第42話 お転婆娘の雷鳴
千年前の穏やかな昼下がり。
とある国の外れに建てられた屋敷。その一階に設けられた、広々とした研究室でのことだった。
柔らかな陽光が差し込む室内には、彼が独力で組み上げていた『小型化エーテルリアクター』の初期試作機や、複雑な魔導回路が肉眼では捉えきれぬほどの精度で彫り込まれた真鍮の歯車が所狭しと並んでいる。
机に広げられた精緻な図面に向かう黒髪の男の頭上から、一匹の耳折れ猫が躊躇いもなく飛び降りた。
高い本棚の最上段からの、重力と計算を完全に無視した無謀な跳躍。だが、男は視線を上げることなく、正確な動作で左手を伸ばし、落下してきた小さな体を空中で受け止める。
床に下ろされたかと思えば、猫は今度は机の上に攀じ登って、広げられた図面の上へと滑り込み、インク瓶すれすれでペンを弾き飛ばした。
ある時は、徹夜明けでうたた寝をしている男の顔面に、躊躇なく飛び乗って強制的に目を覚まさせる。
またある時は、男が組み立てていた重要な魔導部品を前足で転がして持ち去り、部屋の隅の隙間に隠して知らん顔をする。
さらに、足の短いチビ猫のマロンをからかうように部屋の隅から隅まで猛スピードで駆け回り、積み上げられた本の山を派手に崩してみせる。
常に動き回り、高いところから飛び降りては好奇心の赴くままに男の作業を邪魔する、活発でお転婆な猫。
「まーた、お前たちか」
呆れたような、低く落ち着いた三十代半ばの男の声が響いた。
後に知られざる九人目の英雄として歴史から名を消すことになる男、ショウ。
エクレアは、足の短いチビ猫のマロンと競い合うように男の足元へ擦り寄り、甘えるような鳴き声を上げて見上げる。そして得意げに身をよじり、そのまま男の肩へとよじ登って黒髪を前足で弄り始める。
ショウが作業の手を止め、大きな両手でエクレアを抱き下ろすと、足元で短い前足を懸命に伸ばしていたマロンとまとめて、自身の膝の上に乗せた。
黒髪に黒い瞳の男から伝わってくる体温と、穏やかな鼓動。それが、エクレアにとっての世界の全てだった。
だが、その穏やかな日常は、少しずつ形を変えていった。
主であるショウは、自宅を空けることが多くなったのだ。
たまに帰ってきても、彼はひどく疲労した顔をしていた。
自身が発明した機械仕掛けの自動餌やり機に大量の餌を補充すると、すぐにまたどこかへ出かけようとする。
だが、出入り口へ向かう前、彼は必ず足を止めた。
足元にすり寄って鳴き声を上げるエクレアやマロンをはじめとする八匹の猫たち。
ショウは膝をつき、その一匹一匹を平等に撫で、丁寧に抱き上げては、言葉にならない想いを込めるように優しく構った。
疲労の奥にある深い愛情。その温もりを全員に等しく分け与えた後、男は名残惜しそうに身を起こし、足早に去っていく。
黒猫のノワルや灰猫のシャルルなど、勘の鋭い他の猫たちは、主の震える掌や普段とは違う切実な気配から、これが永遠の別れになるかもしれないと、既に何かを察していたのかもしれない。
だが、お転婆で無邪気だったエクレアは違った。
いつかまた、以前のようにずっと一緒にいて遊んでくれる。彼女はそう信じて疑わなかった。
しかし、その日は二度と来なかった。
空が赤黒く焼け焦げ、大地の底から不気味な地鳴りが響いていたあの日。
星を滅ぼしかねない最古の恐怖、名を呼べぬ『災厄』が放つ惑星崩壊級の攻撃が、彼らの暮らす国を全土ごと飲み込もうとしていた。
彼女の主は、その絶望的な破壊の奔流の前にただ一人立ち塞がり、死地に赴こうとしていた。
