0069. きみと歩む、もどかしくて愛おしい道
「全身で魔素を〝皮膚呼吸〟する」
そのあまりに高く、そして漠然とした目標にたどり着いてから、私の日常に新たな訓練が加わった。
早朝の庭で三歳児の私が、ゆっくりと手足を動かす。呼吸を整え、体内の微かな魔素の流れと大気に満ちる魔素の川の流れを同調させるイメージ。それは、前世の記憶を頼りにした、なんちゃって太極拳だ。
「姫様、本日も朝からお元気でございますねえ」
縁側から、たきと、侍女のゆき・みき姉妹の温かい視線が注がれる。彼女たちには、私が健康のために奇妙な体操を毎朝続けている、少し変わったお姫様、としか見えていないだろう。
だが、これは遊びではない。体内の魔素を巡らせ、外気の魔素との繋がりを作るための真剣で地道な訓練なのだ。
この努力の甲斐あって、僅かではあるが、意識すれば外からの魔素が肌を通して体内に染み込んでくるような、微かな感覚を掴めるようになってきた。
しかし、その成長はあまりに遅い。亀の歩み、いや、ナメクジが這うが如しだ。
(このペースじゃ、花梨ちゃんが常時顕現できるようになるまで、何十年かかるか分からないわ……。やっぱり、何かコツがあるはず)
そう悩んでいたある日、私の脳裏に、あの忌まわしき悪夢が雷鳴のように蘇った。
「まさか……また、何か〝読んでいない〟説明書があるんじゃ……?」
嫌な汗が背中を伝う。私は、恐る恐る【鑑定眼】で、今まで後回しにしていた、まだ一度も使ったことのないスキルを鑑定した。
――【錬成】。
すると、その詳細な説明文の最後に、見慣れた悪趣味な注釈が、小さな文字でこう書かれていた。
※神様からのオススメ:
ちなみに、このスキルは物質だけでなく、周囲の魔素を効率よく集めて高純度のエネルギーに変換する機能もあるから、魔力訓練の補助に超オススメよ! 魔素を吸い込みにくい体質でも、これを使えばブーストがかかるから、頑張ってね!
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私は、その場にがっくりと両手をついた。
まただ。またしても、私はマニュアルを読んでいなかった。ヒントは、答えは最初からそこにあったのだ。私の貴重な数ヶ月の努力は一体……。
(あの神様、絶対に私がこれに気づくまで、高天原で大爆笑してたに違いない……!)
自分の迂闊さに数分間本気で落ち込んだ後、私は気を取り直した。
(分かればいい、分かれば! これで、私も花梨ちゃんも、もっと効率よく上達できる!)
だが、ここで新たな、そしてより根源的な壁にぶつかる。
――どうやって、この複雑な感覚を花梨ちゃんに教えればいいの?
私は、お手本役の狐火ちゃんと一緒に、身振り手振りを交え、必死に花梨ちゃんに「魔素の呼吸法」と「錬成による吸収ブースト」を伝えようとする。
狐火ちゃんが見本を見せるように、自分の周りに魔素の渦を作り出す。私はそれを見ながら、花梨ちゃんに向かってジェスチャーする。
「こう……すぅーっと吸って、ふわーっと出すの! わかる!? 渦を巻くように、ぐるぐるーって!」
《……》
花梨ちゃんは、私が何かを一生懸命に伝えようとしているのは分かるが、その内容がさっぱり理解できず、ただ可愛らしく首を傾げることしかできなかった。
私が作る魔素の流れに興味を示し、猫じゃらしにじゃれるように、前足でちょいちょいと触れてくるだけだった。
(ああ、もう! このもどかしさ! 通じない!)
言葉が通じない相手に、複雑な概念を説明する。これは、前世で何度となく経験した、ITリテラシーの低い使えない上司に、企画書の内容を説明した時の感覚にそっくりだ。
【八百幻】の頃のように、念話が使えれば……!
それでも私たちの地道な訓練は、決して無駄ではなかった。
私が【錬成】スキルで集めた高濃度の魔素を、花梨ちゃんが少しずつ吸収する。その繰り返しで、彼女を顕現させていられる時間も、目に見えて延びてきたのだ。最初は数分で陽炎のように消えかけていたのが、今では半日近く、その姿を保っていられる。彼女の体の輪郭も、以前よりずっとはっきりしている。
その健気な姿は、まさにKawaiiの天元突破。いくら見ていても飽きない。
その愛らしい姿を毎日見ていたら、私の心に、新たな、そして抗いがたい欲が芽生えた。
(……そろそろ、三人目の子を呼ぶか考えてもいいかもしれない)
私の脳裏に浮かぶのは、水の力を操り、いつも冷静沈着な斥候と遊撃役だった、小人族の幻獣――水蓮くんだ。
狐火ちゃんが火、花梨ちゃんが木と土。パーティーバランスを考えれば、次は水属性がセオリーだ。
(水の子を呼ぶなら、やっぱり、水の力が満ちている場所の方がいいはず)
池か、沼か、あるいは――海。この安房国は、三方を海に囲まれている。これ以上ない最高のロケーションだ。
私は、にやりと笑った。
「よし、決めた」
次の〝御神託〟の内容が決まった。これは、私のわがままじゃない。国の発展と、神の子たる私の神威をさらに高めるための、神聖な儀式なのだ。
父上と母上に、最高の「おねだり」をしてやろう。
「――わたくしを、みずべ、つれていって!」と。




