0090. 最後の夜は「笑顔の涙で」
明日、ついに大聖宮に引っ越しをするために、私はこの家を出る。
引っ越しの準備は、驚くほどあっけなく終わった。私の荷物は、着物と、この数年で生活環境向上のために描きためた様々な発明の絵図くらい。
前世の引っ越しとは大違いだ。私は案外、ミニマリストだったらしい。
先日、父上達に引っ越し準備は時間が掛かるって言ってた自分を殴ってやりたいわ。そんなに荷物なんて無いんだよって。
その夜、私は一人、思い出のこの館を少し歩き回ろうと、慣れ親しんだ館の縁側を歩いていた。ひんやりとした木の感触が、素足に心地いい。
虫の音が、最後の夜の静けさを際立たせていた。部屋に戻ると、まつが心配そうな顔で待っていた。
「姫様、殿と奥様がお呼びでございます」
父上と母上の部屋へ向かう。こんな夜更けに、一体なんだろう。また何かやらかしただろうか、と少しだけ胸が騒いだ。
部屋に入ると、二人とも、ただ静かに私を待っていた。
「琴、こんな時間にすまぬな」
父上の声は、いつもより少しだけ、かすれていた。
「明日、そなたが大聖宮へ向かえば、我らはそなたを〝姫御子様〟として敬わねばならぬ。……その前に……最後に親子水入らずで、…もう一度だけ……ただの『娘』として、話がしたかった」
父上は言葉を続ける。
「そなたが我らの子として生まれてきてくれて、本当に……楽しかった。そなたのおかげで、この安房の国はかなり変わり、豊かになった。里見家当主として、心から礼を言う。ありがとう」
母上は、何も言わずに私の隣に座ると、ただ黙って私の髪を優しく梳いてくれる。その指先が、ほんの少し震えているのが分かった。
「琴……。明日から、あなたは姫御子として生きてゆくことになります。ですが、あなたの父と母が、この二人であることは、決して変わりませぬ。それを、忘れないでおくれ」
母上の声も、涙で潤んでいた。
「辛いこと、苦しいことがあったら、いつでも文をよこしなさい。寂しくなったら、いつでも会いに来ておくれ。わらわ達は、いつだってお前の味方ですからね」
もう、だめだった。
気丈に振る舞おうと思っていたのに。二人の温かい言葉と、優しい温もりに、私の心の堰はあっけなく決壊した。
「父上、母上……!」
私は、二人の着物の袖をぎゅっと握りしめた。
「わ、私こそ……お二人の子で、本当に……よかった……!」
言葉にならない。ただ、しゃくりあげるばかりの私を、父上と母上が、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。父上の鎧下地の武骨な匂いと、母上の白粉の甘い匂い。この世で一番、安心する匂いだ。
しばらくして、私は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「……今日まで、何不自由なく、琴は……幸せでした。
御神託とはいえ、無理なお願いをしたり、御使い様のことで驚かせたり、迷惑をおかけしました。
明日からは、父上と母上の子として、里見家の姫として、恥ずかしくないように、立派な姫御子になります」
「その言葉だけで、十分だ。……だが、まずは御稲荷様への務めを第一に考えよ。それが、そなたの幸せに繋がると、儂は信じておる」
二人は、私のことを第一に考えてくれている。本当の神託なんて、あってないようなものなのに。真実を言えないことが、こんなに苦しいなんて。
「……はい。お二人の最後の教え、しかと胸に刻み、御稲荷様の御言葉をしっかりと御神託として賜われるように……」
父上が、部屋に戻るように促す。父上も母上も涙で顔がクチャクチャだ。きっと、もうお互いに涙を堪える限界なのだろう。
私は立ち上がると、振り返り、二人に向かって、今できる、最高の笑顔を作って見せた。
「父上、母上。本当に、ありがとうございました」
目の前が、涙で滲んで、二人の顔がよく見えない。でも、笑うんだ。最後の夜が、悲しいだけの思い出にならないように。父上と母上に心配をかけないように。
「素敵な夜を、ありがとうございました。……また、すぐに会いに来ますから!」
私はそう言うと、くるりと背を向け、部屋を後にした。
障子を閉めた瞬間、こらえていた嗚咽が漏れたけれど、きっと二人には聞こえていないはずだ。
明日からは、離れ離れ。
でも、この温かい思い出がある限り、私はきっと大丈夫。
そして、誓う。この二人が家族が、この安房の国の民が、悲しい涙を流さなくて済むように。私がこの世界で、できることの全てをやってやろう、生活の質を向上してやろう、と。
気合を入れろ、私。
私の戦いは明日から、本当に始まるのだから。
頑張るぞ〜〜!




