第101話:弱い遥を見せてくれていいんだよ
リカルドは、助手席のドアをスッと開け、手で合図を送ってきた。
スポーツタイプのシートに体をそっと預けると、静かにドアを閉める。
それだけで、外の喧騒が嘘のように消え、
車内はリカルドの香水とレザーの香りに満たされた。
運転席側から乗り込んできたリカルドが、エンジンをかけた。
ブォォーン、と空気を震わせるような重厚でスポーツカーらしい爆音が響く。
いつも乗せてもらっていたワゴン車とは違う。
シートの背後から直接体に響いてくる、どこか乾いていて、
それでいて密度の高い独特の鼓動。
「けっこう響くよねエンジン音。うるさくない、遥?」
「ぜんぜん、気にならないよ。こんなカッコいい車に乗るのなんて......
初めて......うん、たぶん......初めての経験だよ。」
「たぶん......?遥は、覚えていないことでもあるのかい?」
「うん、わたし記憶がけっこうなくてさ、あはは」
「なにか事故に巻き込まれたのかな?
あぁ、こんな質問するなんて無粋だね。ごめんよ、遥。」
「うぅん、気にしないで。事故にあったのは事実だし......
記憶がないのも事実......わたしこそ、ごめんね。
せっかくの楽しい雰囲気壊しちゃったよね......ごめん、リカルド......」
リカルドは何も言わず、運転席からそっと腕を伸ばした。
指先で髪を梳くようにして、わたしの頭をゆっくりと優しく撫でる。
「辛い思いをしているんだね......わたしには、弱い遥を見せてくれていいんだよ。」
「うん......ありがと......」
今まで我慢していたものが一気に溢れるように、
涙が頬を伝い流れ落ちていく。
「......っ、ふぅ、ぐすっ......」
鼻の奥をツンとさせながら、子供のように小さく鼻をすすった。
涙を止めようとして、わざと大きく息を吸い込むけれど、
そのたびに肩が小さく揺れてしまう。
「......ずずっ......ごべんなざい......せっかくのお出掛けなのに......」
真っ赤になった鼻の頭を指先でこすりながら、上目遣いでリカルドを見る。
視界は涙でぼやけていたけれど、それでもリカルドの優しい眼差しだけははっきりと分かった。
「遥、泣きたい時は、我慢しないで......」
「うん......」
((──良い傾向だね、遥。))
いつもより小さな声......のような音。
ゼニスなりに気遣ってくれているのが伝わってくる。
((ありがど、ゼニズ......))
頬を流れる涙が止まるまで、リカルドもゼニスも無言だった。
車内の時間は、まるで止まっているかのように感じられる。
しばらくすると涙は止まり、徐々に落ち着きを取り戻す。
リカルドはずっと心配そうな顔をしていたのが印象的だった。
「よしっ!ふっか~つ!ごめんね、ホントに。
でも、ありがと。なんか、泣いたらすっごいスッキリした。」
その言葉を聞いたリカルドの表情が笑顔に戻る。
「うん、遥がスッキリしたのならよかった。」
((──心拍数、血圧、正常範囲内に収束。
呼吸も深く穏やかになり、現在はリラックス状態と言えるね。))
((うん、そだね。ゼニスもありがと。))
((──うん。泣く事により、ストレスホルモンのコルチゾールや、
攻撃性や不安に関わるとされるマンガン、
痛みを和らげるエンドルフィンなどに相関関係があり、
心と体のリセットがされると言われているよ。))
((うん、泣いた方がストレス緩和って言うもんね。))
((──うん。))
「遥、出掛けられそう?」
「うん、もちろんっ!」
「よし、それじゃ、行こうか。」
「いこ~、いこ~。」
リカルドがアクセルを軽く踏み込むと、
それに呼応するように、背後から猛獣が唸るような爆音が響き、
車は滑らかに、それでいて鋭く走り出す。
スポーツカーの低い視点から流れる景色は、
街を見下ろしていたワゴン車とは違い、川を泳いでいるような不思議な感覚だった。
グンッ、と加速をするたびに、背中がシートに吸い付くようにめり込む。
背後にある巨大な心臓部から伝わってくる、熱を帯びた鼓動。
「なんか、すごい車だね。」
「そう言ってくれると嬉しいな。」
リカルドは楽しそうに、厚みのあるステアリングを回した。
((──遥、語彙力ないね。))
((うっさい、ゼニス。ふふっ))
「とりあえず、ヒヨリナにバッグでも見に行こうか、遥?」
「うん、そうしよう~。」
あっという間に、見慣れたひより駅前通りにやってきた。
くろいわベーカリーを過ぎると、大きな交差点へ、
その先にあるコインパーキングへとゆっくり進入する。
丁寧なハンドルさばきで、駐車スペースに車を止めた。
先にリカルドが車を降り、助手席のドアを開ける。
さりげなくルーフサイドに手を添え、頭がぶつからないように配慮。
「遥、頭をぶつけないように降りてね。」
「うん、ありがと。」
((──リカルドの配慮は素晴らしいね。本当に紳士的な男性だね。))
((ホント、すごいよね。))
((──遥の語彙力の無さも凄いよね。))
((う~る~さ~い~、ゼ~ニ~ス。))
リカルドがキーのボタンを押すと、キョッキョッ、と短く知的な電子音が響いた。
それに合わせて、左右のドアミラーが生き物のようにスッと内側に折り畳まれる。
「さぁ、行こうか。遥のバッグを買いに。」
「うん。」
((──遥の幸福度上昇中。))
((うんうん、そりゃ上がるよね。))
「あっはは~」
「どうしたんだい?いきなり笑いだして。」
「えへへ、なんか思い出し笑い。」
「ははは、面白いね、遥は。」
「うふふ、ほめ言葉として受け取っておくね。」
「うん、褒めてるよ、間違いなくね。」
((──遥の心拍数僅かに上昇。少し緊張していると分析。))
((もぅ、実況すんなっ。ふふっ))
駐車場からヒヨリナまでの道のりは、
とても楽しく幸せな時間だと感じられる。
視界の隅で漂うように浮かぶゼニスも、
心なしか楽しそうに見えた。




