第39話 宵の安息と備えの流儀
ベル歴995年、雷の月6日。
水の大聖霊アイルヴィーズが座す聖域、アイルヴィーズフォール。
その内部へと直接足を踏み入れる前に立ちはだかるのは、聖域の外郭を護る絶対防衛機構である五重輪。
そして、その五重輪の内部に構築された試練の空間こそが、水の回廊である。
非圧縮性の流体として鋼鉄すら拉げる水圧を生み出し、息つく間もなく全方位から襲い掛かる物理的な質量の暴力である第一層。
微細なエアロゾルと化した濃霧が光を乱反射して視界を真っ白に染め上げ、呼吸器官から直接水分を吸収させることで、陸上での溺死を誘発する第二層。
それらの過酷な試練を抜けた先の第三層で一行を待ち受けていたのは、あらゆる防御を透過して内部へと侵入する「浸透と溶解」の階層であった。
水属性の恐ろしさは、単なる力任せの破壊だけではない。微細な隙間に入り込み、細胞の結合を融解させ、対象を内側から崩壊させる浸透圧の暴力。
物理的な盾をすり抜けるその性質に対し、レオ・クロースたちは細胞レベルでのマナの反発と、時空属性の結界による空間の位相断絶を駆使し、侵入してくる水分を極限まで阻害した。
水属性の攻撃は、単なる質量による打撃とは異なり、防壁の隙間を縫って対象を内側から破壊しようとする。その執拗な浸透圧の暴力に対し、レオは時空の位相をずらすことで、水分の侵入経路そのものを断ち切ったのである。
さらに、透過してくる敵の防壁を、聖女シルビア・スワンのマナの振動を乗せた物理打撃で強引に実体化させて粉砕するという手段も交え、数時間に及ぶ知と武の複合試練を踏破した。
シルビアの拳は、透過する水のマナ配列を強制的に共振させ、打ち砕く。その精密なマナコントロールと、レオの空間把握能力が噛み合い、彼らは第三層の扉をこじ開けた。
防衛機構の中核を的確に破壊し、重厚な石の扉を越えた先にある安全地帯。
ギミックが完全に沈黙し、攻撃的なマナの波長が消失したセーフティーゾーン。
そこに展開された空間拡張式・簡易邸宅【クロノ・ヴィラ】の居間には、微かな駆動音と共に最適な温度と湿度が保たれた、極上の安息空間が広がっていた。
分厚い外壁と時空の結界が、聖域内に未だ残る重苦しい湿気や、骨の髄まで冷えるような冷気を完全に遮断している。床には柔らかな絨毯が敷かれ、間接照明が目に優しい光を落としていた。
壁に掛けられたアンティーク調の置時計の針は、夜の十時を回っている。
聖域の内部には昼夜の概念など存在しないが、肉体と精神の摩耗を防ぐため、彼らは時計の針に従って厳格に生活リズムを管理していた。
外の過酷な環境に引きずられず、自分たちのペースを保つことこそが、長丁場の試練を生き抜くための最も確実な戦術であった。
広々とした居間には現在、レオとマリノン海洋国の女王ピア・マリノンの二人だけが腰を下ろしている。
聖女シルビアと、雷の聖猫エクレアは、連れ立って奥の浴室へと向かっていた。
「――どうぞ」
レオは自らティーポットを傾け、二つの陶器のカップに一滴の飛沫もこぼすことなく正確にハーブティーを注ぎ分けると、その一つを対面の長椅子で片膝を立てて寛いでいるピアへと差し出した。
「すまんな。しかし、何度過ごしてもたいしたものだな。この【クロノ・ヴィラ】という空間拡張の魔道具は。この試練の合間で中に入ったのは三度目だが、お前の時空属性が組み込まれているとなれば、この広さと快適な環境も納得がいく」
ピアはカップを受け取ると、天井の送風口を一瞥し、感嘆の息を漏らす。
