第33話 千年哀歌
ベル歴995年、土の月30日、午後。
アイゼン王国西端に広がる荒れ地。そこに新たに建設された巨大魔導工房への間伐材の納品を終えたレオは、単独で次元の狭間である箱庭の地下倉庫を経由し、時空の扉を開いた。
扉の向こうに広がっていたのは、むせ返るような工房の熱気や金属が擦れる匂いではなく、清浄な生命の息吹に満ちた森の空気だった。
セルバン森林都市国の首都大樹クロプスト。その中層部に位置する王邸の客間である。
レオが扉を抜けて室内へと足を踏み入れると、留守を預かっていた聖女シルビア・スワンと、氷の聖猫シャリーナが安堵の表情を浮かべた。
シルビアは読んでいた書物を木製のテーブルに置き、静かに立ち上がる。彼女の周囲には、聖女特有の癒やしのマナが微かに漂い、室内の空気を穏やかに保っていた。
その隣の長椅子では、すっかり魔力を回復させたシャリーナが、足を組んだまま涼やかな視線を向けている。彼女の纏う氷のマナが、周囲の温度を僅かに下げ、快適な涼気をもたらしていた。
「お帰りなさいませ、レオさん。無事に納品は済みましたか?」
シルビアが微笑みながら歩み寄る。
「お帰りなさいませ、レオ様。つつがなく終わったようですね」
窓辺で待機していた風の聖猫リエリーも、優雅なカーテシーと共にレオを出迎えた。彼女は風の流れの僅かな変化から、レオが扉を開く数秒前にはすでにその帰還を察知していた。
「ああ、問題なく終わったよ。ヴァルグたちは執務室か?」
レオが尋ねると、リエリーの足元から手のひらサイズの黒い蜘蛛――闇の大聖獣カドリーの分身体であるキュートが跳ねるように飛び出してきた。
「エルフの王様たちなら、上の階でずっと待ってるッチュ!レオがいつ戻ってくるか、ソワソワしてたみたいだッチュ!」
「ははっ。ソワソワはしていないと思うが」
レオは苦笑しながら、自らの肩へ飛び乗ってきたキュートを指先で撫で、リエリーに案内を促した。
王邸の最上階。風が常に吹き抜ける執務室の蔓で編まれた扉を開けると、そこにはセルバン国王ヴァルグと、国境警備総隊長である王弟ヴォルグが待ち構えていた。
「戻ったか。わざわざ報告に来るとは、ご苦労なことだ」
上座に座るヴァルグ王が、静かに鷹揚な声をかける。
「ああ。最初の間伐材の納品は、無事に終わったよ」
レオは王の正面に立ち、友に対する気安い口調で結果を報告した。
「じいちゃんのマルセルはもちろん、西の領地を管理している兄のマルクスも、エルフの森から切り出された極上の木材を見て、完全に職人の血を滾らせていたよ。既存の設備じゃ対応できないって、すぐに専用の圧縮加工ラインを新設する手筈を整えていた。早めにかつ丁寧な仕事をお願いしてある」
「ほう。あの鉄の亡者どもが、我らの森の木をどのように扱うか、見物だな」
ヴァルグが深緑の瞳を細め、興味深そうに鼻を鳴らす。
その報告を聞き、傍らに立っていたヴォルグが腕を組みながら口を開いた。
「フン。こちらの間伐と、トレヴァ族による外装の格子トンネル、そして動物道の組み上げにも、それなりに時間はかかる。して、わざわざその報告のために戻ってきたのか?空間を繋ぐ奇妙な鍵があるのなら、そのまま西の地から次の目的地へ向かってもよかったものを」
ヴォルグの言葉は棘があるように聞こえるが、そこには純粋な疑問が含まれていた。
効率を最優先する技術屋であれば、納品を終えた地点から直接次の目的地へ転移するのが、最も理にかなっているからだ。
だが、レオは静かに首を横に振り、真っ直ぐにヴォルグを見据えた。
「ここからはアイゼン王国クロース侯爵家の次男、レオ・クロースとしての言葉です」
レオは居住まいを正し、静かに、しかし威儀を正して告げた。
「共に事業を進めるパートナーに対し、進捗の報告と一時的な別れの挨拶もしないまま姿を消すような無礼はいたしません。礼儀と礼節は、しっかりとわきまえているつもりですから」
レオの言葉には、一切の虚飾がない。
「それに、森の土台を護るための間伐とはいえ、貴方たちの同胞である木々を切り倒す大仕事です。その決断と労に敬意を払わずして、何が共同事業ですか。けじめは、つけるべきでしょう」
その言葉に、ヴァルグとヴォルグは僅かに目を丸くし、互いに顔を見合わせた。
