悲願と記憶と伸ばした手。
復興を遂げた帝都、東京。
そのある秋の夜。煌びやかなシャンデリアが燦然と輝く西洋建築の社交場にて。眩い光に照らされた壇上へ、紋付き袴を纏い、凛とした佇まいの桑原慶治が上った。段下を埋め尽くした観衆から、耳を劈くような拍手の渦が巻き起こる。
やがて潮が引くように静寂が訪れると、桑原は懐から奉書紙を取り出して朗々とした声を響かせた。
「……数年前、小生達は大きな喪失を経験した。多くの同胞達の命が奪われ、筆を折られ、積み上げてきた文化が灰燼に帰した」
しんと静まり返る空間に、穏やかな桑原の声音だけが波紋のように渡っていく。
「それでも、小生達は進まねばならぬ。継いできたものを途切れさせるわけにはいかぬ。……この池田川朔時賞の端緒も、そういった覚悟であったと思い出すのである」
桑原はそこで一つ、言葉を置くように息をついた。
「言葉は死なぬ。我々の創作や文学への熱、魂は消えぬ。……そういった想いを込めて、今期池田川朔時賞の受賞者を発表する」
観衆をゆっくりと見渡していた桑原の鋭い視線が、ある一点、窓際の円卓に座る、眼鏡を掛けた洋装の細身な男に収束する。
「達川雷蔵、さぁ、此方へ」
刹那、歓声と拍手が地鳴りのようにどよめいた。雷蔵は隣に座っていた陣佐に力強く肩を叩かれながらすっくと立ち上がり、促されるまま壇上へと歩みを進める。その足取りには、死を意識して街を彷徨う、白昼の幽霊のような危うさは微塵もない。
「優しくて、繊細で、どこまでも静か。達川殿の紡ぐ美しい物語は、喪失を少なからず経験した者達にそっと寄り添う。今の世相に求められているのは、必要なのは、こうした慈愛を持った作品であると小生ら審査員は確信した次第。其方の優しさに満ちた筆致と、積み上げられてきたであろう苦節や努力、そしてそれを遺憾なく発揮し読者を揺さぶる実力を称える」
そう言って桑原は副賞の重厚な硯を差し出す。それを受け取った雷蔵の手。右手は赤く皮膚が爛れて強張り、対照的に雪のように白い左手の中指には大きなペンだこができていた。
「言葉を」
桑原に促され、雷蔵はぎこちなく観衆へと向き直る。壇を照らす強烈な光に目を瞬かせながら、ゆっくりと、しかし確かに芯のある声で口を開いた。
「……先ず、このような文学界を代表する池田川朔時賞を頂けましたこと、誠に光栄に存じます」
雷蔵は、円卓に座る陣佐や鎌田へと目配せをして、ふっと頬を緩める。
「此処まで来るのに、随分と波乱万丈な経験をしてきました。一時は命を絶とうと思ったことも、喪ったものの大きさに絶望したこともありました。……それでも書き続けようと思えたのは、私を信じ、寄り添ってくれた人々、とりわけ、我が師の存在があったからでした。書くことで始まったあの縁の恩を返せるのは、やはり書くことしかありませんから」
雷蔵は賞品の重みを噛み締めるように、手に力を込めた。
「自己の存在証明という、酷く内面的な動機から始まった私の作家人生を、誰かの為に、人々と繋がる為にと広げ、前へ向かせてくれた師に、この賞は捧げたいと思います。私はこの先も、自らの魂を未来へ繋ぐために書き続ける所存です。どうか皆様、不甲斐なさが拭えない私ですが、今後とも、お力添えをよろしくお願いいたします」
深く頭を下げた雷蔵に、祝祭の拍手が豪雨のように降り注ぐ。
***
その後の立食晩餐会で、雷蔵は熱を帯びた報道陣に取り囲まれていた。大波のように押し寄せる人間に、雷蔵は気圧され呑まれ、惨めにもみくちゃにされている。
「先生、次の新作は!」
「独身を貫かれているのは文学の為ですか?!」
「学生時代は詩人である土江麻美氏の実家に下宿されていたとのことですが、彼女との関係はあるのでしょうか?!」
「先の震災で亡くなった遊女に操を立てているという噂は本当なのでしょうか?!」
飲みも食いもさせぬと言わんばかりに下世話な問いが飛び交い、雷蔵は眉を下げてげっそりと作り笑いを浮かべた。そんな様子を見兼ねた陣佐が大股で人混みへ割り込み、雷蔵を後ろ手に庇う。
「おい、野次馬共! 下らないことを聞くんだったらさっさと帰んな! ……ったく、遊女の話は俺の話が混ざってるんだよ。誰だ、流布しやがったのは」
