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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第3章 蒼波ヲ凌グ

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第41話 水音の心奥『フルト・コル』

 水の大聖霊の試練、その最奥『水音の心奥フルト・コル』。


 重厚な石扉を抜けた先、空間には濃密な潮の香りと共に、鼓膜を微かに圧迫するような重苦しい空気が充満していた。


「海水?」


 レオの短い呟きに、シルビアが周囲を見渡し、ピアが静かに頷く。


 扉の周辺には僅かな石積みの浅瀬が残されているのみで、その先へ広がっていたのは、見上げるほど高いドーム状の岩肌の天井と、深く水が張られた巨大な地底湖のような空間だった。


 天井には水底から放たれる微かなマナの光が反射し、青い波紋が絶えず不気味に揺らめいている。


 水面が激しく波立ち、その中心から数万トンの海水を強引に押し退けるようにして、巨大な影が浮上した。


 全長二十メートルを超える、巨大なワニを思わせるフォルム。表面には、物理的な硬度を視覚からも感じさせる、岩盤のように分厚い鱗の意匠が全身を隙間なく覆い尽くしている。その巨大な顎には、鋼鉄すら容易く噛み砕くであろう鋭利な牙がびっしりと並んでいた。


 水の大聖霊の眷属たる大聖獣フルト・マンバの『グラシア』。


 その姿と力を模倣して創り出された防衛機構である。これまでの光や風の回廊でアーヴィンやヴァルグが呼んでいた規則に倣うならば、さしずめ【グラシア・ファントム】といったところか。


 レオは無言のまま≪クロノ・ボックス≫から特製フルフェイスマスクを取り出し、ピア、シルビア、クレアへ渡す。全員が素早くそれを被り、顔全体を完全に密閉する。


 装備の利点を活かし、レオたちは空間を立体的に使えるよう、地底湖に点在する浅瀬や小島のような岩場へとそれぞれ散開して陣取る形となった。


 マスクを被ったピアが、深い青の瞳を細めて前方を見据え、隣の浅瀬に立つレオへと、マスク越しにくぐもった声で静かに口を開いた。


「レオ。あの巨体に惑わされるなよ。奴は狡猾だぞ」


 千年の時をグラシアと共に歩んできた、海の女王からの短い忠告。


「ああ」


 レオの内に眠る英雄ショウの記憶が、かつて知る大聖獣の性質を呼び覚まし、その言葉を肯定する。


 決して力押しだけの獣ではないという事実を、レオは改めて脳内で確認し、体内のマナ循環を即座に切り替えた。


 第五位階時空属性魔法≪アトリオス≫。変換先は氷属性。


 レオは無言のまま右手を翳し、対象の動きを物理的に固定するべく、前方の水面ごと敵の巨体を完全に凍結させようと絶対零度に近い冷気を放った。冷気が水面を這い、波立つ青い水を急激に白く染めていく。


 だが、水面は完全に凍りつくことなく、重く鈍い音を立ててシャーベット状の氷泥へと変わるに留まった。


「やっぱ、ダメかー」


 レオが短く息を吐く。


 事前の推測通り、この地底湖の水は塩分を含んだ海水だった。塩水は真水よりも凍る温度が下がる凝固点降下が起きる。さらに、水は常に激しく波立ち、不規則に動いている。


 加護なきヒト属の限界である第五位階の冷却出力では、この圧倒的な質量を持つ動的な海水を、その運動エネルギーごと瞬間凍結させるには至らなかった。


 対するグラシアの模倣体は、一歩も動くそぶりを見せない。静かに水面の中央に佇むその姿は、不気味なほどの静寂を保っている。


 だが、急激な速度で空間を濃い靄が包み込んでいく。


 第八位階水属性魔法≪フルトネブラ≫。


 それは空間の理を書き換える、広域環境支配。


 眼下の海水だけではなく周囲の空気をも巻き込んで瞬時に微細な水滴へと変換し、濃密な靄として空間を覆い尽くして物理的に視界を奪う。さらに、充満した水属性のマナが探知を無効化し、呼吸器から直接水分を吸収させて疑似的な溺死すら誘発する、単純にして汎用性に優れる凶悪な魔法だ。


