0065. そして君は花の嵐の中からやってきた
私がもうすぐ三歳になろうかという、ある日のこと。【神威顕現】の訓練を始めて、八ヶ月が過ぎようとしていた。
「顕現トンネル」の入り口は見つけた。魔素の圧縮率も、術の並列詠唱も、我ながら日進月歩で上達したと思う。
なのに、どうしても、最後の扉が開かない。鍵穴は見えているのに、正しい鍵がどれか分からない。あと一押し、ほんの指一本分の力が足りないような、もどかしい感覚がずっと続いていた。
(何かが、足りない……。あと一つ、何か決定的なきっかけがあれば……)
私は、もどかしい気持ちで、庭の縁側に座り込んでいた。隣では、狐火ちゃんが心配そうに私に寄り添っている。その姿はまだ完全には実体化しておらず、陽炎のように揺らめいている。
「ごめんね、狐火ちゃん。もうちょっとだって言ったのに、なかなか新しいお友達、呼んであげられなくて……」
私の謝罪に、狐火は「大丈夫だよ」とでも言うように、その(まだ触れられない)頬を私の頬に寄せてくれる。その温かい気配が、諦めかけていた私の心を奮い立たせた。
その時、ふと、庭の隅に咲いている山桜の花が目に入った。風に揺れる、淡く儚い、けれど凛としたその姿に見とれた瞬間、スキル鑑定で読んだあの一文が、脳裏を鮮やかに駆け巡った。
『――特定の属性を持つ神格者を顕現させる場合は、その属性を顕現先に用意すると顕現可能性が高まる』
「……属性、イメージ……」
そうだ。最近、トンネルの感知と魔素の圧縮という技術的な側面にばかり気を取られて、肝心な「何を」「どのように」呼び出すかという、最も根源的なイメージングを疎かにしていた! ただエネルギーを送り込むだけじゃダメなんだ。相手が来たくなるような、美しくて、魅力的な『道』を作ってあげないと……!
途端に、私の心に光が差した。
(試してみよう。私の知る、最も愛しい〝属性〟のイメージで!)
候補は二つ。いつも冷静沈着で、私のピンチを何度も救ってくれた頼れる相棒、水の幻獣・水蓮くんか。それとも、いつも明るく、落ち込んだ私をその笑顔で癒してくれたムードメーカー、花の幻獣・花梨ちゃんか。
どちらも、ゲーム【八百幻】で苦楽を共にした、かけがえのない大切な家族だ。
(……でも、やっぱり、最初は)
私の脳裏に浮かんだのは、いつも可憐に舞い、その天真爛漫さで私を癒してくれた、小さな花妖精の姿だった。今のこの閉塞感を打ち破ってくれるのは、花梨ちゃんの持つ生命力と明るさに違いない。
「Kawaiiは、正義よ!」
その日の、夜明け前。
まだ誰も起きていない、静まり返った館をそっと抜け出し、私は庭の真ん中に立った。
ひんやりとした朝霧が、裸足の肌を撫でる。西の空にはまだ星が瞬き、東の空が、ほんのりと瑠璃色に白み始めていた。神聖な儀式には、世界の生まれ変わるこの瞬間がふさわしい。
(花が咲くなら、やっぱり、朝日でしょ)
私は、深く、深く息を吸い、意識を集中させた。
体中のエネルギーの小川を一つの奔流にまとめ、それを丹田で渦巻かせ、極限まで圧縮したビー玉大の魔力の核を作り出す。これまでの訓練の成果だ。
そして、脳裏に描く。
足元から天の果てまで続く、光り輝く満開の桜並木。無数の花びらが、祝福するように舞い散り、甘い香りが満ちている、光の道――〝顕現トンネル〟を。
その道の向こうから、待ちわびた愛しい友が、笑顔で駆けつけてくれるイメージを、強く、強く念じる。
カチリ、と。
世界の歯車が、噛み合ったような感覚。私の魂と、世界の理と、そして異界にいる家族の魂が完璧に調和し、一つの旋律を奏で始めた。
(――イケる!)
私は、無意識のうちに、その名を叫んでいた。
「来て、花梨ちゃん! 私と一緒に、またこの世界でお花で遊びましょう! ――【神威顕現】!」
その瞬間、私の指先から圧縮された魔力が奔流となって溢れ出した。
目の前の空間がぐにゃりと歪み、季節外れの桜吹雪が、何もないはずの庭に舞い狂う。甘く、濃厚な花の香りが、あたりを満たした。
光が収まり、嵐のように舞っていた花びらが、ゆっくりと晴れていく。
その中心に、ちょこんと座っていたのは――。
ハワイアンダンスで使うレイと花冠をつけ、ノルウェージャンフォレストキャットを思わせる、長くてふさふさの毛並みを持つ、小さな、小さな子猫。
首をこてんと傾げ、くりくりとした若葉色の瞳で、不思議そうに周囲を見回している。そして、その先端に花のつぼみをつけた三本の尻尾を、ぱたぱたと揺らしていた。
【八百幻】で共に冒険した、私の愛しい仲間、花梨ちゃん。ゲームで会ってたときとは比べ物にならない、生命の輝きに満ちた、その姿だった。
「……う、ぉぉ……」
もう、ダメだった。
八ヶ月間の苦労。何度も諦めそうになったこと。狐火ちゃんへの申し訳なさ。そして、やっと会えたという安堵と、言葉にならないほどの喜び。様々な感情がごちゃ混ぜになって、熱い涙になって、頬を伝い落ちる。
長かった。苦しかった。でも、諦めなくて、本当に、本当によかった。
「……かりん、ちゃん……?」
私が、震える声で呼びかけると、その子猫は、私をじっと見つめ、そして、とてとてと駆け寄ってきた。
そして、私の足元で、すりぃ、と体をこすりつけた。
まだ触れられない狐火ちゃんとは違う、確かな温もり。柔らかい毛並みの感触。ゴロゴロと喉を鳴らす微かな振動……。これが、命の感触。
その温もりと、懐かしい花の香りに、私はもう一度、涙腺を決壊させた。
少し離れた場所で、狐火が嬉しそうに九本の尻尾を揺らしながら、静かに私たちの再会を見守っていた。
こうして、狐火ちゃんに続き、私の二人目の大切な家族が、この世界にやってきた。
私の「ひきこもりモフモフ計画」は、また一つ、温かくて、愛おしい光を灯したのだった。