六尺はあろう大男から見下ろされ、しっしと掌を仰いで追い払われれば、記者達は蜘蛛の子を散らすように離れて、物陰からその様子を忌々しげに眺めた。
漸く熱狂の渦から解放された雷蔵は、へとへとな様子で背を丸めた。陣佐はトボトボと歩く雷蔵の後ろ姿を捕まえ、がっしりとその細い肩を組む。
「よかったぜ、雷蔵。直前まで真っ青だったとは思えぬ立ち姿だったぞ」
陣佐の快活な声に雷蔵は張り詰めていた吐息をようやく吐き出し、眼鏡の奥の目を細めて表情を緩めた。
「陣さん……。あ、鎌田さんに桑原先生も」
雷蔵は自分に歩み寄ってきた人々に、改めて深く頭を下げる。震災後の絶望から雷蔵を支え続けてきた鎌田と桑原が、腕を組み、満足げに微笑んでいた。
「中々に立派な演説であった」
「あぁ、ちゃんと池田川賞作家に相応しい貫禄が出ていたぜ」
「有難い御言葉です」
称賛を浴び、雷蔵の頬が微かに朱に染まる。その瑞々しい反応を見て、鎌田が茶化すように雷蔵の肩に手を置いた。
「お前さん、元より華奢で女受けのいい顔をしているが、年を食ってからは凄みというか、色気まで出てきたからな。新聞に写真が載ったら、女のフアンが黙っちゃないぜ。追っかけに気をつけろよ。さっきの記者共も、作品の思想より私生活にご執心だ」
鎌田が雷蔵を抱き寄せて肩を組む。その隣で陣佐は腰に手を当て、未だ物陰から覗く記者たちを睨みつけて眉間に皺を寄せた。
「全く、面だけ見て雷蔵に寄るだなんて、それは本当のフアンとは言えねぇだろ。そういうのが一番厄介なんだ」
「陣さん、言い過ぎですよ。まるであの人みたいなことを……」
雷蔵は、猫のように警戒心を露わにする陣佐を前に苦笑いを浮かべる。その傍ら、桑原がふと思い出したように首を傾げた。
「……して、雷蔵、其方が先程の演説で言っていた『師』とは、一体誰のことを指す? まさか有太夫ではあるまいに」
その問いが投げかけられた瞬間、雷蔵の周りだけ華やかな会場の喧騒がふっと遠のき、場が凍り付く。
「え、」
「桑原先生、何を仰るのですか、先生だって、奴の作品を文藝礼讃に載せるときに講評をしてくれたじゃないですか。ほら、……あれ、おかしいな、」
固まる雷蔵の横で、陣佐が引き攣った笑いを浮かべた。ぐらぐらと瞳が揺れる。ゆらりと立ちくらんだ陣佐を見兼ね、鎌田も慌てて加勢するように口を開いた。
「そうですよ桑原先生。何より、日々是好日の主宰をしていた奴ですよ。雷蔵のような原石を文豪にすると豪語して……、え?」
しかし、鎌田の饒舌な言葉も不自然に止まった。パクパクと鯉のように口を開けては閉め、陸の上で溺れたようになる。蒼白になって頭を抱える二人へ、雷蔵は引き攣った笑みを浮かべて震える声を絞り出す。
「皆さん、何で止まっているんですか。まさか忘れたとか言わないでくださいよ。死のうとしていた俺の元に現れた、かみさまみたい、な……」
そこまで言って、雷蔵は青褪めながら右手で口を塞いだ。脳裏に浮かぶはずの輪郭が、霧に巻かれたように霞んでいる。
「かみさまみたいな、かみさまみたいな、……誰だ」
見開かれた雷蔵の瞳から、一筋の涙が伝った。呼吸の仕方すら忘れてしまったかのように、ヒュウと不規則な息遣いが喉から漏れる。
「……確かめなくちゃ」
そう呟いた雷蔵は陣佐に賞品を預け、弾かれるように踵を返した。待ち構えていた報道陣を力任せに押しのけ、暗闇の中を駆け出す。真新しい革靴の音が、月の綺麗な秋の夜空に高く響き渡った。
***
木造二階建ての貸間。自室に飛び込むや否や、雷蔵は近所迷惑など何のそのと言わんばかりに力任せに本棚をひっくり返した。床に散らばる一冊一冊の表紙を血眼で確認し、これではない、それではないと床を這って探し回る。
やがて、雷蔵の指先が、遂に『あの人』が遺してくれた日々是好日を捉えた。己が人生を変えるきっかけ、運命の歯車である大正十年の十一月号。巻頭には、『あの人』が雷蔵のために無理矢理捻じ込んだという短編があった筈。
「……何で」
