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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第3章 蒼波ヲ凌グ

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第37話 水都の水門

 ベル歴995年、雷の月3日。


 マリノン海洋国の首都セレナの中心を雄大に貫く主流の大河を、一隻の大型船が静かに滑っていく。


 波の揺れを極限まで抑えるオリガタ皇国由来の双胴船の構造に、アイゼン王国の魔導装甲を施した特注の装甲魔導双胴船。


 街中に張り巡らされた細い水路には到底入り込めないその巨大な威容が、大河の豊かな水量を切り裂いて進む。


 その特別客室の窓から、シルビア・スワンは外の景色をじっと見つめていた。


 海上聖殿であるヴィーゼリア大聖堂での聖なるおつとめを無事に終え、一行が次なる目的地として目指すのは、首都の外れ、ガルズ湖畔に鎮座する世界最大の浄化水施設。


 マリノン・ガルズ大水門『蒼瀑の大水門カタラク・ゲート』。


 十年に一度、聖女が直接マナを補填し、ガルズ湖の「怨」の淀みを浄化する神聖な儀式。その水門巡礼の日程は、不測の事態を防ぐために公にはされていない。


 しかし、沿岸部や水門周辺の広場には、すでに無数の群衆が詰めかけていた。


 マリノンの国民だけでなく、他国からの観光客や商人たちが、歴史的な瞬間に立ち会おうと熱気を帯びている。


「日程を伏せても、これだけの人出ですか」


 シルビアは純白の法衣の袖を整えながら、感嘆の息を漏らす。


「無理もない。水門周辺の魔力炉が最大出力で稼働し始めれば、マナの流れで儀式が近いことは誰にでも分かる」


 対面のソファに深く腰掛けていたマリノン女王、ピア・マリノンが、手元のグラスを揺らしながら応じる。


 昨晩の大衆食堂でのラフな姿とは打って変わり、今日のピアは海を思わせる深い青の王衣を纏っている。艶やかな青色の髪は結い上げられ、首の付け根にあるセイレーン族特有のエラを隠すことなく堂々と晒していた。


「それに、アイゼンの〝匠聖〟が数日前から派手に施設を弄り回しているのだ。察しの良い連中なら、聖女が到着する日を計算するくらい容易いだろう」


 ピアの言葉に、シルビアは腕の中で丸くなっている小さな毛玉を優しく撫でた。


 薄い金色の瞳を閉じて静かな寝息を立てている、耳折れ猫のエクレアだ。


「ん……」


 エクレアが微かに身じろぎし、シルビアの腕にすり寄る。


「レオさんは、フルーナ様と合流して先に向かわれましたね」

「ああ。護衛任務の傍ら、親父の陣中見舞いと、自身が関わった魔道具の稼働確認に行きたいと言っていた。……親父の方は相変わらず人の話を聞かない仕事狂いだが、息子の方は随分と気が利く男に育ったものだ」