 グラシアの模倣の姿が見えなくなった。


 先ほどまで眼前に佇んでいた二十メートルを超える規格外の質量が、濃い靄の中へと完全に溶け込み、一切の気配を絶ったのだ。


 フルフェイスマスクの耐圧バイザー表面に微細な水滴がびっしりと結露して張り付き、物理的にも視界を著しく悪化させる。視界と探知が完全に塞がれ、どこに敵が潜んでいるのか全く分からない。


 靄に閉ざされた空間に重くのしかかる〝恐怖〟。


 その濃密な靄の底から、唐突に水面を割る重い音が響いた。


 異変を察知したレオが、仲間に注意を促そうと鋭く振り返る。


 だが、遅かった。


 レオが振り返ったその時。離れた岩場に立つシルビアの背後には、一切の気配を絶ったまま浮上していたグラシアの巨大な顎が、すでに彼女を丸呑みにしようと大きく開かれていた。


 分厚い靄のヴェールを突き破り、見えない恐怖から一転して背後から襲い来る、逃げ場のない圧倒的な質量の暴力。本能ではなく、極めて狡猾に計算し尽くされた狩りの手口。


「シルビア!!」


 レオが鋭く叫んだ。


「だから狡猾だと云ったであろう!油断するな!」


 隣の岩場に立つピアが叫ぶ。彼女は水属性魔法で瞬時に足元の水面を固定して足場を作り、力強く水を蹴って跳躍すると、シルビアの身体を抱えて間一髪その場から飛び退いた。


 空気が破裂するような凄まじい咬合音が、地底湖に響き渡った。直前までシルビアが立っていた小島のような岩場の一つを、グラシアの強靭な顎が丸ごと噛み砕き、虚しく粉砕する。


 飛び散る岩の破片が水面に叩きつけられ、激しい水柱が幾つも立ち上った。


「すみません、ピア様!」


 ピアに抱えられて別の浅瀬へと着地したシルビアは、短く謝罪し、即座に足元の岩を強く踏み締め、両拳を構えて重心を落とす。


 一撃必殺の奇襲を空振りに終わらせたグラシアの巨躯は、深追いすることなく瞬時に濃い靄の中へと没し、再び気配を絶った。


「これは、厄介だな」

 

 白一色の靄の中、視界と探知が完全に塞がれ、どこに敵が潜んでいるのか全く分からない。いつ、どの方向から、あの規格外の質量が襲い掛かってくるのか。挙句の果てにはマナを隠蔽してくるのだ。


 予測すら立たない見えない恐怖が、靄に閉ざされた空間に重くのしかかった。


 その直後だった。


 全く気配を絶ったまま、今度はレオの死角、真後ろから音もなくグラシアの巨躯が現れた。


 分厚い靄のヴェールから唐突に姿を現し、巨大な顎がレオを丸呑みにしようと大きく開かれて迫る。


 レオは振り返るより早く、とっさに強固な時空結界≪ヘキサガード≫を最大出力で背後へと展開した。


 六角形ハニカムの空間断絶壁が、レオの背後をドーム状に覆い尽くす。


 直後、グラシアの巨大な顎が結界に激突した。


 空間が悲鳴を上げるような高周波が鳴り響く。


 敵の放つ異常な質量と突進力の前に、加護なきヒト属の限界点である第五位階の出力では完全に押し切ることはできず、六角形の結界に無数の亀裂が走る。


 結界が砕け散り、絶対的な質量の暴力がレオを捉えようとした、その瞬間。横から黄色い閃光が、稲妻のごときスピードで空間を切り裂いた。


 第六位階雷属性魔法≪プティル・ヴェール≫。


 聖霊の加護を持つ者のみが行使できる、属性の理をその身に宿す「纏い」の聖霊魔法。雷のマナを肉体に定着させ、神経伝達速度と筋収縮を強制的に雷速へと引き上げた最も小柄な影、クレアだ。


