90話
◇Side アレン
王国の不祥事――蜜の流出。
帝国から情報がもたらされたその日を境に、女王の塔には、張りつめた空気が静かに満ちていた。
女王陛下は国としての立場を崩さず、流出の事実をきっぱりと否定した。
その声音も表情も、いつも通りの優雅さを湛えている。――だが、その奥底には、確かに緊張の影が走っていた。
「王国も、厄介な影を抱えているものだな」
思わず、独り言のように呟く。
蜜の製造場所である女王の花園は、女王の塔の最奥にある。
それこそ周囲には王国を包む結界以外の特別な結界が張られており、常にこの国の騎士団が警備を担っている。
外部の者が簡単に侵入できないのは明白で、内部の者の仕業であることが一目瞭然だった。
「さて……いつ尻尾を出すかな」
俺は死角にある柱の陰から、女王の花園へ向かうザイレク王子を見張っていた。
女王の塔には、表の華やかな回廊とは別に、騎士団が行き来するための細い裏回廊が存在する。一目が少なく、密談や裏取引にはうってつけの場所だ。
「王国の紋章が入った木箱の奪還に失敗しただと⁉」
怒声が響き、王子の前で兵士が怯えたように膝をつく。
「も、申し訳ございません……帝国の部隊が予想以上の手練れでして……」
「言い訳をするな! この役立たずが! 帝国の連中が母上に木箱と共に報告すれば、母上ももう無視はできん! そうなれば俺の関与がバレるのも時間の問題だ……!」
王子の声には、抑えきれない焦りと苛立ちがはっきりと滲んでいた。俺は気配を殺し、柱の陰からそのやり取りを静かに見据える。
――やはり、王子が関わっているのか。
胸の奥にあった疑念が、ゆっくりと確信へと変わった。
「何をしてでも事態を隠蔽しろ! 蜜でも毒でも、使えるものは全て使え!」
命令が飛ぶと同時に、兵士の喉がごくりと鳴った。恐怖を押し隠すように背筋を伸ばし、彼は乾いた声で答える。
「……はっ!」
短く返事をすると、慌ただしく駆け去った。
俺は距離を保ちながら、その背を追う。
ヴァルドール王国は領土こそ広くはないが、蜂の巣を思わせる六角形の区画が連なり、国全体が一つの都市として機能している。
外縁には孤児院と労働区が広がり、中層には市民区と職能区が整然と並ぶ。そして最奥の内層には貴族区をはじめ、女王の花園と女王の塔がそびえ立つ。結界に守られた層構造――それがこの国の姿だった。
「ここは……外縁か? 何故、こんな場所に」
塔を出た兵が向かったのは、外縁区の一角。
だが奇妙なことに、その区画だけが不自然なほど静まり返っている。周囲には確かに生活の気配があるのに、そこだけはまるで最初から人が住んでいないかのように、気配が一切ない。さらに奥へ進むと、この場所には不釣り合いなほど「立派な建物」が、ひっそりと佇んでいるのが目に入った。
兵は迷うことなくその扉を押し開け、中へと消えていく。
……ここが、奴らの拠点か。
「重要な秘密が隠されているにもかかわらず、無防備にも程があるな」
どう見ても目立つ建物だというのに、見張りの姿はどこにもない。ひとけのない外縁区とはいえ、これでは誰にでも見つかり、侵入されかねない。
一瞬、罠を疑った。
だが胸の奥に、説明のつかない違和感が走る。
「今まで見つからなかったのは……何か理由があるのか」
まるで、この場所そのものが何かに覆われていたかのような――そんな感覚。
俺の知識にはない。だが、王国にはまだ俺の知らない力が存在していてもおかしくはない。それが何らかの拍子で外れたのだとしたら……この無防備さにも合点がいく。
「いずれにしろ、確かめるしかないな」
中へ足を踏み入れると、そこには隠匿の場所とは到底思えない光景が広がっていた。
豪奢な壺、大きな絵画、そして床や壁に惜しげもなく使われた高級素材。まるで貴族の別邸のような内装が不気味なほど映えている。
「随分と贅沢な隠れ家だな」
周囲の気配に注意を払いながら、奥へと進む。
騒がしい声が漏れていた扉の隙間を覗くと、物騒な斧や剣、銃器が無造作に並び、さらに高価そうな魔道具まで山のように積み上げられていた。
「どんな武器を持ち出してもいい! 第0部隊の連中を八つ裂きにしろ!」
切羽詰まったような声が、扉越しに響く。
……第0部隊、か。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が鋭く、そして激しく怒りに染まった。
「――《雷影【らいえい】の鎖【くさり】》」
床の影が揺らぎ、そこから細い雷光が無数に走り出す。
影の鎖は音もなく男達の足元へ伸び、瞬く間に全員を縛り上げた。
「あ、アレン殿下⁉ どうしてここに……!」
「君達は『花冠騎士団』の隊員ですね。王子の部下がこんな場所で不穏な動きをしているとは、驚きましたよ」
俺の姿を認めた途端、騎士達の顔色がみるみる青ざめていく。
「ど、どうしてこの場所が見つかって……! い、いや、それより、これには事情が――」
「事情? どんな事情があれば、第0部隊を八つ裂きにしようとするのでしょうね」
「そ、それは……」
言い淀む騎士の喉が、俺の気配に怯えたように、ごくりと震えた。
「わ、私達は、王国の未来のために!」
「黙れ」
必死に言い訳を紡ごうと舌を動かしていたが、聞く価値はない。
俺は淡々と鎖に流す電流を強め、騎士達をまとめて気絶させた。そして、彼等が意識を手放す直前にそろって向けていた視線の先へと歩みを進めた。
第0部隊が近くまで来ているのなら、状況としては悪くない。俺が留まる理由が異能にあるのなら、解決のために彼等の力を借りるのが最も確実だ。
「……本来なら、リネットだけは関わらせないつもりだったんですがね」
第0部隊には、彼女も所属している。
彼女の実力を疑っているわけじゃない。ただ……俺の問題に足を踏み入れさせたくはない。
「……いないことを祈るしかないか」
会いたくないわけじゃない。会いたい。
それでも今は、その気持ちよりも「巻き込みたくない」という思いの方が、胸の奥で静かに湧き上がっていた。
俺は、「場」を整えるべく静かに動き出した。