エルフ族は森の理ことわりに寄り添うと同時に、他者への礼節と敬意を重んじる種族である。かつてこの森を訪れた初代ノーマン・クロースは効率だけを求め、用が済めば振り返りもしなかった。
だが、目の前の青年は違う。合理的な解決策を提示する冷徹な技術屋でありながら、その根底には相手の文化や感情に対する深い配慮が存在している。
「なるほど。お前の中にある英雄ショウの魂だけでなく、レオ・クロースという人間そのものが、実に義理堅い男だということがよく分かった」
ヴァルグが感心したように深く頷く。
「生意気なヒュマーノ族だと思っていたが、少しは見直してやろう」
ヴォルグもまた、組んだ腕を解き、フッと口元を緩めた。彼らの間にある種族の壁は、この数週間で確実に低くなっている。
「して、レオよ。車体と森の準備が整うまでの間、お前たちはどうするつもりだ?」
ヴァルグが今後の予定を問う。
「立ち止まっている時間はないからな。マリノンへ行くよ。アイゼン王国からマナトレインに乗り、半島まで向かうよ」
「なぜ、お前の持つ珍妙な鍵を使わぬのだ」
ヴォルグが疑問を投げた。
「旅情がないだろ、それじゃ」
「旅情だと?それだけのために、便利なモノを使わないというのか?技術屋らしくないな」
「なに云ってんだよ、ヴォルグ。マナトレインに乗ることだって、立派な技術学習だぞ。なにせ、この国にも通るわけだから、よりよいものに昇華するために、技術を学ぶのも技術屋じゃないか?」
「いいわけにしか聞こえんが?」
「正解!」
「正解って、お前……」
呆れるヴォルグと、どこか楽しげなレオのやり取り。それを聞いて、ヴァルグは懐かしむように目を細めた。
「マリノンか。あそこの女王であるピアは、私やショウと共に戦った千年前の戦友だ」
ヴァルグの深緑の瞳に、過ぎ去った日々の記憶がよぎる。
「セイレーン族は我々エルフと同じ長命種だからな。彼女は今も変わらず、あの海の国を治めているはずだ。私からも、よろしくと伝えておいてくれ」
「ああ、分かった。必ず伝えておくよ」
レオが頷くと、ヴァルグは少しだけ真面目な顔つきに戻った。
「あそこは我が国ほど排他的ではないが、オリガタ皇国と唯一国交を持ち、独自の文化や技術が入り交じる特殊な場所だ。油断はするなよ」
「ああ、分かっている。あそこには水の聖猫フローもいるし、事前の情報収集は抜かりなくやるよ」
レオが頷くと、ヴォルグが一歩前に出た。
「こちらのことは任せておけ。西の関所の結界は間伐に合わせて一時的に解くが、その間は私が全軍を率いて物理的に国境を封鎖する。マナトレインの完成までに、木路の土台と格子トンネルは、フェリシアやラウールたちと共に完璧に仕上げておこう」
「頼むよ、ヴォルグ。フェリシアさんにも、よろしく伝えておいてくれ」
レオが悪戯っぽく笑いながら言うと、ヴォルグの顔から瞬時に威厳が消え去り、耳の先まで沸騰したように赤く染まった。
「なっ!?き、貴様!兄者の前でまたその話を……!言われずとも、仕事の連携は取っている!」
「仕事の連携だけじゃダメだろ。千年越しの片思いなんだから、俺がいない間に少しは進展させろよ」
「やめろおおおお!!」
悲鳴を上げて頭を抱える国境警備総隊長の姿に、シルビアがクスクスと上品に笑い、ヴァルグ王は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「すまんな、レオ。こいつのその手の不器用さは千年前から治らんのだ」
「分かってるよ。まあ、そこが良いところでもあるけどな」
和やかな空気が流れる中、レオは出発の準備を整えるべく、懐から【ベルコネクト】を取り出した。
その時だった。
「ショウ。時間はあるか?」
ヴォルグが、いつになく静かな、低く落ち着いた声で問いかけてきた。
レオは鍵を下ろし、振り返る。
「ん?どうした」
「ついてきてもらいたい場所がある」
ヴォルグの瞳には、先ほどまでの狼狽は微塵もない。千年の重みを湛えた、戦士としての真摯な眼差しだった。
ヴァルグ王が、目を閉じたまま静かに頷く。
「行ってこい、レオ。……あいつが千年間、誰にも明かさなかった場所だ」
「……わかった」
レオはシルビアたちに少し待つように視線で合図し、執務室を後にしてヴォルグに続いた。