 彼女は自身の身の丈ほどもある重厚な大盾を大きくスウィングし、雷の運動エネルギーと遠心力の全てを乗せて、グラシアの模倣体の横っ面を強引にぶん殴った。


 空気が破裂するような激しい衝突音が地底湖に轟く。


 理不尽なまでの物理打撃は、グラシアの分厚い絶縁鱗を激しく揺るがし、二十メートルを超える巨躯を横へと大きく弾き飛ばした。


 結界への圧力が消え、グラシアが水面を滑るように体勢を崩す。


 間髪入れず、クレアは片手剣に白黄色のマナを極限まで収束させた。ただでさえ水は導体だが、塩分を含んだ海水となればその通電性はさらに跳ね上がる。


 彼女は無言のまま、膨大な雷のマナを帯びた刃を、体勢を崩したグラシアの巨躯ごと水面へと突き立てた。


 白黄色の閃光が地底湖を照らし出し、高圧電流が水を媒介にして空間全体を駆け抜けた。


 重低音が水底を震わせ、水面が激しく沸騰する。


 だが、白煙が晴れた水面の中央で、靄の底から再び体勢を立て直した敵の本体は全く動きを止めることなく、巨躯をくねらせて悠然と佇んでいた。


「……雷もかよ」


 レオが短く呟く。自身の弱点の克服は、聖獣の基本ということだ。


 グラシアの持つ分厚い鱗は、単なる物理的な装甲であると同時に、雷魔法を無効化する極めて純度の高い「絶縁体」であった。


 敵はクレアの雷撃を意に介することなく、瞬時にマナを隠蔽し、再び濃い靄と水底へと姿を消した。


 その見えない恐怖の中から、全方位からの波状攻撃が容赦なく襲い掛かる。


 グラシアの模倣体は、上空の濃密な靄の粒子を極限まで圧縮し、無数の鋭利な水刃を生成すると、豪雨のように全方位から一斉に降り注がせた。


 レオは瞬時に第四位階時空属性防御魔法≪グラヴィス≫を、散開する仲間の周囲へそれぞれ展開する。


 空間の屈折ではなく、物理攻撃そのものの理に干渉する魔法。四人の身体を覆うように生成された濃密な時空の膜が、降り注ぐ水刃の速度を強制的に鈍らせ、その軌道を滑らせて逸らしていく。


 ピアも自身の岩場から両腕を振り上げ、幾重もの乱水流の壁を上空に展開し、時空の膜をすり抜けた水弾の威力を削ぎ落とした。


 防御に集中するピアの背後。水面から音もなく現れた巨大な顎が、彼女を丸呑みにしようと迫る。


「ピア!」


 離れた岩場に立つレオからの鋭い指示に、クレアが即座に反応する。


 最も小柄な彼女は自身の立つ岩場を力強く蹴り飛んでピアの岩場へと空中で割り込み、自身の身の丈ほどもある重厚な大盾を構えた。


 迫り来る巨大な顎と圧倒的な質量の暴力を、逃げることなく無表情のまま真正面から受け止める。


 激しい衝突音が地底湖に轟き、衝撃波が周囲の海水を大きく吹き飛ばす。


 大聖霊の眷属である彼女の小さな身体は、絶大な質量を受けてなお一歩も後退しない。


 巨躯が弾かれ、体勢が崩れる。


 決定打には至らないと悟った敵は深追いせず、即座に体勢を立て直し、再び靄と水底へと没して気配を隠蔽した。


「マジで厄介だな」


 レオは言葉少なに吐き捨て、耐圧バイザー越しに靄の空間を見据え、静かに両手を広げた。


 だが、安堵する間は微塵も与えられなかった。


 敵の姿が消えた直後、今度は四人が陣取る岩場を下から砕くように、無数の水槍が水底から突き上げられる。


 各自が即座に岩場を蹴って跳躍し、空中で身を躱す。だが、着地点を正確に予測していたかのように、靄の奥から極太の水柱が横薙ぎに放たれた。


 レオが時空結界を展開し、ピアが乱水流で軌道を逸らす。


 結界をすり抜けた分厚い水塊を、シルビアが身体強化を限界まで施した両拳の連撃で物理的に粉砕し、クレアが雷を纏わせた大盾で強引に弾き返す。


 だが今度は、死角の水底から本体の巨大な顎が、防戦に回った彼らを丸呑みにせんと音もなく這い出てくる。


 防いでは躱し、躱しては耐える。


 水槍、水柱、そして二十メートルを超える異常な質量の強襲。その攻撃パターンは増え続け、四人に選ぶべき防御の選択肢を強制的に増やしていく。


 視界と探知を奪う濃密な靄の中、いつ、どこから、どれほどの質量と魔法が襲い掛かってくるのか。予測不能の波状攻撃が思考のリソースを飽和させ、じりじりと四人の体力とマナを削り取っていく。


