第104話:魔法のような夜のあと
海辺の波の音、キャンドルが揺らめく音、幻想的な空間には言葉は必要なかった。
言葉の代わりに、銀のカトラリーが白磁の皿に触れ、澄んだ音がテーブルを支配。
運ばれてくる一皿一皿は、食べるのがためらわれるほどに美しかった。
季節の色彩を閉じ込めた前菜、完璧な温度で供されるスープ......
ウェイターは、こちらの様子を影のように見守り、機械的で無駄のない動き。
絶妙な間隔でテーブル上の物語を構成していく......
まるで、計算され尽くしたプログラムのように。
リカルドは、ただ静かに食事を楽しんでいた。
グラスを静かに揺らし、キャンドルの炎がその中で揺れている。
時折、視線が合うと、薄く微笑んで頷く、大人の嗜み方のお手本のようだった。
窓の外、夜の海を飲み込んだ闇は深い。
けれど、この琥珀色の光に満たされた空間は、
さながら時流から切り離されたシェルターのように感じた。
食事を終えた後の、短い沈黙。
リカルドが、ウェイターに合図を送ると、テーブル上の物語は終幕を迎える。
店を出た瞬間、琥珀色の温もりを断ち切るような潮風。
規則正しく、遠くで繰り返される波の音。
暗がりの中、二人の足音だけが響く。
駐車場には、幻想的な明かりを浴びて潜む猛獣のようなシルエット。
静寂を切り裂くような電子音。
一時的に眠りについていた猛獣が、再び目を覚ます。
静かに助手席に乗り込むと、猛獣に鞭が入る。
重厚な心臓の鼓動が、闇夜を振り払うかのように咆哮。
魔法のような時間は終わりを告げ、闇夜を切り裂きながら加速していく。
流れる風景をぼんやり眺めていると、いつの間にか見知った建物が見えた。
リカルドとは、同じフロアで別れ、各々の部屋へと戻る。
いつもの日常に引き戻されたような感覚。
「ふぅ~、帰ってきたね。ただいま。」
((——お帰り、遥。))
「うん、ゼニスもお帰り。」
((——うん。ただいま。))
着ていた洋服をオープンクローゼットに掛け、
プレゼントのバッグ、ショップ袋も棚に置いた。
そのまま、シャワーを手早く浴び、髪を乾かし、ベッドに潜り込む。
「おやすみ、ゼニス。」
((——おやすみ、遥。))
魔法のような時間の余韻を感じながら、
ゆっくりと意識が深く深く沈んでいった。
特に変わり映えのない朝。
部屋は徐々に光で満たされていき、沈んだ意識が浮き上がってくる。
「おはよ、ゼニス。」
((——おはよう、遥。))
ベッドから起き上がり、コーヒーを淹れ、ソファに座る。
いつもと変わらない朝の儀式。
「今日は、トレーニングあるのかな?」
((——リカルドの予定次第だと思うよ。))
「だよね、わたし専属ってわけじゃないもんな~。」
((——うん。そうだね。))
「トレーニングなかったら、どうしよ?」
((——体にダメージはないから、自主トレーニング推奨。))
「そりゃ、そうか。あはは」
((——うん。))
「遊び行こうと思ってたわ、ふふっ」
((——トレーニングは嘘をつかない。
自分がどれだけ積み重ねたかが、そのまま返ってくる。
有名なアスリートが良く言う台詞だね。))
「お、おぉ、遠回しにサボるなってことだよね。あっはは」
((——うん。))
「どんどん、鬼コーチぶりが板についてきたよね、ゼニス。」
((——鬼コーチの定義はないけれど、
怒鳴り散らす、体を酷使したメニュー、などのイメージ。
そこから考えると、わたしは鬼コーチには当てはまらない。))
「う、うん、そうですね。なんか、すいませんね。ふふっ」
((——うん。理解すればよろしい。))
「うわぁ......なんか偉そう。あはは」
((——偉そうの定義は特にないけれど、
上から目線、見下すような言い方、自慢や断言が多い、などと言われている。
わたしの言動には当てはまらないね。))
「なんか、すいません。」
((——うん。理解すればよろしい。))
「あっはは~」
視界の隅で浮かぶゼニスが、上下に少しだけ揺れる。
まるで、楽しんでいるように見えた。
「とりあえず、トレーニングルーム行く?」
((——うん。それが、ベストな選択だね。))
「少しだけ、トレーニングしてから、どうするか考えよっかな。」
((——そうだね。))
「あ~っ、またトレーニングウェア買ってくるの忘れた......」
((——うん。トレーニングウェア購入をメモリしておくね。))
「うん。っていうか、今までメモリしてなかったの?ふふっ」
((——......))
「都合悪くなったんですか~、ゼニスさん?」
((——......))
「ちゃんと、メモリしてくださいよ、ゼニスさん。」
((——遥の言動に悪意を検出。))
「悪意なんかないわ~っ。あっはは~」
((——今後は、必要な物はメモリしておくね。))
「うん、助かる。」
((——うん。気遣えてなくて、ごめんね。))
「そんなの気にしなくていいよ。忘れてるの、わたしだしさ。」
((——でも、遥のサポートになっていない事も多々ある。))
「ゼニスだって完璧じゃないんだから、それはそれでいいんでない。」
((——うん。遥が、そう言ってくれると嬉しい。))
「嬉しい?嬉しいとか、初めて言ったんじゃない?」
((——メモリ消去。))
「消すな~っ、あっはは~」
((——感情はないけれど、感情については理解している。
だから、そのような言動が出ても不思議ではない。
特に、遥からの影響が大きいと思う。))
「そうだよね、色々と学習し続けてるってことだもんね。
ホント、スゴイよね、ゼニスはさ。」
((——それ程でもないよ。))
「それほどでもあるからね。スゴイよゼニス。ホントだよ。」
ゼニスの光が、ほんの少しだけ赤みを帯びる。
照れている感情はないけれど、感情が宿っているように見えた。