ヴォルグに先導され、レオは王邸を離れて森の奥深くへと足を踏み入れた。
エルフの身体能力と、レオのチャクラを用いた行軍。二人の足取りは風のように軽く、それでいて確かな踏み込みで斜面を駆け上がっていく。
道中、レオの視界には、これまでの鬱蒼とした森とは異なる光景が広がっていた。
森の理に寄り添う魔法と高度な木工技術を用い、エルフたちが密集した針葉樹の間伐を進めているのだ。
切り開かれた空間には千年来の陽光が差し込み、風の通り道が新たに形成されつつある。停滞していた森の時間が、確かに動き出していた。
間伐が進む針葉樹林帯を抜け、辿り着いた先は、大森林の深部ではなく、その背後にそびえる巨大な岩山だった。
霊峰クロロン山。
中腹に差し掛かる頃、周囲の巨木が少しずつ姿を消し、代わりに苔生した岩肌が目立ち始めた。
クロロン山の中腹。風の通り道から外れた、静寂に包まれた岩陰の窪みに、それはあった。
「ここから先は、私しか入れないように結界を張ってある」
ヴォルグが手を翳すと、空間が微かに揺らぎ、見えない壁が開いた。
足を踏み入れた先は、荒涼とした岩肌の中で、そこだけが不自然なほど静寂に包まれた小さな円形の空間だった。
中央に鎮座しているのは、風雨に晒され、苔生した古い石碑。
文字は刻まれていない。だが、その前に供えられた新鮮な白い花と、周囲の空気に満ちる祈りのマナが、それが何であるかを静かに物語っていた。
ヴォルグが足を止め、腰に帯びた長剣の柄にそっと手を添える。
その長剣は、過去の聖戦の折にショウからもらい受けたものだった。
「その剣、まだ使ってくれてたんだな。高台で会った時に見て、驚いたよ」
「ああ。忘れ形見だからな」
鉄嫌いのエルフであるヴォルグは、最初はあからさまに嫌がっていた。だが、使っていくうちに思いのほか手になじんでしまったらしく、慣れないながらもメンテナンスを欠かさず、千年もの間、大切に使い続けている。
相変わらず、まめな男だ。
レオは内心でそう思いながら、彼の言葉を待った。
「……ショウの、墓だ」
ヴォルグが石碑を見つめたまま口を開く。
「千年前、お前が世界を救うために犠牲となり、その名すら歴史から消し去られた時。私は、やり場のない絶望と怒りを抱え、ここにこの石碑を建てた。……以来、毎日欠かさずここで祈りを捧げてきた」
レオは石碑の前に進み出た。
かつての自分自身の墓標。奇妙な感覚だった。
だが、そこに込められたヴォルグの千年の祈りの重さが、静かに胸を打つ。
「私の他種族に対する憎悪は、ここから生まれていた。お前を犠牲にした世界を、そしてそれを隠蔽した者たちを、私は許せなかった」
「ヴォルグ。歴史に名を残さないことを望んだのは俺自身なんだよ」
「わかっている。兄者から訊いたさ。だが、それでも私は――」
「ヴォルグ……」
「……過去に囚われ、未来を拒絶していたのは、間違いなく私自身だ」
ヴォルグが自嘲気味に息を吐き、石碑に触れる。
「だが、お前は戻ってきた。またヒュマーノ族の姿だが、忌まわしいと思っていた技術を携え、そして……あの時と同じ、飄々とした態度でな」
その静かな懺悔の言葉を聞いて、レオは思わず、ふっと短く吹き出してしまった。
「……ん?何かおかしいことを言ったか?」
ヴォルグが少しだけ戸惑ったように問い返す。
「いや、ごめん。さっき、工房で兄貴の結婚っていうめでたい話を聞いてたのに、急に自分の死の墓標の話になったもんだから、少し温度差がおかしくてさ」
レオは苦笑しながら肩の力を抜き、いつものように軽く右手を挙げた。
「それにしても、〝またヒュマーノ族〟か。……お前が、千年前にフェリシアさんと結ばれていたら、俺は今頃エルフだったのかもな」
レオが悪戯っぽく笑いながら指摘すると、張り詰めていたヴォルグの顔が、一瞬にしてカッと赤く染まった。
「な、なにを馬鹿なことを!」
必死に威厳を取り繕おうとするヴォルグの姿に、レオは声を上げて笑った。千年の時を超え、二人の間にあった見えない壁が完全に消え去った瞬間だった。
「ははっ。まあ、冗談はさておき。……これからも祈りに来てくれよ。過去のショウを風化させないためにも。俺が訪れたときには一緒に来るからさ、頼むよ」
