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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第3章 蒼波ヲ凌グ

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第49話 クロース式

 ベル歴九九五年、雷の月十三日。


 次元の狭間に存在する『箱庭』。


 聖霊王ベル・ラシルが創り出し、かつて英雄ショウが暮らしていたその屋敷から、南へ三キロメートルほど進んだ場所。


 周囲を豊かな森に囲まれた小さな湖が、鏡のように静まり返っていた。木々の梢が風に揺れる微かな音だけが、隔絶された空間に響いている。


 その静謐な水面の中央に、一隻の小型単胴船が浮かんでいた。


 マリノン滞在時に、海洋国の女王ピアから譲り受けた、ダークグレーとカッパーに彩られた流線型の二十メートル級船舶である。


 水面にほど近い船尾のスイムプラットフォームから、レオとノイアーが乗り込む。


 プラットフォームには水辺での活動を想定した大型のストレージが備え付けられていた。そこから数段の短い階段を上り、アフトデッキへと出る。


 アフトデッキには、海風を感じながら寛ぐためのコの字型のソファが配置され、その脇には外用のギャレー、そして上部のフライデッキへと続く階段が備え付けられている。


 そのアフトデッキから、隔てられたガラスの引き戸を開けて船内へ足を踏み入れる。


 すぐ目の前には、一階部分の居住空間であるメインサロンが広がっていた。


 三百六十度の視界を確保した広々とした明るい空間には、白い革張りのソファが並び、壁面には四十九インチの格納式マナビジョンが備え付けられている。


 さらに、ワインクーラーやコーヒーバーなどのカスタマイズが施された船内キッチンエリア――ギャレーも併設されており、長期間の航海でも快適な環境が約束されていた。


 床のハッチから下層のキャビンへ降りると、船体中央部には最も広い主寝室であるオーナーズルームが配置されている。


 さらに、客室となるステートルームが計三部屋設けられており、各部屋には専用のトイレとシャワールームが完備されるという豪奢な内装が、そのまま手付かずで残されていた。


 だが、メインサロンの最前部にある操舵室――コックピットの様相は一変していた。


 全面に防護ガラスが張られた操舵室の計器類は、マリノンの標準的な仕様から、アイゼン王国の魔導工学をベースとした無骨で機能的なものへと完全に換装されている。


 各種の計器は統合され、最新の『グラスコックピット・システム』として複数の魔導パネルに情報が集約されていた。


 計器盤の各所には、先日セルバンから切り出されたばかりの『クロロン木材』を極限まで圧縮・硬化させたパネルが組み込まれている。魔導回路との極めて高い親和性によって、リアルタイムで船体各部のマナの流れをロスなく監視・制御できるようになっていた。


 二人掛けの操舵席の右側に、レオが腰を下ろす。


 白のフーディーにカーキ色のカーゴパンツ、そして足元はワークブーツで固め、首には愛用の銀の懐中時計を下げた機能的な軽装の彼に対し、左側のサブシートには漆黒の執事服を完璧に着こなしたノイアーが、姿勢良く腰を下ろした。


