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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第3章 蒼波ヲ凌グ

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第40話 周到なる水底の証明

「……水中かあ」


 レオが前方を眺めながら呟く。


「水中ですねえ……」

「ん……」


 シルビアとクレアも、微かに首を傾げて同調した。


 第三層の最奥に鎮座する重厚な石扉。それを押し開いた先に待っていたのは、続くはずの回廊ではなかった。


 扉を抜けた先は、三方を無機質な石壁に囲まれた行き止まりの小部屋である。そして、その床の中央には、直径十メートルほどの巨大な円形の縦穴がぽっかりと口を開けていた。


 その穴には、縁のすれすれまで瑠璃色の水がなみなみと湛えられている。水面は不気味なほどに波一つ立てず、光の届かない底知れぬ深淵を覗かせていた。


 第四層。それは空間そのものが完全に水没した、水中の回廊。


「どうした?あれほど念入りに準備をしておきながら、いざ我らの領分へ飛び込むとなると足がすくんだか。お前が作ったその大層な装備は、ただの飾りではあるまい」


 隣に並んだマリノン女王ピアが、腕を組んだまま可笑しそうに問いかける。


「いや、飾りじゃないけどさ。頭では対策できていると分かっていても、いざ飛び込むとなると少し気合が要るってだけだ」

「ええ、同感ですわ。いくら安全だと分かっていても、いざ水底へ身を投じるとなると少し勇気がいりますもの」


 シルビアが苦笑交じりに同意する。


 レオは小さく息を吐き、何もない空間に右手を翳した。空間が水面のように波立ち、時空属性の収納魔法≪クロノ・ボックス≫が展開される。


 レオはそこから、四つのフルフェイスマスクを取り出した。


「密着衣は流石に頭部までは覆えないからな。こっちは雷の電流を逃がす特殊な導電加工を施した特製フルフェイスマスクだ。水圧から頭部を保護しつつ、雷を周囲の水へ逃がす。それと、足元には、このフィン付きのブーツを履いてくれ」


 渡されたそれを見て、ピアが呆れたようにため息をつく。


「……なんだこののっぺりとした覆面は。装飾も少ないではないか」

「機能性を追求したらこうなっただけだ。俺たちヒュマーノが、水中での視界確保出来るようにするバイザーも兼ねてるから、我慢してくれ」


 レオはそこで一度言葉を区切り、少しだけ申し訳なそうに眉を下げた。


「……ただ、全身をこの密着衣とマスクで覆っちまうから、セイレーン族本来の水かきやエラ呼吸は使えなくなる。ピアの本領を発揮しづらい装備になっちまって、すまない」


 ヒュマーノ族の環境適応を優先した結果、水陸両生の種族のアドバンテージを潰してしまうことに対する、技術屋としての率直な謝罪。


 だが、ピアは意にも介さず、肩を揺らして豪快に笑った。


「カッカッカッ!何を言い出すかと思えば。たかが一枚の布を隔てた程度で、この私の泳ぎが鈍るなどと本気で思っているのか?下らないことを気にするな」


 ピアの言葉に、レオは小さく息を吐いて口元を緩めた。


 そんな中、クレアが無言でマスクを被り、少しだけ誇らしげにポーズを決める。どうやら気に入ったらしい。


 シルビアも苦笑しながらそれらを受け取る。

 

