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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第3章 蒼波ヲ凌グ

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第44話 夜のルグラ港

 夜のルグラ島。


 特級魔獣ギガ・ペリクスの咆哮が大気を震わせる中、フルーナとタチバナは港湾部へと続く石畳の坂を駆け下りていた。


 「まさか……我が国の守護魔獣が……なぜ」


 タチバナが荒い息を吐きながら、上空で狂乱する巨大な影を見上げて悲痛な声を漏らす。


 特級魔獣ギガ・ペリクスはペリクスの亜種にあたる。本来のギガ・ぺリクスは、極めて穏やかな性格の魔獣である。生涯に一度しか卵を産まないため繁殖数は少なく、今やほぼ絶滅危惧種とされていた。


 オリガタ皇国の南にある無人島を主な生息地としており、魔獣でありながら、オリガタの守護獣と呼ばれるほど、人に危害を加えるような攻撃性はないはずの存在だった。


「温厚なあの子が、あれほど怒り狂ってやす。沖合の船は壊れんしたが、まだ港や街は被害を受けておりんせん……よほどの理由がありんすね」


 前方を走るフルーナが、上空を睨み据えながら冷静に分析する。そして、視線を前へ向けたまま、静かな声で問いかける。


「タチバナ様、武器はありんすか?」


 前方を走るフルーナが、視線を向けずに問う。


「えっ?あ、ああ、ありますよ」


 タチバナは息を乱すことなく答え、走りながら懐からヒトの形を象った一枚の白い紙を取り出した。


「シキガミ……。そういえばタチバナ家は、陰陽道にも精通しておりんしたね」


 フルーナが横目でその紙片を捉え、納得したように息を吐く。


「よくご存じで。本家の陰陽師ほどではありませんが……自衛の術程度には」


 タチバナはそのヒト型の紙を前に掲げ、自身のマナを静かに流し込んだ。


 瞬間、紙の表面に幾何学的な術式が浮かび上がる。マナを触媒として物質の結合構造が瞬時に書き換えられ、質量を持たなかったはずの薄い紙片が急激に硬質化し、立体的な質量を持つ一振りのオリガタ刀へと変貌を遂げた。


 タチバナは顕現した刀の柄をしっかりと握りしめ、夜風を切り裂きながらフルーナの背中を追う。


「便利なものでありんすね」


 フルーナが、タチバナの手元で硬質な刀へと変化したシキガミを一瞥して目を細める。


「いやいや。瞬時に装束を変えたフルーナ殿の耳飾りほどでは」

「それは、もちろんでありんす。これは、アチキの主。レオ・クロース様の特製魔道具でありんすからね」


 フルーナは左耳のピアスに軽く触れ、艶然と微笑んだ。


「主?レオ殿が?フルーナ殿の主はピア女王陛下では?」


 タチバナが怪訝そうに眉を寄せる。


「あ。……まあ、その話は後ほど。今は目の前の敵の処理が先でありんす」

「え、あ、はい」


 タチバナは湧き上がる疑問を呑み込み、顕現したオリガタ刀を構え直した。

     






 特級魔獣ギガ・ペリクスの接近により、ルグラ島の港湾部は恐慌状態に陥っていた。


 逃げ惑う島民たちと、前線に立つハンターたち。


 だが、防波堤に立つ濃紺の戦闘用和装の女の姿を認めた瞬間、恐怖の悲鳴は割れんばかりの歓声へと変わった。


「フルーナ様だ!!」

「あのお方が来てくださったなら、もう安心だぞ!!」

「フルーナ様ー!!」


 水都の守護者とも言うべき美しき剣士への、熱狂的な歓喜。


 その喧騒を、港湾部のコンテナ倉庫の陰から冷ややかに見つめる複数の眼があった。


 タチバナ暗殺の密命を帯びた、素性不明の隠密部隊。


 部隊長を務める工作員は、タチバナの傍らに立つ女を視界に捉え、傍らに潜む現地の工作員へ低く問う。


「やけに人気だな。あの女は何者だ?」

「あれは、ピア女王の側近、フルーナです」


 マリノンに潜伏して手引きを行っている現地の工作員が、暗がりの中で即答した。


「水都で最強の剣士とも謳われる手練れです。タチバナの護衛として同伴しているなど、事前の情報にはありませんでした。……いかがなさいますか」

 「構わん。護衛が一人増えたところで、特級魔獣が暴れ回るこの混乱に乗じない手はない」


 部隊長は冷ややかに告げた。


 本来の計画は、盗聴した場にいたピアと謎の青年ごと王都で始末する予定だったが、彼らが姿を消したため、まずはルグラへ向かったタチバナを確実に仕留める計画へと切り替えたのだ。


 ここで標的を逃すわけにはいかない。


 「魔獣の猛攻で護衛ごと削り、確実に仕留める。各員、待機しろ」


 上空から、大気を震わせる咆哮が響き渡る。翼長二十メートルを超える巨大な巨体が、港の広場へ向けて急降下を開始した。


 すでに沖合に停泊していたタンカーも何隻か破壊されている。巨大な喉袋に溜め込まれた海水の砲弾が、今度は港の地表へ向けて無差別に吐き出されようとしていた。


 直撃すれば、港の舗装ごと施設が吹き飛ぶ物理的質量。部隊長は、標的と護衛がその水弾に押し潰されるのを待った。


 だが、その破壊の奔流が地表に届くことはなかった。


 広場の中央に立つフルーナが、静かに左手をかざした。


 眼前の海面が爆発的に盛り上がり、極限まで圧縮された巨大な水柱が下から上へと逆巻く。非圧縮性流体である海水の質量をそのまま暴力的な推進力へと変換した、水属性の迎撃魔法。


