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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第3章 蒼波ヲ凌グ

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第50話 ピア・マリノンは見た

 ベル歴995年、雷の月15日。


 マリノン海洋国の首都セレナの中心に位置するマレード宮。


 その奥深くに設けられた私の執務室『静淵の間』は、分厚い耐圧ガラス越しに水底の景色を静かに映し出していた。


 ルグラ島で発生した、オリガタ皇国駐在大使タチバナ殿の暗殺未遂事件。


 フルーナが生け捕りにした暗殺者の中にオリガタ人が含まれていたこと、そして何より、そのうちの一名が彼に仕える大使館職員であったという事実は、オリガタ皇国が内側から蝕まれているという推測を確信へと変えるものだった。


 事態の深刻さを重く見た私は、タチバナ殿本人から保護に対する同意書を直接取り付けた。


 そのうえで、彼の身の安全を確保するという名目で、事態が解決するまでの間、このマレード宮にて無期限で保護する措置を講じた。


 自国の大使が他国の王城に留め置かれるという異常事態に、大使館の職員たちからは激しい抗議の声が上がった。


 だが、タチバナ殿の直筆による同意書を提示したことで、表立った追及は完全に退けられている。


 現在、マレード宮の周囲には厳戒態勢を敷いている。


 大使館に潜む「鼠」の全貌が明らかになり、職員全員の素性の潔白が証明できるまでは、この状態を解除するつもりはない。


 分厚い耐圧ガラスの向こう側を、銀色の回遊魚の群れが通り過ぎていく。


 静寂に包まれた執務室の扉が開き、深い藍色の和服を着崩したフルーナが、音もなく足を踏み入れた。


「――ピア様。旦那様より、報せが届きんした」


 彼女は火のついていない煙管を指先で弄りながら、いつもの気怠げな声で告げた。


「レオからか」

「ええ。『見せたいものがある』とのことでありんす」


 フルーナは小首を傾げ、言葉を継ぐ。


「ピア様のこの『静淵の間』へ、箱庭を経由して伺ってもよいか、との打診でござりんす」

「かまわんぞ。して、いつ来るのだ」

「今でありんす」


 私が問い返すと、フルーナは間髪を入れずに答えた。


「急だな。なにも用意は出来ておらんが」

「気を遣う必要はありんせんよ、ピア様」


 フルーナは静かに一歩後ろへと下がる。


 直後、執務室の中央付近の空間が水面のように揺らぎ、淡い虹色の光が波紋を描いて広がった。


 マナの収束と共に、何もない空間に一つの質素な木製のドアが顕現する。


 硬質な金属音と共にドアのノブが回り、扉が内側からゆっくりと開かれた。


 現れたのは、見慣れた銀髪の青年――レオだった。


「――突然ごめん、ピア」


 レオは執務室に足を踏み入れながら、かつての戦友に向ける気安い口調で口を開いた。


「いや、なにかあったのか?」

「オリガタに潜入する算段が付いた」


 彼が淡々と告げた言葉に、私は思わず目を細めた。


「なんだと?それはまことか?」

「ああ。タチバナ大使はいる?」

「ああ。……すぐに呼ぼう」


 私は執務室の扉へ歩み寄り、廊下に控えるメイドへと直接声をかけた。


「タチバナ殿をこの『静淵の間』まで案内せよ」

「は、はい。ただいま……」


 メイドは恭しく一礼しようとして、開かれた扉の隙間から室内に立つ銀髪の青年の姿を僅かに視界に捉え、その目を微かに見開いた。


 厳戒態勢が敷かれたこのマレード宮の奥深く。誰も通していないはずの私の執務室に、アイゼン貴族の子息が立っているのだから無理もない。


 だが、彼女はそれ以上は何も問わず、足早に客室へと向かっていった。


 それからほどなくして、分厚い扉の向こうから控えめなノックの音が響く。


「入れ」


 私が応じると、扉がゆっくりと内側へ開かれた。


 メイドの先導に従い、深い藍色の和装に身を包んだタチバナ殿が室内に足を踏み入れる。


 彼は私に向かって恭しく一礼しようとして、その動きを不自然に止めた。


 彼の視線は、私の前に立つ銀髪の青年へと注がれている。


「……れ、レオ殿。なぜ、ここに」


 タチバナ殿の瞳に、微かな動揺が走る。


 現在、このマレード宮の周囲には厳戒態勢を敷いている。城の出入りは厳密に管理されており、他国の貴族が正面から訪れれば、当然保護下にある彼にも報告が上がるはずだった。