その直前。屋敷に残されていた彼女たちは、外の世界で何が起きているのか全く知らないまま、眩い光に包まれ――直後、屋敷ごと次元の狭間である『箱庭』へと転移させられた。
主が命を賭して防衛のための魔法を展開し、膨大な破壊エネルギーを歪曲・分散させながら、強大な光の中にその身を溶かして消滅したのは、そのすぐ後のことである。
聖霊王の手によって間一髪で命を救われ、強大な加護を与えられた『聖猫』への転生。
新たな生命として、状況を理解できる高い知性を得た彼女に、やがて残酷な事実が告げられた。
主であるショウの〝死〟。
何も知らされず、見送ることすら許されなかった。
平等に抱き上げてくれたあの温かい腕が、永遠の別れだった。
自分だけがその真意に気づかず、無邪気に彼を見送ってしまっていたのだ。
あんなに無謀でお転婆だったのに、主の死地への覚悟を察することすらできなかった。
残されたのは、最後に頭を撫でてくれた掌の記憶と、自動餌やり機から落ちる無機質な餌の音の記憶だけ。
圧倒的な後悔と喪失の圧力が、彼女の精神を内側から粉砕しようとした。
防衛本能が働き、彼女は己の感情という機能を心の奥底へ完全に封じ込めた。
その後、雷の大聖霊から強大な破壊の力をもたらす加護を与えられても、彼女が選んだ武器は身の丈ほどもある巨大な大盾だった。
「エっちゃんは、なんでその装備を選んだのです?」
無邪気なマロンからの問いに、彼女が答えることはなかった。
ただ、彼女は短い「ん」という返事の奥に、かつての活発さを隠して千年の沈黙を守り続けてきた。
そして現在。
水の大聖霊が座す聖域の外郭を護る絶対防衛機構、複合結界砦。その内部に構築された試練の空間である水の回廊の最奥。
光の届かない水底から急浮上した巨大な顎が、新たな主の身体を丸呑みにせんと迫っていた。
全長二十メートルを超える、巨大なワニを思わせるフォルム。
表面には、岩盤のように分厚い鱗の意匠が全身を隙間なく覆い尽くしている。大聖獣の力を模した防衛機構、グラシア・ファントム。
局所的に時空属性の魔法を行使した直後のレオは、空中で体勢を立て直せず、完全な死角を突かれていた。
時間の加速を展開した反動によるマナの滞留と、空中での姿勢制御の遅れ。加護なきヒト属の限界出力を強引に引き出した代償が、彼から一切の行動の自由を奪っていた。
その決定的な隙を、狡猾な獣は見逃さなかった。
離れた浅瀬に立つシルビアとピアも、即座に動く。
シルビアが両拳にマナを集中させるが、距離が遠すぎる。ピアが乱水流で敵の軌道を逸らそうと試みるが、非圧縮性流体である海水の抵抗を無視して迫る異常な質量と速度が、それを上回る。
死が、圧倒的な物理的圧力となってレオの足元から迫り上がってくる。
何も気づかず、ただ待つことしかできなかった千年前のあの日と同じ、喪失の光景が、クレアの網膜に焼き付こうとしていた。
気付いたら、クレアの体は勝手に動き出していた。
雷を纏ったクレアが稲妻のスピードで、間一髪で盾を振りぬく。
よろけるグラシア・ファントムと、着地した主の間に降り立つクレア。
「アタシが!!」
目に涙を溜め、グラシア・ファントムにショートソードの切っ先を向け、大声で叫ぶクレアに、レオが目を見開く。
「アタシが、護るんだ!!!」
瞬間、千年間彼女の心を覆っていた分厚い枷が、音を立てて砕け散った。
「エクレア……」
何も知らずに待っているだけだった過去の自分とは違う。今の自分には、事実を知る知性と、護るための力がある。
だからクレアは護るための盾を選んだ。
もう二度と、大切なものを失わないために。
抑え込んでいた後悔と喪失への恐怖が、強烈な熱量となって彼女の小さな身体を内側から焼き尽くす。