 落下してくる数万トンの水弾と、下から突き上げる水柱が空中で真っ向から激突した。


 二つの巨大な水流が衝突し、運動エネルギーが完全に相殺される。限界を超えた圧力が全方位へと解放され、爆音と共に膨大な海水が微細な粒子へと砕け散った。


 微細な水滴が月光、星空、街の明かりを全方向へ均等に散乱させる。水滴は、港一帯を白く染め上げる〝霧〟へと変貌した。


 特級魔獣の一撃を、たった一人の護衛が水魔法で完全に相殺してみせたのだ。


 暗殺の機を窺っていた部隊長は、理解の範疇を超えたその光景に目を見開いた。


 さらに、急速に充満していく白き濃霧が、広場に立つフルーナの姿を完全に掻き消した。


「あの女の姿が見えない。突入は待て。一旦、距離を――」


 部隊長が部下たちに撤退の合図を送ろうとした、その時だった。彼らの潜むコンテナ倉庫の周囲を、極めて高密度の濃霧が包み込んでいた。


 隠蔽魔道具によって気配を最小限に抑え、潜伏していたはずの工作員たちは、突如として視界を真っ白に塗りつぶされ、動揺を隠せなかった。


「……視界ゼロ。味方の位置も把握できません」


 傍らに潜む工作員が、焦燥を帯びた小声を上げる。気配を絶つ魔道具も、物理的に視界を奪うこの濃霧の中では無意味だった。

 

 むしろ、気配を極限まで抑えているがゆえに、光が不規則に乱反射するこの絶対的な視界不良の中では、隣に潜伏している味方の存在すら感知できなくなっているのだ。


 その絶対的な視界不良の中。部隊長の耳に、水が跳ねるような微かな音が届いた。


 声はない。ただ、先ほどまで小声を上げていた部下の気配が、唐突に消失した。


 「……おい?」


 部隊長が声を潜めて呼びかけるが、返答はない。


 濃密な霧の向こう側で、再び水音が響く。


 月光の乱反射が視界を歪める中、音もなく足元から這い上がってきた不可視の『水流』が、気配を殺して潜んでいたはずの工作員たちの身体を次々と拘束していく。


 防ぐ間も、逃げる間も与えられない。濃霧の中で極限まで圧縮された水の帯が、確実に一人ずつ自由と意識を奪っていく。


 部隊長が腰の暗殺剣に手をかけた瞬間、彼の手首と首筋に、冷たい水の感触が巻き付いた。


 抵抗する間もなかった。強烈な水圧で首を締め付けられ、彼の視界は深い暗闇へと沈んだ。

     







「フ、フルーナ殿!まだか……!」


 タチバナが息も絶え絶えに悲鳴のような声を上げる。


 空間を白く塗りつぶす極めて高密度の濃霧は、特級魔獣の視界をも奪い、その動きを多少なりとも鈍らせていた。


 だが、いくら魔獣の動きが制限されていようと、特級を相手にタチバナ単身で凌ぎ切るには、なかなかに厳しいものがある。


 シキガミを硬質化させたオリガタ刀を構え、防戦一方の彼には、もはや体力の限界が近づいていた。


 上空の白い靄の中から、特級魔獣の巨大な嘴が彼を丸呑みにせんと迫る。


 「そこまででありんす」


 静かな声と共に、濃霧の中からフルーナが姿を現した。


 彼女の背後には、水魔法によって宙に浮かされた五人の工作員たちと、同じく水の球体で優しく包み込まれた、青白く脈打つ二メートルほどの巨大な卵が追従している。


 ギガ・ペリクスの巨大な眼球が、拘束された五人の工作員たちを捉えた。


 大気を震わせていた咆哮が、彼らへ向けて一段と低く怒りを帯びる。


 だが、すぐにギガ・ペリクスの視線は、彼らを拘束し、卵を大切に運んできたフルーナへと移された。


 怒りに満ちた咆哮がピタリと止む。ギガ・ペリクスはゆっくりと地上へ降り立ち、フルーナの目の前でその巨大な頭を垂れた。


 フルーナが水魔法を解いて卵を差し出すと、魔獣は拘束された工作員たちには目もくれず、傷つけないようにそっと嘴で卵を咥え込む。本来の穏やかな性格を取り戻した親鳥は、フルーナに対して一度だけ短く喉を鳴らすと、巨大な翼を広げ、南の空へと飛び去っていった。


 静寂が戻った港。


 タチバナは刀を地面に突き立て、その場にへたり込んだ。


 海風が吹き込み、空間を支配していた濃霧が少しずつ晴れていく。


 「……かしこい子でありんすね」


 フルーナは飛び去る影を見送りながら、目を細めてぽつりと呟いた。


 やがて、港一帯を白く染め上げていた濃霧が海風に流され、完全に晴れ渡る。


 南の夜空へと小さくなって消えていく特級魔獣の影を、遠巻きに避難していた港の人々が確認した。


 街を破壊されることなく、最大の脅威が去ったという事実。それを理解した群衆から、安堵と歓喜の入り交じった歓声が夜の港に沸き起こる。


 その喧騒を背に受けながら、ルグラ島での短い、しかし決定的な暗殺未遂事件は幕を閉じた。

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