「お久しぶりです、タチバナ大使」


 レオはアイゼン王国の貴族として、隙のない礼をとった。


「これから、『箱庭』へ向かいます」


 唐突に告げられた未知の単語に、タチバナ殿は意味が分からないというように小首を傾げた。


 私は開かれたままの扉へ歩み寄り、廊下に控えるメイドへ声をかけた。


「少しばかり、席を外す。誰も通すな」


 彼女はこのマレード宮で私が最も信頼を置くメイドの一人だ。彼女は室内に立つレオの姿を思い出したのか、何も問わずに深く頭を下げる。


「かしこまりました」


 メイドが扉を閉ざし、表に立つ気配がする。


 レオが≪クロノ・ボックス≫から一つの鍵――【ベルコネクト】を取り出し、何もない空間に突き立てた。


 マナを流し込むと、虹色の光が波紋を描き、空間に質素な木製のドアが顕現する。


 レオがノブを回して扉を開け放つと、そこには古いが手入れの行き届いた地下倉庫が広がっていた。


 私たちが次々と足を踏み入れると、最後にレオが入室して扉を閉ざした。


「なんと。ここはいったい……」


 タチバナ殿が周囲に積まれた遺産の木箱や、外界とは異なる空間の気配を感じ取り、驚嘆の声を漏らす。


「ベル様が創った『箱庭』にある、ショウの屋敷です」


 レオが前を歩きながら、淡々と説明を加えた。


「レオ殿。あなたは一体……」

「ピアがこの前云った通り、私はショウ・トキノの魂の記憶を受け継いでいます。ベル……えっと、聖霊王の固有魔法オリジンによってですが」

「せ、聖霊王……ですか」

「ええ」

「それは一体、なぜ……」

「さあ、どうでしょう。今度訊いてみます」

「こ、今度訊く……」


 レオは飄々とした態度で言葉を返すが、タチバナ殿の瞳は大きく見開かれている。


「あ。それと、ここのことは秘密ですよ」


 レオが軽く告げ、地下倉庫の階段を上っていく。


 私はその背中を見つめる。


 彼が本当に秘密にする気があるのかは定かではない。


 ここで見聞きしたことを他者に話したところで誰も信じないだろうし、そもそもこの次元の狭間にある空間へ自ら来れる者など、世界でもごく一部に限られているからだ。


 私たちは彼に続き、一階のホールを抜けて正面玄関の重厚な扉を開いた。


 外には、噴水のある静かな庭園が広がっていた。


 石畳を通り抜け、正面の門を出たところで、レオが足を止めた。


 彼が何もない空間に右手を翳す。


 空間が水面のように揺らぎ、時空属性の収納魔法≪クロノ・ボックス≫が展開される。


 波紋の中から、五人乗りのコンパクトな魔導車マナビークルが音もなく出現し、宙から石畳の上へと着地した。


 その圧倒的な利便性と非常識な魔法の運用。いつ見ても羨ましく思う。タチバナ殿に至っては、完全に言葉を失い絶句しているがな。


「少し狭いですが」


 レオは事も無げに告げ、私とフルーナ、そしてタチバナ殿を車内へと促した。


 皆が各座席につくと、レオが運転席に乗り込む。魔導車が低い駆動音を立てて滑り出した。


 「今回タチバナ大使をこの箱庭へ連れてきたのは、協力してもらいたいからです」


 ハンドルを握るレオが、バックミラー越しに後部座席へ声をかけた。


 「私が、ですか?」

 「ええ。できればタチバナ大使の協力を得て、オリガタに潜入したいと考えています」

 「な、なるほど」


 突然の潜入宣言に、タチバナ殿は戸惑いながらも頷いた。


「それはそうと、レオ。いったい、どこへ向かうのだ?」


 私が問うと、レオは前方を向いたまま答えた。


「ここから南に3キロメートルの場所さ。あとは着いてからのお楽しみだよ」