「これより、最終テスト航行を開始する。ノワル、計器の監視と並行して、お前も操船のシステムを把握しておいてくれ」

「承知いたしました」


 ノイアーが自身の目の前にあるサブパネルへと視線を向ける。


 レオは首元の懐中時計の鎖が僅かに揺れるのを手で押さえながら、 コンソールの主回路に触れ、魔導回路の同期を確認した。


 レオがコンソールに自身のマナを流し込む。


 船尾に搭載された二基の小型エーテルリアクターが、低い駆動音と共に目を覚ました。


「ノワル。そっちのグラスコックピット上の数値はどうだ?」

「主機、副機ともに魔力炉の稼働は安定しております。冷却術式による排熱処理も規定値内です」

「レスポンスはどうだ?」

「旧式の伝導管からクロース家標準の魔導カーボンケーブルへ換装した恩恵が如実に表れております。魔力パスの接続遅延はコンマ一秒のズレもありません」


 ノイアーがパネルの数値を読み上げ、的確な報告を入れる。


「ああ。動力制御の精密さならアイゼンの右に出る国はないからな。よし、まずは通常の航行からだ。微速前進」


 レオが右手で魔導制御桿を握る。


「いいか。この制御桿で推進器の出力を制御する。前に倒せば前進だ」


 レオが制御桿を緩やかに押し込む。


 船体は大きな波を立てることなく、滑らかに湖面を滑り始めた。


 マナを用いた推進機が周囲の水を吸い込み、後方へと押し出すことで、確かな推進力を生んでいる。排気ガスや無駄な振動は皆無に近い。


「速度を上げるぞ。空気抵抗低減フィールドの展開と摩擦係数を監視してくれ」


 レオが制御桿をさらに前へと倒し込む。


 窓の外の景色が後方へと流れ去る速度が明確に上がった。


 船首が水を切り裂く物理的な抵抗は発生するものの、船内に不要な騒音は伝わってこない。


「フィールド展開確認。船体表面を覆う風属性マナによる流体制御が、水との摩擦係数を規定値内まで減少させております」

「よし。直進安定性も問題ない。次は後進だ。見ておけ」


 レオは制御桿を引き戻した。


「マナによる水流の噴射方向を魔導回路で切り替えるだけだ。タイムラグが存在しないのが分かるか?」


 船は急激に速度を落とし、水面に僅かな白い泡を残して停止した後、滑らかに後退を始めた。


「ええ。推力方向の反転に伴うマナの逆流や、回路への過負荷も観測されておりません。極めてスムーズな挙動ですね」

「左右へのスラスターによる並行移動は、制御桿の脇にあるこのサブダイヤルを使う」


 レオがダイヤルを回す。


 船体の側面に等間隔で増設された微細なマナ噴射口から、同時に水流が放出される。


 船首を真っ直ぐ前へ向けたまま、全長二十メートルの船体が真横へとスライドするように並行移動した。


「横移動の反応速度も上々だ。これなら、狭い水路や入り組んだ岩礁地帯でも取り回しが利く。旋回半径も最小限に抑えられるはずだ」


 レオはグラスコックピットに投影される環境データと、窓の外の景色を交互に確認し、淡々と評価を口にする。


「レオ様。揺れの制御については自動化されているのですか?先ほどから、推進器による波の影響を全く受けていないように見受けられますが」


 ノイアーが、パネルの姿勢制御データを見つめながら問いかける。


「ああ。グラスコックピットと連動した自動フラップ制御が、船底に付与した時空属性の結界の位相を細かく調整している」

「結界の位相調整、でございますか」

「そうだ。波の上下動をコンマ数秒ずらして相殺し、波の衝撃を船体が受ける前に空間ごと力の向きを逃がす仕組みだ。長旅になるからな、船酔いや疲労の対策は必須だ」

「見事な技術でございます。これならば、遠きオリガタ皇国までの海路も、快適な旅となるでしょう」


 ノイアーの言葉に、レオは小さく息を吐き、視線を計器盤へと戻した。


「だが、ここからが本番だ。水上の航行はあくまで基本スペックに過ぎない」


 レオはグラスコックピットの魔導パネルを操作し、広域の索敵データを表示させる。


「タチバナ大使の報告にもあった通り、現在のオリガタは国境だけでなく、その周辺海域にも厳重な監視網が張り巡らされている。ただ海の上を走るだけなら、いずれ発見されて撃沈されるのがオチだ」

「ええ。国内情報網の徹底ぶりを考えれば、通常の潜入では国境を越えた瞬間に即座に捕捉される可能性が高いかと存じます」

「ああ。エヴィスがオリガタの監視網すらも掌握していると仮定して動く必要がある」


 レオは次なるテスト項目へと意識を向けた。


「これより、潜航モードへの移行手順を教える。ノワル、まずは気密機構のチェックだ。そっちのパネルの右上のスイッチを入れてみろ」

「……潜航、でございますか」


 常に表情を崩さないノイアーが、珍しく目を丸くした。ピア女王から譲り受けたのは、あくまで水上を走るための優雅なクルーズ船である。それが水中に潜るなど、魔導工学の常識から完全に外れていたからだ。