「安全地帯になったとはいえ、外は未だ重苦しい空気が残っている。だというのに、この内部には微塵もその影響が及んでいない。……特に水回りの機構は秀逸だ。過酷な試練の最中にあって、これほどのリラクゼーションを得られるとはな」
「基礎的な魔導回路は親父の設計を利用したが、環境の最適化や空調の循環構造は、俺の時空属性の結界術式を応用してある。外の位相と完全に切り離しているからな」
レオは自身の分のカップを手に取り、香り高いハーブの蒸気を吸い込んだ。
「なるほどな。だが、私が呆れているのはこの箱のことだけではないぞ」
ピアはカップをソーサーに戻し、先ほどまで着用していた装備を思い返すように口を開いた。
「先ほどまで着ていた黒を基調としたあの密着衣だ。水圧と水流を無効化するだけでなく、水中での呼吸すら可能にする時空属性の結界が付与されていると聞いた。さらには、肩口の小さな魔術陣だ」
ピアは感心したように小さく息を吐いた。
その魔術陣に指で触れるだけで、結界がもたらす水中における流体抵抗の有無を瞬時に切り替えられるギミックが組み込まれているのだ。
抵抗無しにすれば水底をまるで水が無いかのように歩行や疾走をすることができ、抵抗有りにすれば致死的な水圧を防いだまま水という流体の手応えを残して泳ぐことができる。
「これなら、いざ水中に潜ることになっても、我らセイレーン族の遊泳能力を損なわず、ヒュマーノ族のお前たちも陸上と寸分違わぬ戦闘が可能というわけだ。おかげで、第一層の圧殺空間も、第二層の溺死を誘発する濃霧も、ただの散歩道へと成り下がった」
ピアは深い青色の瞳を細め、レオを真っ直ぐに見据える。
「さらには、第三層での浸透圧対策として、マナの反発係数を自動で調整する機構まで組み込まれていただろ。……お前、一体どこまでこの回廊の仕掛けを予測していたのだ?」
「予測というか、水という物質が持つ物理的な性質をリストアップして、それぞれに対する最低限の対策を講じてきただけだよ」
レオは事もなげに答えた。
「最低限、だと?」
「ああ。水は非圧縮性の流体だから、加速させれば鋼鉄すら切断する質量と圧力の暴力になり得る。気体になれば霧や蒸気として呼吸を奪い、光を乱反射して視界を塞ぐ。液体として細胞に浸透すれば内部から組織を破壊する」
レオは言葉を区切り、指先に≪アトリオス≫で変換した水属性魔法の水の球体を浮かべた。
「そして何より、水は導体だ。電気を通す。……雷の聖猫であるエクレアを連れてくる以上、彼女の放つ雷撃が周囲の水を通じて我々自身を感電させないよう、装備に完全な絶縁処理を施すのは必須の作業だったからな」
「理屈はわかるが、雷属性の魔法を無効化するほどの絶縁素材など、そう簡単には手に入らんだろう?」
「ちょうどいい素材があったんだよ。以前訪れた〝竜の喉〟にいたギガヴァラゴアがね」
「竜の喉……例の浸食洞か。だが、ギガヴァラゴアなどという魔獣の名は聞いたことがないぞ」
ピアの呟きに、レオは小さく頷いて苦笑をこぼした。
「ああ。バカでかくて、ちょっと特殊なヴァラゴアのことだよ。俺が勝手にそう呼んでるだけ。ガルズ湖から流入してくるマナに当てられたせいでだと思うが、異常に巨大な個体だったよ」
「なるほどな。水門のない場所では直接あの淀んだマナを含む水が入る、か」
「そうそう。んで、調べたら、その分厚い皮は、雷属性の魔法を無効化するほど絶縁性に優れていてね」
レオは各自の個室に置かれているであろう密着衣を思い浮かべながら、言葉を継いだ。
「ただ、そのままでは分厚すぎて水中での機動性を損なう。だから、極限まで薄くスライスして、キュートの糸と編み合わせたんだ。そこに時空属性の結界を重ね掛けすることで、水中の機動性や関節の動きを阻害せずに外部からの電流を完全にシャットアウトする構造にしてある」
