89話
◇
「この森も、すっかり慣れたもんだよねー」
アイノウの明るい声が、木々の間を縫うように軽やかに響く。
私達第0部隊は、境界の森エルドラインに再び足を踏み入れていた。前回とは違い、今回は私達だけではない。数名の外交使節団の面々も同行している。
「私達も、交渉に付き添うんですね」
「異能が関わっていますから」
私の問いに、ノアは落ち着いた口調で答えた。
帝国は先の一件を受け、ヴァルドール王国に対し「蜜」の流出問題と、異能の略奪を企てたブライ商会との関係性について、正式に協議を要請。
その結果、外交使節団が派遣され、護衛役として私達第0部隊が同行する運びとなったのだ。
「もっとも、正式に王国内へ入るわけではありませんが」
「というと?」
「会談は国境付近に設営された簡易テントで行われます。あくまで互いの腹を探るための場、ですね」
森の奥へと続く道を見つめながら、私はその言葉の重みを噛みしめる。
魔法を唱える戦いより、こういう駆け引きのほうがよほど神経を使う。普通の戦いよりも、ずっと疲れそう。
「ヴァルドール王国って、本当に他国の人間を中に入れるのを嫌うよね! 僕達、なぁんにもしないのに! ね、ハルト!」
「……異能さえ略奪していなければ」
先を歩いていたアイノウとハルトが、軽口を交わす。
……略奪していたら、何をするつもりなの。
「外交問題になりかねない発言は控えてください。それより――」
ノアが一歩足を止め、周囲を鋭く見渡した。
「止まれ」
低い声と同時に、視界を塞ぐように男達が現れた。
黒いマントを羽織り、口元を黒いマスクで覆った集団。 迷いのない剣先がこちらへ向けられると、私達は反射的に使節団を庇うように前へ出た。
「何者ですか? 私達が帝国の使者だと知っての行動でしょうか」
「知る必要はない。命が惜しければ蜜を置いて、今すぐここから去れ!」
――案の定というか、予想通りというか。あまりに教科書通りの脅し文句に、内心で小さく息を吐く。
ノアへ視線を送ると、彼はわずかに頷いた。
「予定通りです。あとは『作戦通り』にお願いします」
「分かりました」
小声で交わす短いやり取りの直後、黒ずくめの男達が一斉にこちらへ飛びかかってきた。
――前日、ノアに聞いた作戦が脳裏に浮かぶ。
ヴァルドール王国との国境近くの町バルセリア。
森へ入る前に休息を取っていた私達は、以前も利用した拠点で作戦会議を開いていた。
『今回の件は、王国だけの問題ではありません。ブライ商会は帝国内で異能を狙っていました。その彼等が蜜を扱っていた以上、王国の内部と繋がっている可能性が高い。彼等と王国の関係性をはっきりさせる必要があります』
『内部の人間の仕業だなんて……』
王国内部の言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
不安を押し隠すように息を整えたところで、ノアは事前に準備していた木箱を取り出し、机の上に置いた。
『王国にとって蜜が重要であればあるほど、犯人は間違いなく『蜜の木箱』を奪いに来るでしょう。それを利用して、首謀者を突き止めます』
『これは……本物ですか?』
木箱には、ヴァルドール王国の王章がしっかりと刻まれている。
『ええ、木箱そのものは本物です。ですが、中身は偽物ですよ』
蓋を開けると、本物と見分けがつかない小瓶が並んでいた。言われなければ気づかないほど精巧で、違和感はまったくない。
『魔力の流れで偽物ってバレちゃうんじゃないの?』
『その辺は抜かりなく。本物の蜜が入っていた巣箱と小瓶を使っています。中身は偽物でも、容器に残った魔力の残滓は本物です。感知すれば、まず疑われません』
ノアは淡々と告げ、そして一拍置いて続けた。
『ただし、使おうとしなければ、ですが』
――そして今、まさにその通りの状況が目の前で起きている。隠蔽のために流出の証拠を奪いに来るとは思っていたけれど……大当たりだ。
この木箱には細工が施されており、追跡用の魔力が込められている。
蜜を奪い返そうとする者の足取りを追えば、そのまま内部の裏切り者へと辿り着ける――そういう作戦だ。普段なら真っ先に飛び出して敵と交戦しているはずのアイノウとハルトも、今回は作戦を乱さぬよう攻撃を控えていた。
「ぱぁって派手に攻撃したいのになぁ」
「絶対に手を出さないでくださいよ。泳がせる作戦なんですから」
ちまちまと防御している状況が性に合わないのか、アイノウは軽口を叩いて気を紛らわせている。ノアはそんな彼に、小声で鋭く釘を刺した。
私達はさらに慎重に後退し、あえて男達に追い詰めていると思わせるよう動いた。
自分達が優位に立ったと確信したのか、男達は口元を緩ませる。
「はっ、帝国の精鋭部隊って聞くからどんなものかと思っていたが、大したことないな」
「腰抜け集団だな」
男の一人が嘲るように笑い、仲間が挑発するように応じる。
よりにもよって、こんな連中に帝国騎士団を馬鹿にされるなんて……! 作戦が成功した暁には、必ず後悔させてやる!
