掴んで顔を上げた。


「なぁ波留日……」


「おーい雷蔵ー! 手伝ってくれ!」


 口を開いた途端、階下から陣佐の呼ぶ声が響く。つくづく機会に恵まれない。柄にもなく雷蔵は眉間に皺を寄せた。波留日は包み込んでいた雷蔵の手をゆっくりと放して頷く。


「陣佐の手伝いへ行っておいで、雷蔵」


 その表情は柔らかく微笑んでいるが、細められた目から覗く目は鋭く、有無を言わさぬような気迫があった。


「……はい。 陣さん、今行きます!」


 それに負けた雷蔵は、波留日の願いを受け入れて立ち上がり、階下へと歩いていく。トントン、ギシギシと古い床板が軋んだ。


 一人部屋に残った波留日は、床を張って雷蔵の文机に向かう。書き損じた原稿用紙を掴み、歌を口ずさみながら折り紙遊びを始めた。


「咲いた花なら……散るのは……」



***



 階下へ降りた雷蔵を待っていたのは、忙しなく紙や荷物を持って動き回る陣佐や、文机に向かってヒィヒィ言っている新聞部の若手達だった。雷蔵を見つけた陣佐は、パッと手を上げて苦笑いをする。


「悪いな、新聞の方の手が足りなくてな。……コイツら色々サボりやがって」


 陣佐が睨む先には、記事の原稿に向かって嘆く若手達が頬を膨らませていた。互いに互いを指差し合い、この始末になった原因を擦り付け合う。


「コイツがこの前波留ちゃんの御遣いの後、勝手に寄り道したのが悪いんです!」


「煩いなぁ、いいじゃないか息抜きくらいしたって! お前だって一昨日の夜酔い潰れていた癖に!」


「っだー煩い! お前らがどうとか知らねぇよ! さっさと書け大馬鹿モンが!」


 陣佐が床に大荷物を勢いよく下ろして大声を上げた。その気迫に青年達は飛び上がって原稿用紙に齧りつく。荷物の一つを持ち上げた雷蔵に「悪いな」と声を掛けつつ、陣佐は険しい表情で耳打ちをした。


「……波留日の調子はどうだ」


「……いつも通りです。薬湯はちゃんと飲んでくれたし、原稿も進んで読むし。……でも、何だか今日は、」


 雷蔵は先程の胸騒ぎを思い出して言い淀む。しかしすぐに首を横に振った。


「……いや、何でも無いです」


 陣佐は雷蔵の態度に怪訝な顔をしつつ、「そうか」と小さく返事をして荷物を抱え直す。二人の内心には、最近の波留日に対する漠然とした不安が横たわっていた。しかし互いに口に出すと何かが変わってしまいそうな気がして動けずにいる。


「もしもし皆さん、お昼は昨日の煮物でいいかしら? 温め直すわね」


 台所で米を炊きながら、ヒサが大きな声を上げて呼びかけた。気付けばもう昼餉が近い時間になってきているではないか。陣佐はヒサに返事をしつつ、新聞記事を纏める若手らに喝を入れて荷物を持ち上げた。



***



 所変わって陸軍の駐屯地。演習場では強い風の中、走り込みをする兵たちを統率する官兵衛と勇次郎の姿があった。残暑険しい日差しの元、顎の上がる兵たちに官兵衛が喝を入れる。


「今日から九月だ! 心機一転、引き続き訓練に邁進しろ!」


 直立不動、鋭い目線を向ける官兵衛の隣では、勇次郎が呑気に欠伸をした後、ニヤニヤと口角を上げた。


「元気だねェ。今日は土曜日だから午後は休日。だから午前中に一通りやってしまおうという魂胆か」


「当然だ。やるべきことはやらねばなるまい。このように日頃から訓練をしなければ、有事の際に我が国や市民を守れぬではないか」


 好奇の目に呆れ顔を返し、官兵衛は面倒臭そうにため息をつく。しかし勇次郎はその視線など痛くも痒くもないと言わんばかりに揶揄うのをやめない。官兵衛の周りをクルクルと回り、クスクスと笑う。


「だが、今日は奥方と出掛ける予定があったりして?」


「……それを何故貴様に言わねばならん。まぁ……書店に行く約束は取りつけてあるが」


 肘を突いてちょっかいを掛ける勇次郎に耐えかね、官兵衛は渋々と言った風に口を開いた。そうすれば勇次郎は手を叩き、カラカラと騒がしい笑い声を上げる。


「ははは、やっぱりだ。あの官兵衛殿が、まさかこんな愛妻家になるとはねぇ」


「煩い。お前も身を固めたらどうだ。……自分を思い、思われ、道を外そうとしたら引き留めてくれる。帰る場所を作ってくれる人がいるというのは、案外、悪くない」


 官兵衛は照れくさそうに鼻をすすり、それを取り繕うように背筋を伸ばして勇次郎を見下ろした。勇次郎は眉を下げて首をかしげると、頭の後ろで手を組んで天を仰ぐ。足のない入道雲が、青い空に浮かんでいた。


「何だか重いなぁ。俺にそんな度胸はねぇよ。ということで、もう少し遊ぶことにするぜ」


 相も変わらずの軍人にあるまじき軽率さを前に、官兵衛は溜息をついて走る兵たちへ視線を戻す。上官が話しているのをいいことに、隙あらば休もうとする兵へ喝を入れた。張りのある声が響き渡る。その隣で、勇次郎が手を口元へ添えた。


「そこ! 弛んでいるぞ! そんな有様で我が国を守れると思っているのか!」


「ほーら、もう少しで今日の任務は終わりだぞー。精進精進!」


 太陽が真上へ昇っていく。今日は清々しいほどの快晴だ。

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