「ショウ……」
「それこそ、もしあの針葉樹林帯が崩落していたら、この場所に来るのも困難になっていたわけだ。道が残って良かったな、ヴォルグ。……千年もの間、忘れずにいてくれたことに感謝しているよ」
レオが穏やかに微笑むと、ヴォルグもまた、長年の憑き物が落ちたような安堵の表情を見せた。
「……ああ。もう、過去の悲劇を盾にして、今ある命を危険に晒すような愚かな真似はしない。お前が遺した技術と共に、これからの森を護るために前を向く」
ヴォルグは石碑に向かって深く一礼し、それからレオを真っ直ぐに見据えた。
「ありがとう、ショウ。……いや、レオ・クロース。お前が戻ってきてくれて、本当によかった」
一切の虚飾のない、戦友からの心からの感謝。
その真摯な言葉と礼節を受け、レオは姿勢を正し、アイゼンの貴族として完璧な礼をとる。
「……勿体なきお言葉、感謝いたします。ヴォルグ総隊長」
レオ・クロースとしての、礼節を弁えた静かな返答。
だが、直後にレオはふっと肩の力を抜き、いつもの飄々とした笑みを浮かべる。
「なーんてな。改めて礼を言うよ、ヴォルグ。ありがとう。……それに、フェリシアさんとの進展も、これからが本番だろ?」
「だ、だから!その話は今はいいだろうが!」
再び顔を赤くして怒鳴るヴォルグを背に、レオは軽やかな足取りで石碑を後にした。
クロロン山の中腹から戻ったレオは、王邸の客間で待つ仲間たちの元へと合流した。
それまで静かに控えていたシャリーナが、ふうと息を吐いて立ち上がる。
「ワタシの護衛任務はここまでね。一旦旦那様と一緒に箱庭へ戻って、そこからビストの国へ帰るわ。ングヴにも、今回の経緯を知らせておかないといけないしね」
氷の大聖霊が守護する彼女の故郷、ティアゾン獣人国。第42代国王ングヴ・ティアゾンに、この森での成果と次なる動きを伝えるのも、聖猫としての重要な役割だ。
「ああ。風の試練では本当に世話になった。すっかり元気になったとはいえ、命を削るほどの無茶をしたんだ。故郷でゆっくり休んでくれ、シャルル」
レオが労いの言葉をかけると、シャリーナは涼しい顔で頷き、少しだけ真面目な顔つきになった。
「ええ、そうさせてもらうわ。マリノンへ行くなら、次はあのいつも寝てばかりの小娘を連れて行きなさい」
「エクレアか」
レオは苦笑して、軽く肩をすくめた。
シャリーナは視線をレオから外し、隣に座るシルビアへと向けた。
「……シルビア」
「はい、シャルルさん」
「貴女の癒やしがなかったら、ワタシはあの場で完全に凍りついて砕けていたわ。……助かったわ、ありがとう」
少しだけバツが悪そうに視線を逸らしながらも、真摯な感謝を伝えるシャリーナに、シルビアは花が咲くような笑みを浮かべた。
「ふふっ、お互い様ですわ。シャルルさんの道作りがなければ、わたくしたちは一歩も進めませんでしたもの。……故郷で、ゆっくり休んでくださいね」
「ええ。貴女も、あんまり無理しちゃダメよ」
二人のやり取りを見届け、リエリーがシルビアの両手を取り、微笑む。
「シルビアさん、貴女の癒やしにワタクシも本当に助けられましたわ」
リエリーがシルビアの両手を取り、微笑む。
「わたくしの方こそ。リエリーさんの風の案内がなければ、この広大な森を迷わずに歩き切ることはできませんでしたわ。本当にありがとうございました」
シルビアもまた、満面の笑みで感謝を伝えた。それぞれの役割を全うした者同士の、静かで確かな連帯感がそこにはあった。
「じゃあ、行くよ。水の国の試練が終わったら、一旦また戻ってくるからな」
レオが【ベルコネクト】を懐から取り出し、空間に翳す。鍵の先端から虹色のマナが溢れ出し、空間に歪みを生じさせる。
「ああ。達者でな、友よ。森はいつでもお前を歓迎する」
「フン、せいぜい怪我などせぬことだ」
見送りに来ていたヴァルグとヴォルグ、そしてリエリーを背に、レオたちは時空の扉を開き、まずは次元の狭間である「箱庭」へと足を踏み入れた。
千年の呪縛を解き、新たな循環の路を森へ通すための手筈は整った。
クロロン大森林に心地よい風が吹き抜ける中、レオたちは次なる目的地――水を司るマリノン海洋国へ向けて、新たな旅立ちの一歩を踏み出した。
第2章 翠嵐ヲ越ユ ―完―




