0091. 悲しいけど、これが私の就任式
父と母と、涙で過ごした最後の夜。
三人で川の字になって眠ったのは何年ぶりのことだっただろう。温かくて、優しくて、でももう二度と戻らないと知っているからひどく悲しい夜だった。
一夜明けて、私の心はもう次へと向かっていた。さあ、引っ越しだ。新たな生活の始まりだ、と。昨夜の感傷的な気分を振り払うように、私は意気込んでいた。
だが、世の中というものはそう単純ではなかった。
「――よって、本日はまず広間にて家臣一同への〝お披露目の儀〟を執り行います。その後、荘厳なる行列を組み、大聖宮へと向かいますので、姫様、今しばらくお待ちください」
侍女のたきから、朝一番にそう告げられた時の私の拍子抜けした気持ちといったら。
(……そういうの昨日のうちに全部終わったんだけどな)
私の感傷とは裏腹に世界は儀礼と格式を求めているらしい。昨夜のお別れの挨拶で盛り上がった気分のまま、さっと社に行こうと思っていたのに。なんだか気分が下がって、すーんとした感じになってしまう。
結局、お披露目会は家臣たちの集まりが遅れ、昼前から始まることになった。それまでの長い時間、私は部屋で狐火ちゃんたちと戯れながら、これから始まる儀式のことをぼんやりと考えていた。
やがて叔父である氏兼が固い表情で私を呼びに来た。
「姫御子様、お待たせしました。準備が整いましたので、広間にお越しくださいませ。殿と御方様と一緒に入っていただく事になりますゆえ」
広間の手前にある控えの間へ行くと、そこにはいつもの〝父上〟と〝母上〟ではない、里見家の当主と奥方様の顔をした二人が静かに待っていた。
「……姫御子様。お待ちしておりました」
父上が一歩下がり深々と頭を下げた。
その瞬間、私の胸を冷たい風が吹き抜けた。
(ああ、本当に終わってしまったんだ)
昨日まで当たり前だった距離がそこにはもうなかった。手を伸ばせば届くはずなのに、決して越えられない、深い溝ができてしまった。社に行くと、皆、こんな感じになってしまうのだろうか。なんだかひどく悲しい。
「……これより広間にて、そなたがこの安房の国の、そして、我ら里見家の〝姫御子〟であることを皆に宣言する。上座はそなたのために空けてある。……座に着いた後、この義実にお言葉を」
父上の他人行儀な声が耳に痛い。
やがて時が来た。
「――姫御子様の、おなーりー」
その声と共に広間の巨大な襖が開かれる。
(うわ、本当にやるんだ、こういうの。ドラマの演出だけかと思ってた……)
そこに広がっていたのは静寂だった。大勢の家臣たちがまるで色のない海の如く、波一つ立てずひれ伏している。鎧の擦れる音一つ聞こえない。
その海を分けるように上座まで一本の道が続いている。
私の孤高の始まりを告げる花道。
恥ずかしさで足がすくみそうになる。さっさと歩いて座ってしまいたい。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。私は一歩、一歩、上座へと向かう。
家臣たちの列の最前列に父上と母上の、そして、兄である二郎兄上の姿が見えた。彼らもまた他の家臣たちと同じように深く頭を垂れている。
上座に座り、顔を上げる。
全ての視線が私に突き刺さる。
父上が私に向かって再び深々と頭を下げた。
「姫御子様。本日からのご就任、誠に祝着至極に存じます。我ら里見家一同、誠心誠意、姫御子様にお仕え申し上げる所存」
その声に続き、家臣一同の声が広間を揺るがした。
「「「お仕え申し上げます!!」」」
その地鳴りのような忠誠の誓いを、私はただ小さな体で受け止めた。
(この短い時間で皆をここまで納得させるなんて……。父上と母上が皆からどれだけ信頼されているかの証だ。やっぱり私の誇りだな)
誇りと感謝と、そしてどうしようもない寂しさが胸に込み上げてくる。
私は一度ぎゅっと目を閉じ、そして、開いた。
もう迷わない。
「――義実。真里」
凛とした、しかし、まだ少しだけ幼さの残る声で私は言った。
「昨日までのこと感謝します。二人の子として過ごせた日々は私の宝物です」
一瞬、二人の肩がぴくりと震えたのが分かった。
私は広間にいる全ての家臣たちを見渡した。
「そして、ここにいる里見家の全ての者たちへ。これまで宇迦之御魂神の御神託を実現するため、様々な尽力をしてくれたこと、姫御子として、深く感謝いたします」
私は一度、言葉を切った。
「本日より私は姫御子として、この稲村の地を離れ、平砂浦に建立されし【安房稲荷大聖宮】へと移ります。かの地はただの社ではありませぬ。新たな技を生み、新たな富を育み、飢えも、病も、戦の恐怖もない、この安房の国の全ての民が安寧に暮らせる未来の礎となる聖域です」
私の言葉に一部の家臣たちの間にどよめきが広がる。
「その大業を成すため、私はあなたたちの力を必要としています。義実、あなたにはこれからも里見家の当主として、この聖域をあらゆる外敵から守る〝盾〟となることを期待します」
そして、私は家臣たちの中から三人の顔を見据えた。
「その任にあたり、大聖宮の全てを取り仕切る宮司には堀内氏兼を」
「我が身辺を警護し、補佐する出仕には里見二郎太郎を」
「奥向きのことを一切を差配する女官にはたきを、それぞれ任命いたします。皆、この三名と共に私に、そしてこの里見家に尽くすように」
私は最後にもう一度父の顔を見た。
「里見家一同、その忠勤に期待します」
(ちょっと上から目線すぎたかな。でも、こういう立場はこうするしかないんだよね……難しいな)
私の言葉にそれまで顔を伏せていた父上――里見義実がゆっくりと顔を上げた。
その目には涙が浮かんでいた。だが、それ以上に家臣一同を射抜くような、当主としての燃えるような決意の光が宿っていた。
彼は立ち上がると広間全体に響き渡る声で高らかに宣言した。
「――皆の者、聞いたか! これが我らが姫御子様が宇迦之御魂神様より授かりし、この安房の国の新たなる未来の姿である!」
その声に家臣たちの顔がはっと引き締まる。
「姫御子様は我らを導く光! そして、この里見義実、姫御子様が仰せの通り、その光を守る金剛の〝盾〟となることをここに固く誓う!」
彼はそう言うと、再び私に向かって深々と頭を下げた。
そして、今度は全ての家臣たちに向き直り命じた。
「一同、心して姫御子様にお仕えせよ! 我ら里見家は、今日この日より一丸となって姫御子様の示された豊穣の都を創るのだ!」
「「「ははーーっ!!」」」
家臣たちの大地を揺るがすような応諾の声が広間に木霊した。
父上はその光景に満足げに頷くと、最後に再び、私に向き直った。
その顔は、もうただの父ではなかった。姫御子に仕える筆頭家臣の顔だった。
「――それでは、姫御子様。新たなる時代の始まりへ。ご出立をお願い申し上げます」
これが私の就任式。
楽しかった日々の終わり。そして、私の本当の物語の始まり。
私は、静かに頷くと、誰にも涙を見せることなく、ゆっくりと立ち上がった。