 ピアが口端を吊り上げ、満足げに頷く。



 船の速度が徐々に落ちていく。


 窓の向こうに、巨大な壁が視界を覆い尽くすように迫ってきた。


 ガルズ湖の水をせき止め、加圧ポンプと特殊繊維フィルター、そして珊瑚の層によって不純物を物理的に押し出す、魔導と物理法則の結晶。


 接舷による軽い衝撃が船体に走った。


 重厚な扉が開かれ、潮の香りと共に、外の喧騒が波のように押し寄せてくる。


 タラップが降ろされると同時に、銀色の軽鎧を纏ったマリノン騎士団の兵士たちが一斉に下船し、桟橋から水門の祭壇へと続くルートの両脇に展開した。


「安全確保、完了しました」


 騎士団長の報告を受け、ピアが立ち上がる。


「行くぞ、シルビア」

「はい、陛下」


 シルビアはエクレアを抱き直すと、ピアに続いて船室を後にした。


 二人がタラップの上に姿を現した瞬間、広場を埋め尽くしていた群衆から、地鳴りのような歓声が湧き上がった。


 千年の統治を続ける女王への敬意と、稀代の聖女への信仰が入り交じった熱狂。


 シルビアは表情を崩さず、凜とした歩みで桟橋を渡る。


 周囲の喧騒に反応し、腕の中のエクレアが薄い金色の瞳を開けた。


「うるさい……」

「我慢してくださいね、エクレアちゃん。すぐ終わりますから」


 シルビアが小声で宥めると、エクレアは再び目を閉じ、法衣の中に顔を埋めた。





 一方、その頃。


 『蒼瀑の大水門カタラク・ゲート』の上部。ガルズ湖の水を物理的かつ魔術的に濾過するための巨大な中枢プラントへと続く、無機質な石造りの通路。


 眼下で湧き上がる群衆の歓声は分厚い防音壁に遮られ、微かな振動として足元に伝わってくるのみである。


 その薄暗い通路を、レオ・クロースは淡々と歩みを進めていた。


 隣を並び歩くのは、深い藍色の姫カットの髪を揺らし、豪奢な和服を着崩した女性。水の大聖霊の加護を持つ聖猫フローのヒト化姿、フルーナである。


 彼女は右手に細長い煙管を持ち、紫色の煙を細く吐き出しながら、長い裾をさばいて優雅に歩いている。


「下には随分とヒトが集まっていたな。……こっちは静かに陣中見舞いができそうで何よりだよ」


 レオが前方を向いたまま、無用な喧騒を避ける技術者としての本音を口にする。


「表舞台は女王と聖女の役目。裏方の様子見は、クロースの技術屋の特権でありんすね」


 フルーナは煙管の吸い口を唇から離し、艶然と微笑む。


「ああ。目立つのは柄じゃないからな。それに、お前が同行してくれた方が検問の手間も省ける。助かるよ」


 王家の承認とクロース家の証明があればレオ単体でも通行可能だが、女王の側近であるフルーナが同行していれば、現場での無用な確認作業を省く「保険」になる。


「ふふっ。旦那様の手間が省けるなら、安いものでありんす」


 二人の前方、通路の突き当たりに重厚な金属の扉が見えてきた。


 扉の両脇には、海を思わせる青と銀の軽鎧を纏ったマリノン騎士団の衛兵が二名、長槍を構えて直立不動の姿勢をとっている。


 彼らは近づいてくる足音に反応し、鋭い視線を向けた。だが、フルーナの姿を認めると、即座に槍を引き、恭しく一礼する。


「フルーナ様。ご苦労様でございます」

「ええ。大儀でありんす」


 フルーナは歩みを止めず、煙管を持った手を軽く振る。


 衛兵の一人が扉のロックを解除しようと動くが、もう一人の衛兵がレオの姿を見て動きを止めた。


「恐れ入ります、フルーナ様。そちらの御仁は……。いかに側近殿の同行者とはいえ、規定により、身分の確認をさせていただきたく」


 衛兵の言葉は丁重だが、その眼差しには国家の重要施設を守る者としての強い意志が宿っている。


「構いやせんよ。ほれ、旦那様」


 フルーナが横目で促す。


 レオは懐から、一枚の金属製カードを取り出した。


 八英雄の国連合防衛組織が発行する身分証兼決済ライセンス、【エナドカード】。


 レオはそれを、衛兵が提示した読み取り用の魔導水晶に静かにかざした。


 水晶が淡く発光し、無機質な音声が通路に響く。


『認証。アイゼン王国、クロース侯爵家、レオ・クロース様。ハンターランク、3級』


 その音声を聞いた瞬間、二人の衛兵の表情が驚愕に染まった。


 魔道具開発の最高峰であるクロース侯爵家の名。そして、この水門の基礎設計から維持管理に至るまで、彼らの一族がどれほど深く関わっているか、この施設を守る者であれば知らぬ者はいない。


