0081. 閑話・【船大工の棟梁】神の使いは幼き姫の姿で
あの日、殿から神の如き絵図を預かってから半月が過ぎた。
おれは来る日も来る日も布良の仕事場であの設計図と睨み合っていた。寝食を忘れ、木屑にまみれた床に絵図を広げ、時には弟子たちとも頭を突き合わせ、ああでもないこうでもないと議論を重ねる。見れば見るほど、その精緻さと我らの知恵を超えた発想にただただ打ちのめされた。
そして、ついに殿からの呼び出しがあった。
通されたのは、殿の私室のそばにある控えの間。異様なほどに静まり返っている。
中には殿だけでなく、奥方様、嫡男の二郎太郎様、そして御一門衆の氏兼殿までが神妙な顔で座しておられた。
(……なんだ、この物々しい雰囲気は)
おれが平伏すると、殿が静かに口を開いた。
「三郎、よう来たな。今日こそ、そなたの問いに答えようぞ」
殿は、おれの疑問を察したように奇妙な段取りを説明し始めた。
「此度はその方から船を造るために必要な話をする場として、このような機会を用意した。絵図を描いた者は隣室におる。だが、やはり直接会わせるわけにはいかぬ。そなたの問いを儂らが聞き、隣室の者へ伝える。その答えは真里と二郎太郎を介して、そなたに伝えられる。氏兼は見張り役じゃ」
直接、話すことすら叶わぬのか。一体、いかなる貴人なのだ。鎌倉公方に連なる御方か、それとも……。
(まさか奥方様か、あるいは二郎太郎様御自身がこの絵図を……? それだから、このような手間のかかることを)
考えは巡るが、答えは出ぬ。だが、そこまでして話を聞く機会を設けてくださったのだ。この船造りにかける殿の並々ならぬ覚悟がひしひしと伝わってくる。
「それと話をしやすくするため、絵図の横と縦に『イロハ』と『数』を書き入れた写しを用意した。話はこれを用いてすることにする。これなら、お互いどこを指して話しておるか、分かりやすいであろう」
おれは殿が用意してきた写し見て、目を見開いた。
「なんと、用意周到……いや、ありがとうございまする。聞くところをどうご説明すればと思案しておりましたが、これは素晴らしい考えです。話がしやすうございます」
おれの言葉に殿は満足げに頷いた。隣室の主はここまでお見通しであったか。これはまさに天鳥船神の寵愛を受けておられるに違いない。おれの確信はますます深まった。
「殿、それではまず、この〝竹〟の合の子船について、お伺いしたい。絵図の『ハの五』にございます、この船体の滑らかな曲線。我らが持つ火で炙って木を曲げる技では、到底作り出すことはできませぬ。一体いかがしろと」
おれの問いが、御方様と二郎太郎様を通じて、隣室へと伝えられる。
しばしの沈黙。障子の向こうで衣擦れの音とひそやかな話し声が聞こえる。
やがて二郎太郎様が、部屋に戻られ、緊張した面持ちでおずおずと口を開いた。
「……隣室の方、曰く。『木を水で煮立て、その蒸気で布のように柔らかくなるまで蒸し上げるべし』と……」
「――なっ!?」
おれは我が耳を疑った。
木を蒸すだと? 馬鹿な。そんなことをすれば、木の強度が失われ脆くなってしまう。それは船大工にとっての常識中の常識だ。
だが、頭の中でその情景を思い描いてみる。巨大な釜で煮立てられた湯気。もうもうと立ち上る蒸気で熱せられ、しなやかになった分厚い木材をあらかじめ用意した型にはめて、ゆっくりと冷し固める……。
(……できる。いや、これしかない!)
何百年と受け継がれてきた、我ら船大工の常識がたった一言で根底から覆された。
その後も質疑応答は続いた。
おれが抱く疑問の一つ一つに隣室の〝主〟は的確で、そして、我らの想像を遥かに超えた答えを次々と返してくる。帆の構造、舵の仕組み、防水のための塗料の配合。それはもはや「知識」ではなかった。船造りの真理そのものを知る「神の知恵」だった。
あまりに膨大な情報量に頭が追いつかぬ。この日一日ではとても終わらず、その後も何度も何度も話の機会をいただき、ようやく船造りの全容が見えてきた、そんなある日のことだった。
その日の質疑を終え、皆が安堵と興奮の入り混じったため息をついた、その時だった。
隣室の廊下へと続く襖が微かに開く音がした。
母であるたき殿に何かを伝えに来たのであろう。侍女見習いの少女、まつの声がひそやかに聞こえる。
そして、少女が退出するのであろう、再び襖が動く音がした、その瞬間――。
――おれたちのいる部屋と隣室を隔てていた襖が、勢いよく開け放たれたのだ。
「あ……! あっ、申し訳ございませぬ! 間違えまして……!」
少女が蒼白な顔でその場に凍りついている。
そして、おれの目に信じがたい光景が飛び込んできた。
隣室で山の如き絵図に囲まれ、奥方様と二郎太郎様、そして、たき殿に何かを的確に指示していたその人物。
その〝神の使い〟の正体は――
まだ四つにもならぬ、幼き姫君であった。
すぐに襖は閉められた。広間に氷のような沈黙が落ちる。
殿と氏兼殿の射殺すような視線がおれに突き刺さる。
「……三郎。今のことは」
「…………」
おれは声も出せず、ただその場に平伏していた。
脳裏で全ての点が線として繋がっていく。
(……童女? なぜこのような場所に。いや、待て。あの歳で殿の私室におられる姫君……まさか、あれが殿の姫君、琴様……?)
(では、あの姫君がこの神の如き絵図を? あの姫君こそが〝神の使い〟……?)
我が主君の姫君。里見家の、いや、この安房の国の宝であらせられる、あのお方こそが。
天鳥船神の御使い様であったのか。
おれは震えが止まらなかった。
それは殿への不興を買った恐怖からではなかった。
我が人生の全てを捧げるに値する、真の主君をこの目で見出したことへの武者震いだった。
残り少ない人生などと、誰が言った。とんでもない。
この一子相伝せねばならぬような神の智識、技術を授かったのじゃ。弟子たちが一人前になるまではおいそれとは死ねぬ。社で都や甲斐から人を集めていると聞く。新たな弟子を殿にお願いせねばなるまい。
おれの仕事は、今、始まったばかりだ。
まずはこの神の船を造り上げ、天鳥船神の御子様である、あのお方に捧げねばならぬ。
そう、心に誓った。