 アイゼン王国製の魔導車に乗れば、3キロメートルの距離などあっという間だった。


 窓の外の景色が止まり、私たちが降り立った場所には、森に囲まれたそれなりの大きさの湖が静まり返っていた。


 だが、周囲を見渡しても、特段何があるわけでもない。ただの静かな湖畔だ。


「それで?レオ。お楽しみとやらは?」


 私が怪訝に思い問いかけると、レオは湖面を見つめたまま口を開いた。


「ああ。ちょっと待ってね」


 レオが不自然に沈黙する。おそらく、聖猫との≪念話≫を行っているのだろう。


 数秒の後、レオが湖面を指差した。


「見てて」


 彼が指し示した直後、鏡のように静まり返っていた湖の中央付近で、突如として水面が大きく隆起し始めた。


 私とタチバナ殿は、その予想外の光景に思わず目を丸くした。


 それは、周囲の水を完全に押し退けながら水面を割り、重力に逆らうように水底から姿を現した。


 陽光を反射して濡れた船体を鈍く光らせているのは、先日私がレオへ譲渡したオリガタ製の小型単胴船だった。


 それが、船体の周囲に六角形の不可視の結界をドーム状に展開したまま、自重による波紋を広げて静かに湖上へその全貌を現した。


 水上を航行するための構造しか持ち合わせていない、潜水など物理的に不可能であるはずの船。それが今、間違いなく湖の底から現れたのだ。


「……レオ。お前、あの船に何をした」

「ん?改造。潜らせてみたんだ」


 私が問うと、レオは事も無げに答えた。


「……そうか」


 たしかに以前、船を改造するようなことを言っていた。


 だが、少し待ってほしい。私が彼にあの船を譲り渡してから、まだ一週間ほどしか経っていないはずだ。


 その短期間で、水上を走るためだけの船を、あそこまで完全に潜航可能な状態に作り変えるなど、本当に可能なのか。


「名付けて、クロース式水遊艇『アクヴェラ』だ」

「水遊艇?潜水艇の間違いでは?」

「なに云ってんだよ、ピア。あれのどこが潜水艇に見える?」


 レオが湖面を顎でしゃくる。


 彼が視線を向けた先では、浮上したばかりの単胴船が自ら向きを変え、私たちの待つ岸辺へと向かって静かに滑り出していた。


 陽光を反射して濡れた船体を鈍く光らせる、ダークグレーとカッパーの流線型のフォルム。


 波紋を広げながら接近してくるその外観は、潜水するための無骨な機能など微塵も感じさせない、優雅なクルーズ船そのものだった。


「一介のクルーズ船を、潜航可能な状態に作り変えたというのか……」


 タチバナ殿の口から、微かに震える声が漏れる。


 タチバナ殿にとっては、完全に未知の常識外れな力だろう。


 だが、アイゼン王国の魔導工学と、時空属性の結界をシステムとして融合させる異常な技術力。


 私は、相変わらずデタラメなかつての戦友の作業速度に、改めて呆れ混じりの息を吐いた。


「これならば、オリガタの監視網を海中から掻い潜ることができる。……そういうことだな?」

「いや、それはどうだろう。決められた航路ならいいかもしれないが、今回は〝潜入〟だろ。となると既定の航路は使えない」


 レオが私の推測を否定する。


「別に潜航できるのだろう?航路など関係ないのではないか」

「あー、泳げるお前らは関係ないのかも知れんが、ああいった国の周辺海域には魔導機雷があると思うんだ。潜水艇のような大きな物質が通るのは難しい。……そうですよね、タチバナ大使」


 レオが視線を向けると、タチバナ殿は重々しく頷いた。


「ええ。北島、中央の本島、南島それぞれを囲うように、数十海里離れた場所から、敷き詰めるかたちで機雷が設置されております。さらに海上には、感応式のブイが碁盤の目状に張り巡らすように配置されております」