 反撃の糸口すら掴めない、完全な防戦一方の消耗戦。


 この絶望的な環境支配を打破すべく、レオは耐圧バイザー越しに靄の空間を見据え、静かに両手を広げた。


 第五位階時空属性攻撃魔法≪モメンタス≫。


 レオの足元を中心として、地底湖の広範囲に急激な時空の奔流が引き起こされる。強烈な時間の加速の波が水面と空間をなぎ払い、空間を漂う微細な水滴群を一気に水面へと叩き落とそうと試みる。


 だが。


 空間を支配する白一色のヴェールは、晴れなかった。


 時空の奔流が靄に干渉した瞬間、地底湖の底から湧き上がる数万トンの海水と、大聖獣の模倣体が放つ規格外のマナが、真っ向からそれに衝突したのだ。


 加護なきヒト属の限界である第五位階の出力では、圧倒的な質量とマナ密度で構成された大聖獣の環境支配を全体から覆すには至らない。


 レオの放った時空の波は、重く濃密な靄の壁に物理的に押し潰され、虚しくかき消された。


 最大出力の魔法を力で破られ、レオは短く息を吐き捨てる。


 その決定的な隙を突くように、再び全方位からの波状攻撃が襲い掛かる。


 シルビアがレオの前に躍り出た。彼女は浅瀬を蹴り、迫り来る巨大な水弾と水槍を、両拳による正確無比な打撃で次々と撃ち落としていく。


 その死角を補うように、クレアが大盾を構えてレオの背後を死守し、ピアが乱水流の壁でさらに防衛線を厚くする。


 仲間たちが決死の防衛でレオを守り抜く。


 その稼ぎ出された僅かな時間の中で、耐圧バイザーの奥で、絶え間なく続く敵の攻撃を観察し続けていた。


 水槍の発生間隔、水柱の軌道、そして靄の濃度の微細な偏り。


 一見するとランダムに見える攻撃の数々には、空間の逃げ道を塞ぎ、獲物を特定の座標へと誘導するための明確な指向性があった。


 「なにかいい手はないですか!?レオさん」

 「もう少しです!みんなは攻撃の準備を!」


 レオの脳内で演算が完了する。レオは足元の岩を蹴り、誘導された着地点をあえて外して空中に身を躍らせると、右手を剣の柄にかけ、左手を特定の空間へと向けた。


 「みんな、離れて!」


 それぞれが別の岩場へと跳躍し、レオから距離を取る。


 第五位階時空属性攻撃魔法≪モメンタス≫。


 今度は広範囲ではなく、計算から導き出した空間の一点にのみ、強烈な時間の加速を局所的に展開する。


 勘ではない。ずっと見てきた行動パターンから推測された、確信の一手。


 滞空力を強制的に奪われた微細な水滴群が水面へと叩き落とされ、分厚い靄の一部が円形に抉り取られるように晴れた。


 「見えた!」


 視界が開けた先、水面から浮上しようとする巨大な顎の輪郭が露わになる。


 全員がそちらに目を向けたその時。グラシアの模倣体が嗤ったように見えた。


 靄が晴れた先にいたのは、本体ではない。


 周囲の海水とマナを高密度に圧縮して創り上げられた、精巧な水の虚像だった。


 大聖獣の模倣体は、自身の行動パターンを読まれることすらも計算に組み込み、レオのリソースを空振りさせるための囮として配置していたのだ。


 局所的とはいえ、再び第五位階の魔法を行使した直後。空中にいるレオの動きが、僅かに硬直する。


 狡猾な獣が、自ら作り出したその決定的な隙を見逃すはずがなかった。


 本命は――真下。


 光の届かない水底の暗闇から、二十メートルを超える異常な質量を伴った巨大な本体の顎が、凄まじい速度で急浮上してきた。


 回避も防御も間に合わない。


 完全な死が、レオの身体を丸呑みにしようと迫る。

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