――そう心の中で誓った、その矢先だった。
横から氷のように冷たい気配が流れ込んできて、ぞくりと、背筋が勝手に震える。
「……今、何て言った?」
冷たく沈んだ声が、空気そのものを震わせる。
次の瞬間にはもう、ハルトの足が地面を蹴っていた。
「は、ハルト。待っ――!」
止めるより早い。
視界から彼の姿がふっと消えたかと思うと、次の瞬間には男の懐へ滑り込んでいた。風が裂ける音すら聞こえない。
ただ、銀の軌跡だけが残像のように走る。
男達が自分の仲間が斬られたと気づいた時には、その体はもう地面に崩れ落ちていた。
「ハルト、作戦中ですよ! 落ち着いてください!」
「もう手遅れだと思うよー、ノア」
ノアが必死に制止する声を上げる一方で、アイノウは呑気に肩をすくめる。
私も……止めるのは無理だと思うな。
ハルトは普段の無表情からは想像もつかないほど露骨に怒気を滲ませ、剣先を迷いなく男達へと向けていた。
「なっ……。俺達に逆らうとは、いい度胸だな!」
リーダー各と思われる男は、黒いマントの内側へ手を滑り込ませ、そこから見覚えのある小瓶を取り出した。
「あれは……蜜の小瓶? どうして……」
私達がブライ商会で回収したものとまったく同じ形。問いを口にしきる前に、男の一人がそれを地面へ叩きつけた。
ぱん、と乾いた破裂音。
瞬く間に甘い香りが広がり、光の粒が舞い上がる。次の瞬間には「黄金」に光輝く蜂が男達の周囲に渦を巻いた。
「何、これ……!」
見たこともない魔法に、背筋がひやりと強張る。思わず身構えた私とは対照的に、ハルトは一歩も退かず剣を振るい続けた。
だが、刃が届くより早く蜂達が一斉に集まり、六角形の光を連ねて盾のような壁を作り出す。
金属を弾くような鋭い音がして、ハルトの剣は跳ね返された。
「まさか……守護の力が宿ってるの⁉」
目の前で起きた現象に、視界が揺れるほど目を見開いた。
蜜に宿る魔力が結界の魔力と近い性質を持つとは聞いていたけれど、これはまさに結界そのもの。
「どうやら、蜜が結界を作るために重要な物のようですね」
ノアの静かな声が、現実を突きつけるように耳へ落ちた。
「これで近づけねぇだろ!」
「……」
弾かれた衝撃でハルトがわずかに後退すると、男達は優位を確信したように口元を歪めた。
結界に守られた魔法使いが、好機とばかりに魔法を放つ。だがノアは怯むどころか、身をひねってそれをかわしながら、静かに距離を詰めていく。
一歩、また一歩。
何度剣が盾に弾かれても、ハルトの攻撃の手は止まらない。
「ひっ……な、なんだこいつ……!」
黄金の蜂が必死に壁を作るが、ハルトの剣はその光の壁に叩きつけられるたび、怒りを燃料にしているかのように勢いを増していく。
「第0部隊を侮辱することは許さない。殲滅する」
その姿は、まるで修羅に見えた。
「く、くそっ!」
焦った男が腰元から短剣を抜き、ハルトへ向けて構える。
途端、ぞくりと広がる異質な気配。
「黒紫」の蜂が短剣の周囲にまとわりつき、振るわれた軌跡に沿って飛び散った。かすっただけの彼の腕に、蜂が突き刺したような痕を残して消えていく。
光の蜂とはまったく違う黒紫のそれは、見た瞬間に肌が粟立つような嫌な気配をまとっていた。
「ハルト、腕……!」