 全員がマスクとフィンを装着し、準備を整える。


「ほれ、行くぞ」


 ピアが冷やかすように口角を上げ、短く促すと、先頭を切って縦穴の水面へと歩み出た。


 躊躇なく虚空へ足を踏み出した彼女の身体は、水飛沫すらほとんど上げず、重力に従って青き水底へと滑らかに吸い込まれていく。


 それに続き、レオ、シルビア、そしてクレアが次々と縦穴へと身を投じた。


 全身が冷たい水に包まれる。だが、息苦しさも、鼓膜を圧迫する水圧もない。


 水面に触れた瞬間、密着衣とマスクに付与された時空属性の結界が即座に起動し、彼らの身体の周囲に、陸上と全く同じ環境を保持する薄い空気の層を形成していた。


 レオは降下しながら、自身の肩口にある小さな魔術陣に指で触れた。シルビアとクレアもそれに倣う。


 これにより密着衣の機能が『抵抗無し』へと切り替わり、彼らの周囲から水という流体の手応えが完全に消失した。


 何の抵抗も受けない彼らは、まるで何もない空中を自由落下するかのように、猛スピードで深淵へと沈んでいく。


 水中に没したピアの姿は、陸上とは比較にならないほどの流麗さを帯びていた。


 彼女は魔術陣を操作せず『抵抗有り』のまま、水という流体の手応えを利用して優雅に泳ぎ、猛スピードで落下していくレオたちに難なく並走している。


 全員が纏う特製の密着衣の指の間に組み込まれた人工的な水かきと、足元の小さなフィンが連動し、セイレーン族本来の遊泳能力を極限まで引き出していた。


 ピアは泳ぎながら、試しに指先で外側の水を撫でるようにマナを流した。彼女の意思に従い、結界の外側にある水流が抵抗なく渦を巻く。


 外からの致死的な水圧を完全に防いでいながら、内側からのマナや物理的な力には一切干渉しない。一方通行の物理透過構造という、極めて理不尽な環境を生み出していた。


 やがて、光の届かない群青色の水底が眼下に迫ってきた。


『抵抗無し』のまま激突すれば、陸上で高所から墜落するのと同じ物理的衝撃を受けてしまう。


 レオたちは水底へ到達する直前、再び肩口の魔術陣を操作し『抵抗有り』へと切り替えた。


 瞬間、水という流体の手応えと浮力が一気に復活し、降下速度に急激なブレーキがかかる。彼らはまるで落下傘パラシュートを開いたかのようにふわりと速度を殺し、音もなく水底の岩場へと着地した。


「……聞こえますか?」


 着地して体勢を整えたレオが口を開くが、その肉声がクリアに響くことはなかった。


 結界内の空気は確保されているものの、声の振動は水という媒質に吸収され、大きく拡散してしまう。外にはくぐもった重低音しか伝わらず、まともな会話は成立しない。


 すぐ隣に降り立ったシルビアが、なんとか聞き取ったように頷く。


「……ええ、近くなら、少しだけ……」


 距離が離れれば、声によるコミュニケーションは不可能だ。


 レオは仲間たちを見回し、右手で自身の目元を指差し、次に手を使って合図を送るジェスチャーを見せた。


『以後は身振り手振りで連携しましょう』


 その意図を的確に汲み取り、ピアが静かに頷き、シルビアとクレアも親指を立てて同意を示した。


 光の届かない群青色の水底は、不気味なほどの静寂に支配されている。だが、その静寂は偽りだった。不意に、彼らを取り囲むように全方位の水流が不自然に乱れた。


 レオがバイザー奥の視線を鋭くする。下方から湧き上がる無数の気泡。


 その奥から現れたのは、サメやエイ、巨大な海蛇を模した水の回廊守護者ガーディアンの群れだった。


 純粋な水属性のマナで構成されたその自律兵器たちは、水流の抵抗を一切受けることなく、地上では考えられないほどの異常な速度で全方位から殺到してくる。鋭利な牙やヒレを模した水刃が、彼らの肉体を微塵に切り裂こうと迫っていた。