フルフェイスマスクの奥で、クレアの薄い金色の瞳が限界まで見開かれた。
「固有魔法――」
千年間押し殺してきた莫大なマナと、主を護り抜くという強烈な意志。それらを触媒にして極限まで圧縮し続けた、臨界を突破する雷のエネルギーが、右手に握られたショートソードの先端へと爆発的に収束していく。
「――≪千年の雷≫!」
雷を纏ったクレアは、稲妻の速度で白に近い黄色の光の線を引きながらグラシア・ファントムへと肉薄する。
体勢を僅かに戻したグラシア・ファントムも抵抗するように巨大な尻尾を薙ぎ払うが、クレアは雷のヴェールを纏った大盾によってそれを強引に弾き返した。
そのまま、クレアはグラシア・ファントムの上顎にショートソードを突き刺す。
グラシア・ファントムの分厚い鱗は、雷魔法を無効化する極めて純度の高い絶縁体だ。ショートソードの刃渡りと、通常の雷撃では、表面を撫でるだけで内部には到達しない。
だが、いかなる絶縁体であっても、それを超える電圧――すなわち絶縁破壊電圧が印加されれば、内部の電子構造が強制的に破壊され、電流が導通する。
彼女が刃に込めたのは、対象の絶縁性を物理的に短絡し、破壊するための極大の電圧だった。
白に近い黄色の閃光が、大盾の表面から地底湖全体を照らし出す。
ショートソードが突き刺さった分厚い上顎の鱗の一点が、許容量を超えた電圧によって瞬時に炭化し、絶縁層が崩壊する。
開かれた突破口から、膨大な雷のエネルギーが模倣体の内部へと雪崩れ込んだ。
塩分を含み、通常の真水よりも遥かに通電性が跳ね上がった海水のフィールドにおいて、内部に直接放たれた雷撃は逃げ場を失い、マナで構成された巨躯の隅々までを蹂躙する。
重低音が遅れて響き渡り、空間を支配していた濃密な靄が超高温によって一瞬にして蒸発する。
マナの集合体が、硬質な音を立てて内側から激しく明滅した。
次の瞬間、グラシアの模倣体は内部からの膨張に耐えきれず、爆発的に崩壊した。
無数の光の粒子と青いマナの残滓が、水飛沫と共に空間へと散華していく。
圧倒的な環境支配が解除され、地底湖に静寂が戻った。
離れた岩場に立つピアは、完全に言葉を失っていた。
千年の長きにわたり、彼女の常に脱力した姿を知る海の女王でさえ、あのような姿を見るのは初めてだった。
シルビアもまた、少女のあまりの変貌と規格外の破壊の波動を前に、息を呑んだまま硬直していた。
レオは体勢を立て直してクレアのいる浅瀬へ駆け寄る。
大盾を下ろしたクレアが肩で荒い呼吸を繰り返している。盾を持つ手は限界を超えたマナ放出の代償で微かに震えていたが、その背中は真っ直ぐに伸びていた。
レオは剣を鞘に納め、静かにクレアを見つめた。
常に脱力した態度を崩さなかった彼女が、あれほどの激情を露わにし、自らを盾として命を救った。
千年の沈黙を破ってまで、護る意志を示したのだ。
レオはクレアの前に片膝をつき、その小さな視線に高さを合わせた。
「……エクレア、お前」
レオが言葉を失い見つめると、クレアは荒い呼吸を少しずつ落ち着かせ、フルフェイスマスクのバイザー越しにレオを見つめ返した。
「おかえり、あるじ」
千年前に言えなかった言葉を、ぽつりとこぼす。
その佇まいからは、先ほどまでの張り裂けるような激情の余韻はすでに消え去っている。
「エクレア……」
千年間、彼女の根底に染み付いていた、静かでどこか焦点の合わないような、いつもの脱力した空気が戻っていた。
「ああ。ただいま、エクレア」
クレアがレオに飛びつく。そんな彼女を、レオはしっかり受け止めた。