 タチバナ殿の言葉に、私は眉を寄せた。


 鎖国体制を維持するための、物理的かつ魔術的な絶対防衛線。


「そう。だから海上のブイ、水中の機雷をかいくぐるには――」


 レオが静かに視線を船へと向ける。その視線の先で、湖岸に静かに接舷した単胴船のガラス戸が開き、中から黒髪の青年がアフトデッキへと姿を現した。


 たしか、彼も聖猫。名は〝ノワル〟。ああ、今はヒト化した姿だから〝ノイアー〟……だったかな。


 彼が身に纏っているのは、いつもの漆黒の執事服ではない。先日私たちが水の回廊フルト・コリドーで着用した、黒を基調とする完全絶縁の密着衣に似ている。


「――改良型密着衣だ」


 レオが事も無げに告げる。


 筋肉の隆起に沿うように幾何学的なラインが走る機能的な漆黒のスーツ。首元には青く発光する魔導部品が組み込まれ、各関節部には強固なプロテクターが備わっている。


 その特製装備を完璧に着こなしたノイアーは、タチバナ殿の正面まで音もなく歩み寄ると、流れるような所作で恭しく一礼した。


「お初にお目にかかります、タチバナ様。ワタクシ、レオ・クロース様の〝筆頭〟従者を務めます『ノイアー』と申します」


 名乗った彼は、静かな声で挨拶を述べながらも、明確な意図を持ってその言葉の一部に力を込めていた。


 直後、私の隣に控えるフルーナのこめかみに、青い血管が僅かに浮かんでいるように見えたが、気のせいだろうか。


 私が側近同士の静かな、しかし火花散るような牽制を観察している間にも、レオは目の前に接舷している船の船尾、スイムプラットフォームへと直接渡った。


 私が歩み寄ると、彼はそこに備え付けられた大型のストレージのロックを解除し、重厚な蓋を開いてみせる。


 「こちらに、蓄電池内蔵の充電式【水中推進器】を用意しました」


 レオがストレージの奥から引き出したのは、流線型の筐体にグリップと小型のスクリューが組み込まれた魔道具だった。


 「境界ギリギリまではこの『アクヴェラ』で潜航し、そこからは感知されない極小のサイズで、マナの排出を抑えて通り抜ければいい」


 タチバナ殿が、目の前の装置と、漆黒の特製密着衣を纏うノイアーを交互に見比べる。


「まさか……監視網の境界から先は、生身で海中を突破するとおっしゃるのですか?」

「ええ。タチバナ大使には、ノイアーと同じ特製密着衣とフルフェイスマスクを着用していただきます。水圧や塩分を完全に遮断し、水中での呼吸を確保する装備です。そして、この【水中推進器】を使えば、長距離の潜水移動でも大きく体力を消耗することはありません」


 レオは淡々と作戦の全貌を告げると、タチバナ殿の顔に微かな緊張が走った。


「タチバナ様、ご案じなく。海中の護衛と案内は、このノイアーが命に代えても完遂いたします。貴方様はただ、推進器のグリップを握っているだけで構いません」


 ノイアーが静かな、しかし絶対の自信を伴った声で請け負う。その完璧な従者ぶりに、フルーナが煙管を揺らし、レオへと視線を向けた。


「……オリガタの情勢に関しては、アチキの方が詳しいでありんすが?」

「いや、フローには次の火の試練が控えている。水属性のお前が必須なんだ」

「ふふっ、そうでありんしたね」


 フルーナは妖艶な笑みを深めると、ノイアーへと視線を流した。


「安心しなんせ。〝潜入担当〟従者様のお留守の間は、この〝筆頭〟従者のアチキにすべてお任せでありんすよ」


 主の傍を離れるという最大の痛所を突かれ、自分の立場をあっさりと簒奪するような意趣返しを受け、今度はノイアーのこめかみが微かに動いたように見えた。


 だが、ノイアーはすぐに涼しい顔を取り繕う。


 「おや。主の命を完璧に完遂してこその筆頭従者。離れていようと、私の忠誠は常にレオ様と共にあります。……貴女こそ、私の留守中にレオ様の足手まといにならないよう、精々励むことですね」


 私が側近同士の静かな、しかし火花散るような応酬を観察し、呆れたように息を吐く。


 「まったく、いい加減にしろお前ら。そんなことより……レオ。オリガタの監視網を抜けるためとはいえ、そこから先はどうするのだ? オリガタは全土が情報統制の密室だぞ」


 私の問いに、タチバナ殿が静かに口を開いた。


 「う、海の中を行くことは不安ですが……。それならば、私の実家であるタチバナ家と所縁のある港町から上陸しましょう。そこからであれば、怪しまれることなく協力者を得て身を隠すことが可能です。潜伏した後は、町に溶け込み、普通に調査を進めるのはいかがでしょう」

 「ええ、さようでございますね。派手な魔法や魔道具には頼らず、現地で足と耳を使って情報を集めるといった隠密行動でいきましょう。情報収集とタチバナ大使の護衛は、私の専門分野でございますから」


 ノイアーがタチバナ殿の言葉を補足する。


 魔道具に依存せず、足を使って地道に実態を掴む。それが異常な情報統制下にある国で、最も確実で足のつかない手段だった。


 「ええ。だからこそ、危険を冒してまで派手に動く必要はありません。タチバナ大使とノワルの生存と潜伏こそが、オリガタを救う最大の切り札になるのですから。……無理はせず、安全な拠点を確保することを最優先に動いてください」


 レオの言葉に、タチバナ殿は深く頭を下げ、決意に満ちた表情で応じた。


 「……承知いたしました。必ずや、オリガタの地へ皆様をお招きする道筋を整えてみせましょう」


 波一つ立たない箱庭の湖畔で、私は祖国の未来を背負う者たちの静かな覚悟を確かに見届けた。

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