「……さらりと言うが、それをすべて事前の準備で完結させるなど、異常だぞ」
ピアは呆れたように息を吐く。
「いくら千年前の記憶があるとはいえ、この水の回廊『フルト・コリドー』の具体的な構造まで知っていたわけではあるまい。それなのに、まるで解答を知っているかのように全ての装備が最適化されている。……しかも、同行するとも云っていなかった私の分の装備まで用意されているとはな」
ピアの指摘に、レオは軽く肩をすくめた。
「予測だよ。アーヴィン国王も、ヴァルグも、なんだかんだ理由をつけて一緒に試練へ来たからな。きっと海の女王様も来るだろうとね」
「……あやつらめ」
「ははっ。とはいえ一から作ったわけじゃなく、フローの予備として用意していたものを、キュートの糸の伸縮性を活かしてピア用に微調整しただけだよ」
「……本当に、食えない男だな、お前は」
レオが軽く肩をすくめると、ピアはふっと口元を緩めた。
「その慎重さと周到さ。かつて共に戦線を駆け抜けた時と何も変わっていない。むしろ、クロース家という手足を得た分、さらに質が悪くなっているな」
「お互い様だろ。監視役と言いながら、嬉々として水流の刃を素手で弾き飛ばす女王様も、千年前からちっとも変わっちゃいない」
レオが皮肉混じりに笑う。
「セイレーン族の水陸両生の生態と機動力には助けられている。エラ呼吸と手足の水かき、そして眼球の保護膜。水中の環境下では俺たちヒュマーノ族とは比較にならないほどの優位性を持っているからな」
「当然だ。水中は我らセイレーンの領分だからな」
二人の間に、かつての戦場を共有した者だけに許される、静かな笑いが交わされた。
奥の浴室の扉が開き、シルビアが居間へと姿を現した。
「――お待たせいたしましたわ。とても良いお湯でした」
彼女はすでにレオが用意した予備の室内着に身を包んでおり、その手にはバスタオルが握られている。水圧と水流に揉まれ続けた一日の疲労を洗い流し、その表情は幾分か和らいでいた。
シルビアの前には、普段結い上げているお団子を解き、濡れたアッシュブロンドの髪を下ろした五歳前後の愛らしい幼女――クレア――が、うとうとと船を漕ぎながら歩いていた。
シルビアは歩きながら、丁寧にエクレアの濡れた柔らかな髪をタオルで拭き上げている。
「お疲れ様です、シルビアさん。三日目の疲労の抜け具合はどうですか?」
レオが声をかけると、シルビアは柔らかく微笑んで長椅子に腰を下ろした。
エクレアは、レオの隣の空いた空間によじ登ると、そのまま丸くなって自身の特等席へと収まり、静かな寝息を立て始めた。
「ええ、完璧ですわ。エクレアちゃんと温かいお湯に浸かるだけで、水圧に耐え続けた筋肉の強張りがすっかり解けました」
「そいつは良かった」
ピアが横目でシルビアを見やる。
「しかし、シルビアのあの拳も大したものだ。防御を透過して内部を破壊しようとする相手に対し、マナを振動させた拳で直接結合を崩す。……まるでアイゼンの鍛冶師が鉄を打つような精密さだったな。透過する相手を無理やり実体化させて殴り飛ばすなど、あれには私も少し驚いたぞ」
「お、お恥ずかしい限りですわ……。ですが、魔法が透過されてしまう相手には、物理的な衝撃でマナの結合を崩すのが最も手っ取り早いものですから」
シルビアが少し照れたように視線を逸らし、レオが新たに注いで卓の上に用意したハーブティーのカップを両手で包み込む。
「クラルテ様からの教えの賜物ですわ。透過する水属性の敵には、波長を物理的な振動で強制的にかき乱すのが一番だ、と。……とはいえ、手が少し痺れましたけれど」
