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箱庭と猫 第二部 ―聖霊の試練編― 上  作者: 山本陽之介
第3章 蒼波ヲ凌グ

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第34話 ザフィーロ・マーレの旅情

 ベル歴995年、土の月45日。


 暦の上では秋の深まりを告げる時期だが、赤道側に位置するアイゼン王国南端の海岸線は、まだ柔らかな暖かさを残している。


 それでも、海とは反対の山側に連なる広葉樹の森が僅かに色付き始めており、季節の確かな移ろいを伝えていた。


 ザフィア辺境伯領の海沿いを、深みのある青色の車体が滑るように駆け抜けていく。


 アイゼン王国とマリノン海洋国を結ぶ、寝台マナトレイン『ザフィーロ・マーレ』。


 サファイアの海を意味するその名の通り、優雅な流線型の車体は、マナ斥力による摩擦ゼロの浮上走行で、波の音すら置き去りにする静粛性を保っていた。


 その一等寝台の個室。


 空調の魔導具が快適な温度を保つ室内で、レオ・クロースは窓際のテーブルを挟み、備え付けのソファに深く身を沈めていた。


 白シャツにネクタイを締め、ブラウンのチェック柄ベストを合わせた、知的で軽快な旅装。過酷な試練を潜り抜けてきたハンターには見えない、年相応の青年の姿だ。


 個室に備え付けられたふかふかのベッドでは、薄い金色の瞳を閉じた耳折れ猫――雷の聖猫エクレアが、丸くなって静かな寝息を立てている。


 テーブルの向かいには、淡い水色の清楚なワンピースに身を包んだ聖女、シルビア・スワンが座り、車窓から見える果てしない水平線をどこか懐かしむように眺めていた。


 彼女自身の個室も隣に用意されているが、これからの旅程についての打ち合わせのため、レオの部屋を訪れていた。


「……海を見るのは、久しぶりですわ」


 シルビアが、サファイア色に輝く海面から視線を戻し、微かに目を輝かせながら言った。


「聖女教育の一環で、バーディアの沿岸地域を訪れて以来です。王都や大聖堂の近くにあるガルズ湖も、その巨大さ故に海のようにさざ波を立て、激しく岸壁にぶつかりますが……やはり、外洋の潮の香りと波のうねりは、また違った趣がありますわね」

「ええ。潮の匂いも波の音も、湖とはスケールが違う。……明日はちょうど、そのバーディアの沿岸都市駅に停まって観光する予定ですし、懐かしい場所をゆっくり見て回れますよ」


 レオが素直に旅を楽しむように微笑むと、シルビアも嬉しそうに口元をほころばせた。


「ふふっ、ありがとうございます。豪華な寝台列車に、途中下車しての観光まで……本当に、私たちが大聖霊様の過酷な試練に向かう旅の最中だなんて、疑ってしまいそうですわ」

「マリノンまでは二泊の旅ですからね。せっかくですから、優雅な旅を満喫しましょう。……いやあ、海っていいもんですね。なんだか、ずっと眺めていたくなりますよ」


 レオは手元の【マナロジカ】をテーブルに置き、車窓の景色を素直に楽しむように目を細めた。


 風の国セルバンでの過酷な試練を終え、次元の狭間にある『箱庭』へと帰還してから、十五日が経過していた。


 この二週間、レオは箱庭の工房に篭り、自身やシルビア、そしてシャルルの装備の修繕に没頭していた。


 風の刃と異常な気圧差によって引き裂かれた防具の修復。そして何より、水の大聖霊アイルヴィーズが待つ次なる試練を見据え、新たな魔道具と装備の調整を行っていた。


 もとよりレオは、この八大聖霊を巡る旅を決断した時点から、各属性に対する基礎的な対抗策を想定し、ある程度の装備を先行して組み上げていた。


 そのため、今回の準備はゼロからの開発ではなく、事前の設計に現場のデータを擦り合わせる微調整の域で完了している。


「それにしても、レオさんの仕事の速さには驚かされます。あのボロボロだったコートが、新品同様に戻っているなんて。今はトランクの中ですが、いざという時には心強いですわ」


 シルビアが感心したように言う。


「モノづくりは、私の本業ですからね。……それに、キュートが丈夫な糸をたっぷり残していってくれたおかげですよ。あいつ、今はセルバンに戻って、リゼやヴァルグたちの手伝いをしてるみたいです」