「ク、クロース侯爵家の方でいらっしゃいましたか。大変失礼いたしました」


 衛兵たちが慌てて最敬礼の姿勢をとる。


「いや。警備の規定を厳守するのは当然の義務です。素晴らしい職務態度ですよ」


 レオはカードを仕舞い、衛兵たちに向けて短く労いの言葉をかける。


 金属の扉が左右に開かれ、内部から魔力炉の低い駆動音と、微かな機械油の匂いが漏れ出してきた。


 二人は衛兵に見送られながら、中枢プラントへと足を踏み入れた。


 空間の中央に鎮座する巨大な加圧ポンプのシリンダー。無数に張り巡らされた魔導回路と、特殊繊維や珊瑚の層を格納した強固な濾過ユニットが、整然と、かつ圧倒的な質量をもって配置されている。


 レオがこれまで間近で見たことがある水門といえば、自国アイゼンの『重闇の水門グラヴィ・ゲート』と、先日バーディアの丘から遠目に眺めた『聖なる水門ホーリー・ゲート』くらいのものだ。


 各国の守護聖霊の属性や地理的条件に合わせて全く異なる機構を持つ、七つの巨大な浄化施設。それらを八年周期で巡回し、ミリ単位の精度でメンテナンスし続けるという作業の全貌。


 設計図ではない、初めて見る他国の水門内の複雑怪奇な光景を前にして、レオは父オスヴァルトが一人で背負っている『世界に清浄な水を供給する』という責務の異常な重さと、その仕事の偉大さを改めて実感させられていた。


 魔力炉の安定した駆動音が響く空間で、クロース侯爵家現当主、オスヴァルト・クロースは、計器の数値を静かに見つめていた。


 数日前から行っていた大規模なメンテナンスと新型濾過装置の組み込みはすでに完了しており、今日は本番の稼働を見守るのみである。


「親父、調子は?」


 レオが声をかけると、オスヴァルトは肩越しに振り返った。


「よお、レオ。それにフローちゃんも」


 オスヴァルトは口端を吊り上げる。


「下は随分と騒がしいようだな。シルビアちゃんとピア陛下が到着したところか」

「よくわかるね」

「さっき監視塔からな」

「あー、なるほどね」

「お前もよく来たな」

「次の試練がこの国だからね。それより、儀式の準備は整いそう?」

「当たり前だ。誰にものを言ってやがる」


 オスヴァルトは巨大なシリンダーの側面を軽く叩いた。


「お前と一緒に作った新型濾過装置。組み込みは完璧に終わってる。珊瑚の層と特殊繊維のハイブリッド構造に、お前の時空属性の魔術陣を噛ませたことで、水圧変化の自動最適化が劇的にスムーズになった」


 オスヴァルトが手元の計器を指差す。


 針は安定した数値を示し、魔力炉からは規則的で力強い駆動音が響いている。


「潮の干満による水圧のブレも、時空の位相をコンマ数秒ずらすことで完全に相殺できてる。……正直、俺がこれまで組んできた『魔導透水殻マナ・ペルメア』の中で、一番美しく仕上がったぜ」


 職人としての純粋な喜びに満ちた父の言葉に、レオは小さく息を吐き、肩の力を抜いた。


「それは良かった。自分が関わった魔道具が実際にどう稼働するか、気になってたからな」

「カッカッカッ。心配するな。お前のその時空属性ってやつは、インフラの制御において反則級の性能を持ってるぜ」


 オスヴァルトは豪快な笑みを収めると、ガラス張りの監視窓へと歩み寄り、眼前に広がる巨大なガルズ湖を見つめた。


「今はレオがいるからいい。だが、その後のことを考えりゃ、いつまでもこの対症療法を続けるわけにはいかねえ。……まあ、なんだかんだ云ったが、一番は根元を断つことだよな」


 オスヴァルトが静かに、職人としての重みを伴った声で呟く。


 フルーナが煙管の煙を細く吐き出しながら、オスヴァルトの隣へ並んだ。


「……さて。あとは、聖女様のお仕事でありんすね」


 レオも歩み寄り、数百メートル下を見下ろす。


 白亜の祭壇に向かって、ピア女王に先導されたシルビアがゆっくりと歩を進めているのが見えた。

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