頁を繰る雷蔵の指が凍りついた。冒頭の数頁が、真っ新な白紙になっていたのだ。目次もぽっかりと穴が開いたように不自然な隙間が空いている。活版印刷の跡すら残らぬ無慈悲な白に、雷蔵は唇を噛んだ。
震える指先で巻末の奥付を確認すれば、雷蔵の呼吸が止まる。かつて確かにそこに刻まれていた主宰の名は、跡形もなく消え去っていた。
「何で!」
雷蔵はまさかと顔を上げ、災禍の直前に刊行され、今では幻と名高い己の短編集を掴み取る。裏表紙には、二度目の絶望に沈んでいた自分を、文字通り命懸けで奮い立たせた『あの人』の、あの力強い言葉が刻まれている筈なのだ。
「……なんで、なにも、無いんだ。何でッ……!」
万策尽きたことを悟り脱力した手から本が零れ落ち、 雷蔵はその場に力無く蹲る。暫くして、雷蔵の後を追い掛けてきた陣佐が息を切らしながら部屋に飛び込んできた。その額には、季節外れの汗が滲んでいる。
「雷蔵! ……駄目だ、思い出せねえ。鎌田も、俺も、あいつの顔が……名前が、出てこねぇ」
雷蔵はその絶望的な言葉に青褪め、奥歯を噛み締めて無機質な真っ白い紙面を睨みつけた。ポタポタと大粒の涙が頬を伝い、畳に跡を作る。
「俺が池田川賞を獲ったからか……? 文豪になるという目的が果たされたから、役目は終わったとでも言うつもりか? 何でそんな……。こんな不条理なことをするだなんて、やっぱりあの人はかみさまだったんじゃないか!」
喉を引き攣らせる悲痛な咆哮に、陣佐は掛ける言葉を失って立ち尽くした。雷蔵は覚束ない右手の指先で日々是好日と短編集を手繰り寄せ、宝物を守る子供のように胸に抱いて蹲る。
「雷蔵……」
悲嘆に咽ぶ雷蔵の華奢な背中に、陣佐はそっと手を伸ばした。しかし、その指先が仕立てたばかりの背広へ触れるより早く、雷蔵はむくりと身を起こし、青白い拳を固く握りしめる。みっともなく垂れる鼻水をすすり、握った拳で乱暴に涙を拭った。
「……陣さん、俺は折れませんよ。絶望したってあの人は戻ってこないと、どんなに足掻いたって無駄だって、厭という程分かっていますから」
陣佐は思わぬ雷蔵の言葉に、虚を突かれたように目を見開く。一方の雷蔵は、傍らにそっと宝物を置き、正座をして陣佐を見上げた。
「……ねぇ陣さん、我儘を言ってもいいかな」
じっと射抜かれるような視線を感じながら、陣佐は懐から煙草を取り出し、マッチで火を点ける。
「……任せろ、何便無茶を聞いてきたと思っているんだ」
紫煙と共に、陣佐は不敵に笑う。その言葉に雷蔵は目を細め、一度大きく息をついてから口を開いた。
「……出版社を作ろう。あの人がいつ戻ってきてもいいように、居場所を作るんだ。偕成に所属した関係で止めていた日々是好日だって、俺達が頭ならもう一度始められる」
雷蔵は散乱した本の一冊を手に取ると、その背表紙に付いた埃を、己の袖で静かに払った。それは「あの人」亡き後に舞い戻った東京で、雷蔵が書き、陣佐が編集し、偕成出版を通して世に放った作品の一つ。
「確かに、偕成の文芸部に目を掛けて貰って此処まで成長した恩はある。でも、それじゃあ駄目だ。あの人がもしも帰ってくるのなら、俺は、胸を張って迎え入れなくちゃならない。……それこそ、こんな所で俺の記憶を奪ったことを後悔させるくらいに」
顔を歪める雷蔵を見下ろし、陣佐は煙草の灰を落としながら、首を縦に振った。突拍子のない願いを受け止める器の大きさに目を瞠った雷蔵。その豆鉄砲を喰らった顔が滑稽だったのか、陣佐は白い歯を見せて悪戯っ子のように笑う。
「いいぜ。……社の名前はどうすんだ?」
思わぬ問いに面食らい、少し腕を組んで唸った雷蔵は、ややあってゆっくりと顔を上げた。その唇に、静かな笑みが浮かぶ。
「朝星になぞらえて、昼と夜の狭間、『黄昏《誰そ彼》社』ってのはどうですか?」
陣佐は雷蔵の提案に、満足げに目を細め、喉を鳴らして笑った。
「最高だよ、雷蔵」
雷蔵は開けっ放しになっている玄関扉から、濃藍の夜空を見上げる。それにつられるように、陣佐もゆっくりと天を仰いだ。
「書き続けよう。進み続けよう。……俺達の歩む一日一日が、未来を繋ぐ光となるように」
秋の夜長にぽっかりと浮かぶ月。差し込む淡い光に、雷蔵はゆるりと手を伸ばした。