シルビアが自身の拳を擦る。
「それに、レオさんが結界の綻びを的確に指示してくださったおかげです。それにしても、水というものがこれほどまでに厄介な特性を持っているとは思いませんでしたわ」
シルビアの言葉に、レオは静かに頷き、空になった自身のカップを卓に置いた。
「さて、明日に備えてそろそろ休むとしますか」
「ええ。ここまで乗ってきた寝台列車『ザフィーロ・マーレ』でのサファイアブルーの海を眺めながらの旅も快適でしたけれど、このお部屋のベッドも負けず劣らず素晴らしいですからね。ぐっすり眠れそうですわ。……それではお二人とも、おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
シルビアが微笑みながら立ち上がり、一礼して自室として割り当てられた部屋へと向かった。
「一等寝台と比較されるとは、嬉しいね」
レオが微笑みながらシルビアの背中を見送ると、ピアはカップに残っていたハーブティーを飲み干し、ふと目を細めた。
「そういえば、ヴァルグのやつは息災か?」
「ああ。元気だったよ」
「そうか。それにしても、あの頑固なヴァルグが、よくヒュマーノ族の、しかもクロース家の人間を受け入れたものだな。あいつは昔から、機械や鉄の臭いを酷く嫌っていたはずだが。……いや、それ以上に、何と言ったかな。あやつの弟……」
「ヴォルグのことか?」
「ああ!そう!それだ!あいつの他種族への憎悪は、ヴァルグの比ではなかったはずだぞ」
「千年前の記憶のおかげだな。俺がショウだとわかってからは、話が通じるようになった。まあ、森が崩壊するっていう物理的な事実を突きつけたのもあるが。それに、一番の決め手になったのは、親父が考えた『森に溶け込むマナトレイン』の設計図だ」
「マナトレインだと?あのエルフの森に、あの鉄の塊を通すというのか?」
ピアが目を丸くする。
「鉄は使わないよ。間伐材を圧縮・硬化させて作る『木製マナトレイン』だ。そして、エルフたちには外装の格子トンネル作りを協力してもらう」
「……なるほど。森の木材を使い、森の民の技術も取り入れる、か」
ピアが息を漏らす。
「ああ。森を傷つけずに資源を運べる。ヴァルグたちも納得してくれたよ」
「フッ。意固地だったあやつらも、王族としての責任と、お前たち親子の技術の前に折れたというわけか。完成した暁には、セルバンの森を訪ねてみるとしよう」
「歓迎するよ。……ただ、少し予定が狂いそうなんだ」
「予定?」
「ああ。この試練が終わったら、一旦クロロンに戻って線路の敷設を手伝う予定だったんだが……」
「オリガタのことか。気になっているのか、レオ」
「あんなこと訊かせておいて、よく云うよ」
「カッカッカッ。まあ、違いない。……だが、一人で抱え込むなよ?お前には優秀な仲間がいる。私やフロー、他の聖猫たちもいることを忘れるな」
「ああ、わかってるよ。ありがとう、ピア」
二人が軽く笑い合うと、徐にピアが立ち上がった。
「風呂か?」
「ああ。明日もあるからな。私もいただいて、寝るとするよ。お前はどうするのだ?」
「俺もあとで入るよ。エクレアを部屋に寝かしたら、少し明日の準備をしておく」
ピアは軽く手を挙げて、浴室への扉へと向かおうとして、すぐに足を止めて振り返ると、口元を柔らかく緩めた。
「……明日も、お前のその呆れるほどの周到さを見せてもらうとしよう」
「ははっ。あまり期待しないでほしいね」
ピアが浴室へと消えると、レオは隣で丸くなって寝ている、幼い姿のクレアをそっと抱き上げ、休息を待つ個室へと歩みを進めた。