 水中の立体的な包囲網。前後左右、そして上下からの同時襲撃。通常のヒュマーノ族であれば、逃げ場のない死地だ。


 だが、レオたちは降下を続けながら静かに迎撃の態勢をとった。


 最初に動いたのは、最も小柄な影だった。


 クレアが、自身の身の丈ほどもある重厚な大盾を構え、前方へと滑り出る。


 レオはクレアに視線を向け、顎で前方をしゃくる。


 クレアは小さく頷き、右手に握られた片手剣に、白に近い黄色の稲妻を極限まで収束させていく。


 水は電気を通す。通常であれば空間全体へ電流が拡散し、全員が感電する自爆行為だ。


 だが、特注の密着衣に施された完全な絶縁処理と、電流を表面に伝わせて周囲の水へと逃がす導電性のマスクが、その致命的なリスクを防いでいる。


 自らの弱点を事前の準備で克服し、回廊守護者ガーディアンの逃げ場を奪う広範囲攻撃へと変えていた。


 回廊守護者ガーディアンの群れが、獲物を喰いちぎるべく無数の牙を剥いて迫る。


 クレアは無言のまま、膨大な雷のマナを纏った刃を、眼前の水中へと無造作に突き立てた。


 白に近い黄色の閃光が、暗い水底を真昼のように照らし出す。


 雷撃が放射状に爆散した。


 導電体である水という環境を逆手に取った、回避不可能な空間全体への面制圧。


 電流の走る速度は回廊守護者ガーディアンの機動力を完全に上回っている。高圧電流が水を媒介にして、迫り来る何百というエネルギー体の群れを一瞬にして貫いた。


 水中で火花が明滅し、雷鳴に似た重低音が激しく水底を震わせる。


 電流に焼かれた回廊守護者ガーディアンたちは進行方向を保ったまま痙攣し、次々とマナの結合を崩壊させて水に溶けていった。


 急激な温度上昇によって周囲の水が沸騰し、無数の気泡となって立ち上る。


 その圧倒的な雷の嵐の中心にありながら、レオ、シルビア、ピアの三人は、涼しい顔でその光景を眺めていた。


 レオは親指を立ててクレアを称賛し、放電を免れて死角から迫ってきた残存の回廊守護者ガーディアンへと向き直る。


 レオは右手を挙げ、三本指を立ててシルビアへ視線を送る。『右から三体』。


 シルビアは静かに頷き、水流を蹴って飛び出す。彼女の拳には、癒やしのマナによる強化と微細な振動が乗せられていた。


 水流の抵抗を無視して繰り出された正拳突きが、巨大なサメ型の頭部に叩き込まれる。


 一方通行の物理透過構造を持つ結界は、彼女の内側からの力に一切干渉しない。


 シルビアの拳から放たれた衝撃波は、結界に阻害されることなく外部の水中へとロスなく伝播し、一体目の頭部を粉砕した。


 そのままの勢いで二体目の胴体を蹴り折る。三体目が噛み付こうとするが、直接波及した衝撃波が回廊守護者ガーディアンの内部構造を内側から崩壊させた。


 水中では空気中よりも衝撃波の伝播が速く、かつ威力が減衰しにくい。その環境特性を利用した打撃が、回廊守護者ガーディアンの内部マナ配列を的確に破壊していく。


 ピアは上方を指差し、自らが引き受けると身振りで示した。


 女王の意思に従い、頭上から襲い掛かろうとしていたエイ型の群れに対し、周囲の水流そのものが鋭利な鞭となって反転する。非圧縮性流体である水が極限まで加速されて叩きつけられ、逃げ場のない水圧の暴力が回廊守護者ガーディアンを両断して完全に押し潰した。


 左から来る海蛇型には、レオが自ら動く。


 銀閃が走る。時空結界によって水の抵抗を完全に殺したレオの剣撃は、陸上と寸分違わぬ速度でエネルギー体の胴体を両断した。


 完璧な対雷装備と環境適応を得た彼らにとって、水中の包囲網はもはや脅威ではなかった。


 視線とハンドサインだけで完璧な連携を取り、淡々と眼前の障害を排除していく。


 破壊と放電が繰り返される縦穴を底まで降りきると、そこからは横へと続く広大な回廊が待ち受けていた。


 光の差し込まない水中の回廊は、方向感覚はおろか、上下の感覚すら曖昧にさせる。


 深度が深まるにつれ、視界は完全な漆黒へと近づいていく。


 レオは目を閉じ、クレアとのパスを繋いだ。


 聖猫との主従契約によって得られる能力、『猫の目』による視覚共有。本来猫であるクレアの澄んだ金色の瞳が捉える鮮明な水底の景色が、レオの脳裏に直接反映される。


 視界を持たず不安げに壁を手探りするシルビアの手を、レオがそっと握り、自身が先導するとジェスチャーで伝えた。


 シルビアは安堵したように小さく頷き、四人は延々と続く暗い回廊をさらに奥へと泳ぎ進んだ。


 その直後、彼らの下方にある暗闇の中から、これまでとは桁違いの巨大なマナ反応が湧き上がってきた。


 レオが左手を開いて下へ向け、警戒のサインを出す。


 水底から巻き起こった巨大な水流の渦が、彼らを飲み込もうと牙を剥いた。


 渦の中心には、十メートルを超える巨大な海蛇型の回廊守護者ガーディアンがとぐろを巻いていた。


 純粋な水のマナで構成された巨躯は、それ自体が恐るべき質量兵器だ。周囲の水を巻き込みながら、凄まじい速度で突進してくる。


 通常のヒュマーノ族であれば、その水流の壁に触れただけで全身の骨が砕け散るほどの水圧だ。


 ピアが前に出た。


 両手を広げ、自らのマナを周囲の海水へと流し込む。女王の意思に呼応し、迫り来る巨大な渦潮と真っ向から衝突する逆回転の渦が発生した。


 二つの巨大な水流が激突する。


 衝突点において水分子が極限まで圧縮され、限界を超えた圧力が全方位へと解放される。乱気流が周囲の岩壁を削り取り、発生した微細な気泡が視界を白く染め上げる。互いの運動エネルギーが完全に相殺し合い、激しい水流の壁を作り出した。