「……承知いたしました」


 だがノイアーは即座に驚きを呑み込み、サブパネルを素早く操作する。


「密閉機構、作動。アフトデッキに通じるガラス戸、および各ステートルームの通気口の物理ロックを確認いたしました。船内、完全な気密状態へと移行しました」

「よし。続いて船体に組み込んだ 時空属性結界 を展開し、環境維持術式を起動する。そっちの魔導パネルから術式を起動しろ」

「承知いたしました。結界および環境維持術式、展開します」


 ノイアーがパネルを操作し、マナを流し込む。


 船体の周囲を、六角形の不可視の結界がドーム状に覆い尽くす。


「潜航開始。制御桿を前方下へ押し込む」


 レオが制御桿を傾けると、船首がゆっくりと沈み込み、防護ガラスの向こうの景色が、青い空から緑がかった湖の水中へと切り替わった。


 光の差し込む水面下を、ダークグレーの船体が潜航していく。


 水圧による船体の軋む音は一切しない。六角形の結界が外側の水を完全に隔絶し、船内は、陸上にいる時と何ら変わらぬ静寂が保たれていた。


「水深十メートル。気密性、水圧防御、ともに異常ありません。環境維持術式によるマナの変換も正常に機能しており、酸素濃度は二十一パーセントを維持しております」


 ノイアーが数値を読み上げ、的確な報告を行う。


「潜航速度を上げる」

「水中の物理抵抗は空気中より大きいですが、よろしいのですか?」

「ああ。結界が水を押しのけているから、この速度でもマナの消費は規定値内に収まるはずだ」


 レオはさらに出力を上げた。巨大な魚のように、船体は湖の底を滑らかに、かつ高速で進んでいく。


 防護ガラス越しには、箱庭の湖に生息する小さな魚の群れが、突如現れた巨大な影に驚いて散っていく様子が見えた。


 水深が深くなるにつれて光の届かない暗闇が広がるが、船首に備えられた魔導ランプが青白い光を放ち、進行方向の視界を確保している。


「深度二十メートル。結界の反発係数に問題はありません。……この出力であれば、オリガタの監視網を掻い潜るための深度五十メートルも容易ですね」

「ああ。光学的な監視やレーダー探知機があったとしても、水という分厚い壁と、結界によるマナの隠蔽があれば、そう簡単には見つからない」

「なるほど。海中の環境が天然の盾になるわけですね」

「そういうことだ。海中に潜む魔獣との識別すら困難なはずだ」


 レオは操舵を安定させながら、自動航行の設定画面を開いた。


「……深度五十メートルを維持したまま、自動航行モードへ移行する。パネルのこのコンソールで座標と深度を固定」


 レオが指し示した手順に従い、ノイアーが手際よく入力を行う。


 レオは制御桿から手を離した。船は設定された深度と速度を保ったまま、湖の底を一定の軌道で旋回し続ける。


「成功だな」


 レオが背もたれに深く身を預け、小さく口元を緩めた。


「ええ。お見事でございます、レオ様。一介のクルーズ船を、まさか完全な潜水艇へと作り変えてしまわれるとは……」


 ノイアーが、隠しきれない感嘆の声を漏らした。


「そもそも潜水艇じゃない。潜水ができるだけのクルーズ船――クロース式水遊艇『アクヴェラ』だ」

「……クロース式。やはりレオ様も、クロース家のご子息でございますね」

「ん?なんのことだ?」

「いえ、なんでもございません。……それよりも、水遊艇『アクヴェラ』でございますか」

「ああ。水遊び専用の船だからな」

「……水遊び、ですか。なるほど」


 ノイアーは、主の意図を察したように静かに口元を緩めた。


「ははっ。これでオリガタへ向かうための足は確保できた」


 レオの瞳に、冷静な光が宿る。


「それでだ、ノワル君」

「なんでございましょう」

「君にはタチバナ大使を乗せて、オリガタに行ってもらう」

「は?」

「ん?」

「いえ、申し訳ございません。今一度おっしゃっていただけませんか?」

「え?だから、ノワルにはタチバナ大使を乗せてオリガタに行ってもらう」

「……訊き間違えではございませんでしたか。なるほど」


 常に完璧な執事を演じるノイアーが、珍しく胡乱な目を主へ向けた。


 自身の旅への同行を確実にするため、王都での根回しは完璧に済ませてきたはずなのだ。


「僭越ながら申し上げます。ワタクシは貴方様の従者です。試練の最中に主の傍を離れるなど、執事としてあるまじき行為かと存じますが」

「シルビアさんもいるし、火の試練になればフローも合流するから戦力は十分だよ」

「では、他の者に任せてはいかがでしょう。例えば、リゼさんやシャルルさんなどに」

「いや、オリガタにおいて彼女たちの容姿は目立ちすぎる」

「な、ならば……フローさんでは駄目なのですか?彼女ならオリガタの事情にも精通しておりますが」

「火の試練には、水属性のフローが必須だからな」


 レオは真っ直ぐにノイアーを見据えた。


「タチバナ大使からの報告の通り、オリガタの内乱は目前だ」

「ええ。一刻の猶予もありません」

「だが俺自身は次の火の試練へ向かわなければならない。属性の特性上、大使を密かに送り届け、かつ先行して調査を行える適任者は、お前しかいないんだ」


 レオの言葉に、ノイアーは静かに息を吐いた。これ以上の抵抗は無意味だと悟ったのだ。


「しょ……承知いたしました」


 ノイアーは諦めたように短く応じる。


「よろしく頼む。……それじゃ、ノワル。浮上の制御はそっちのパネルから入力できるから。やってみて」

「承知いたしました。浮上術式、展開します」


 ノイアーがパネルを操作する。船首が上を向き、推進器の噴射方向が上向きに変更された。


 湖の底から、水面へと向かって静かに、しかし力強く船体が上昇していく。


 やがて、防護ガラスの向こうの景色が再び明るい空へと切り替わり、船体は水飛沫を上げて湖面に姿を現した。


「テスト終了だな。接岸したら、この船の他の機能や装備内容も説明するよ」

「承知いたしました」


 レオから制御桿を預けられたノイアーは、教わった通りの滑らかな手つきで船を旋回させた。


 静かな湖面を、ダークグレーの船体が滑るように帰還していく。その船内には、二人の静かな呼吸と、魔力炉の安定した脈動だけが響いていた。

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