「まあ。あんなに小さな体で、本当に働き者ですわね。……でも、今回はご一緒できなくて、少し寂しいですわ」


 シルビアが少し寂しそうに微笑むと、レオも苦笑して同意するように頷いた。


「ええ、俺も少し寂しいですよ。……でも、あいつのおかげで修繕もスムーズに終わりましたしね。それに、シルビアさんには修繕した戦闘用装備と一緒に、新しい防具も渡しておきましたよね?」

「ええ。あの、黒の長袖インナーシャツとタイツですわね。とても滑らかで手触りの良い生地でしたけれど……あれが、次の試練への対策なのですか?」


 シルビアが小首を傾げると、レオは頷いた。


「次のマリノン海洋国での水の試練……『フルト・コリドー』は、おそらく水中や、それに近い環境での戦いが想定されます。そうなれば水圧や、呼吸ができない状況を強いられるはずですからね」


 レオの言葉に、シルビアの表情が少しだけ引き締まる。


「だからこそ、あのインナーが必要なんですよ。あれには、時空属性の結界魔法と空調の術式が付与してあります」

「時空属性の結界を、衣服に……?」

「ええ。着用してマナを軽く流してもらえれば、頭の先から指の先までを完全に包み込む時空属性結界と、時空属性魔法による空間空調が自動で発動します。水圧を遮断し、結界内で呼吸と快適な温度を維持することで、水中でも陸上と全く変わらない活動が可能になるんです」

「まあ……。相変わらず、レオさんの技術は非常識の塊ですわね」


 シルビアが目を丸くして感嘆の声を漏らすと、レオは飄々と肩をすくめた。


「備えあれば憂いなし、ですよ。水中を陸と同じように歩けるなら、こちらの土俵に引きずり込めますからね」


 レオはそこで言葉を区切り、ふっと肩の力を抜いて柔らかく微笑んだ。


「……と、難しい試練の話はここまでにしておきましょうか」

「え?」

「今はまだ、優雅な旅行の最中です。想定ではありますが、試練の対策は済ませてありますから、今はただ、この景色と紅茶を楽しみませんか?」


 レオの言葉に、シルビアもまた緊張を解き、花が咲くように明るく笑った。


「ふふっ、ええ、そうですわね。……せっかくの列車旅行なのですから、存分に満喫させていただきますわ」

「まあ、よほど緊急じゃないかぎり、今後もマナトレインは大いに利用していきますけどね」

「ふふっ。楽しみです」


 その時、ベッドの方で微かな気配が動いた。


 丸くなって眠っていたエクレアがむくりと起き上がり、前足を伸ばして小さく欠伸をする。そして、淡い光に包まれたかと思うと、その姿が猫からヒトへと形を変えた。


 光が収まった後に現れたのは、アッシュブロンドの髪をお団子に結い上げた、五歳前後の愛らしい幼女――エクレアのヒト化した姿である『クレア』だ。


 彼女が身に纏っているのは、レオが着ているブラウンのチェック柄ベストとよく似た柄の、可愛らしいワンピースだった。


 クレアはぽふっとベッドから降りると、とてとてとレオの足元まで歩み寄り、眠たげな薄い金色の瞳でレオを見上げた。


「……だっこ」


 彼女が、両手をいっぱいに広げて短く要求を口にする。


「はいはい、おはよう、エクレア」


 レオは苦笑しながら、その小さな体をひょいと抱き上げ、自身の膝の上に乗せた。


 クレアは特等席に収まると、安心したようにレオの胸元へコテンと頭を預ける。


 その愛らしい様子を見て、向かいに座るシルビアが頬を緩め、優しく微笑みかけた。


「おはようございます、エクレアちゃん。よく眠れましたか?……海の景色、一緒に見ますか?」

「ん」


 クレアは短く答え、レオの膝の上から車窓の外へと視線を向けた。


 列車が緩やかにカーブを曲がり、眼下に広がる海岸線がどこまでも続いているのが見えた。


 まだ旅は始まったばかりだ。アイゼンを抜け、バーディアを経由し、水都マリノンへ至る二泊の旅。


 レオは膝の上のクレアの頭を優しく撫でながら、もう一度車窓の海へ目を向ける。


『ザフィーロ・マーレ』は、潮の香りを帯びた風を切り裂きながら、静かに、しかし力強く滑り続けていった。

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