 ピアが水流を相殺した一瞬の隙。彼女はレオへ鋭い視線を送った。


 レオはそれに頷きで応え、シルビアと共に弾丸のように海蛇の懐へと飛び込む。


 レオが拳を握るジェスチャーをシルビアに送る。


 シルビアは全身のバネを使い、巨大な海蛇の胴体へ渾身の回し蹴りを叩き込んだ。


 爆発的なマナの振動が海蛇の内部構造を激しく揺さぶり、強固な装甲に無数の亀裂を走らせる。


 レオが時空結界を足場にして軌道を変え、亀裂の入った海蛇の首元へと剣を突き入れる。刃が深く食い込み、マナで構成されたその巨体を維持する核を正確に貫いた。


 巨大な海蛇がマナの粒子となって水中に溶けていく。


 だが、息をつく暇はなかった。巨大な個体を排除した隙を突くように、彼らの頭上――光の届かない漆黒の天井付近から、新たなマナの反応が無数に湧き上がっていた。


 それは、死角である上方から音もなく降下してくる、小型の回廊守護者ガーディアンの群れだった。


 だが、暗闇を見通すクレアの金色の瞳は、その奇襲の軌道を完全に捉えていた。


 クレアが再び大盾を構え、片手剣に白黄色の稲妻を収束させた。


 二度目の大放電。


 暗い水底が青白く閃光に包まれ、上方から迫っていた小型の回廊守護者ガーディアンの群れが一瞬にして焼き尽くされた。


 周囲のマナ反応が完全に沈黙したことを確認し、レオは剣を鞘に納めた。


 だが、試練の道はここで終わりではない。


 周囲のマナ反応が沈黙したのは、ほんの一瞬に過ぎなかった。


 光の届かない漆黒の水底から、次なる回廊守護者ガーディアンの群れが絶え間なく湧き出してくる。破壊と放電を繰り返しても、回廊守護者ガーディアンの数は一向に減る気配を見せない。


 そこからは、終わりの見えない水中の消耗戦が続いた。


 上下の感覚すら曖昧になる暗闇の中、壁に手を這わせ、クレアの視覚共有だけを頼りに、ひたすらに前進する。


 前後左右、あらゆる死角から迫り来るサメやエイを模した水刃を、四人は無言の連携で淡々と破壊し続けた。


 歩みを止めれば全方位からの殺意に呑み込まれる無音の空間。ヒュマーノ族にとっては、精神を削り取られるような閉塞感と恐怖がつきまとう。


 しかし、レオたちが立ち止まることはなかった。


 時空結界が水圧と冷気を完全に遮断し、常に陸上と同じ空気と温度を保ち続けている。


 さらに、ブーツに仕込まれたカーボン製のフィンが僅かな力で推進力を生み出し、絶え間ない戦闘による肉体的な疲労を極限まで抑え込んでいた。


 ――それから、数時間が経過した頃。


 延々と続いていた回廊守護者ガーディアンの襲撃が不意に沈黙し、壁の手触りが途切れた。


 長い回廊の終端。


 そこには行き止まりの壁が現れ、代わりに頭上の天井に、入り口で飛び込んだ時と同じような「円形の縦穴」がぽっかりと口を開けていた。


 暗闇を見通すクレアが上を指差す。四人はそれに従い水を蹴り、その縦穴を重力に逆らうように一気に浮上していく。


 水面から顔を出すと、そこは冷ややかな空気の満ちる石造りの空間だった。


 縦穴から続くその床は、腰ほどの深さの浅瀬になっている。四人は水中から脱して水を掻き分けて進み、その先にある濡れた石畳の上へと這い上がった。


 レオたちは頭部を覆っていた特製マスクを取り外し、大きく息を吐き出した。


「……ようやく、声が届きますね」

「ええ。身振り手振りでの戦闘も新鮮でしたが、やはり言葉が通じる方が安心しますわ」


 シルビアが前髪を払いながら微笑む。


「……これほど退屈な水中戦は初めてだ。お前のその異常な準備の良さには、本当に呆れるほかない」


 ピアが小さく鼻を鳴らし、足元の水を払う。


「ははは……」


 レオは苦笑し、マスクとフィンを≪クロノ・ボックス≫へ収納して前方を見据えた。


 彼らの数十メートル先。最奥に鎮座する巨大な石扉が姿を現していた。周囲の空気を拒絶するように微かな燐光を放っている。


 水の大聖霊の試練を締めくくる、最後の扉。


 この先にあるのは、おそらく大聖霊の眷属を模した存在が待つ、回廊の心奥。

 

 レオが歩み寄り、静かに扉を押し開く。


 水の回廊『フルト・コリドー』の最終局面への道が開かれた。

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