刺された部分から黒紫の痕がじわりと広がっていく。見ているだけで痛みが伝わってきそうな色。だが彼は腕の様子を見ても、顔色一つ変えなかった。
「下がってください! 私が――」
前へ出ようと足を踏み出す。けれど、呼びかけた声などまるで届いていないかのように、ハルトは一瞬たりとも動きを緩めなかった。
普通なら動きを止めてしまうはずなのに、一切、足を止めない。幾度、毒針を突き刺されてもなお、さらに鋭く、さらに速く、敵へと踏み込んでいく。
「く、狂ってる……! あんなの相手にできるかよ……!」
痛みを無視して進むハルトの姿に、敵の顔が一気に青ざめた。
「はーい、ストップ! ここまでにしとこうねー!」
なおも攻撃を続けるハルトに、アイノウが抱きついて動きを止める。
無邪気な仕草とは裏腹に、その声色には鋭い緊張が混じっていた。
「君達もそろそろ止めておいた方がいいでしょ? ほら、蜂の数が減ってるよ。あれ、攻撃を受けるたびに消えていってるし。もうすぐ自慢の結界が切れちゃうんじゃない?」
アイノウが指さした空には、確かに黄金の蜂がまばらにしか残っていなかった。
「それとも最後までやる? 僕も遊んであげようか?」
「っ、ひ……引くぞ! 撤退だ!」
男達は顔色を変え、互いを押しのけるように森の奥へ逃げていく。
遺された黄金の蜂は最後の一匹が霧散すると同時に、甘い香りだけが静かに残った。
「ハルト、大丈夫ですか⁉ その傷……!」
駆け寄った私の前で、ハルトは振り返りざまに「疲れた」とだけ呟き、そのまま地面に崩れ落ちた。
「ハルト⁉」
「無茶しすぎでしょう。貴方の辞書には避けるという概念がないんですか?」
ノアは呆れたように息を吐きつつも、すぐに回復魔法を施す。
「……避けるのが面倒くさくなった」
「もっと強力な『毒』なら、今頃、死んでいたかもしれませんよ」
「……そう」
淡い魔力の光が収まる頃には、ハルトの表情はすっかりいつもの無表情へと戻っていた。
「それにしても、思いっきり暴れてくれましたね。これでは作戦が台無しです」
ノアは周囲を見渡し、深々と頭を抱えた。
地面には斬撃の跡、焦げた草、散った蜂の甘い匂い。敵を泳がせて首謀者を追跡するはずだった計画は、跡形もない。
「ごめん」
「……はぁ。もう結構です。時間がありませんし、会談に向かいましょう」
「え、行くって……この状態でですか?」
「仕方ありません。予定は予定です。会談の時間は変わりません。相手が蜜だけでなく、あの得体の知れない毒まで使ってきた以上……向こうも必死ということでしょう」
ノアは肩をすくめ、額にかかった前髪を指で払った。
そう。彼等もまた、自分達の痕跡を消そうと必死なのだ。
「追及は、会談で行います。今ある証拠では不安ですが、仕方がありません」
「よし、じゃあ行こー! ハルト、歩ける?」
「……問題ない」
アイノウの問いかけに、ハルトはわずかに体を揺らしながらも、静かに立ち上がる。
作戦はうまくいかなかったけど……ここで立ち止まるわけにはいかない。
帝国の平和のためにも、ブライ商会と繋がる危険な人物を放置することはできない。それに――アレンに一言文句を言う前に、彼が危険な目に遭っていたら困る。
絶対に……また、彼と会うんだから。




